【就活備忘録】自分のことが嫌いである。 という事実に気が付いたのは、つい最近の事だ。《川代ノート》
自分のことが嫌いである。
という事実に気が付いたのは、つい最近の事だ。
頭の回転は遅い、運動は出来ない、鈍くさい。もともと自分に取り柄がないということを自覚してはいたが、かといって自分の事は嫌いじゃないと思っていた。私ってそんなに悪くない、目に見えていいところはないけれど人柄はいいし、正直だし、感性が豊かだ。いつか私の謙虚さを認めてくれる人がきっとあわられる。そう思っていた。
「私は人柄がいい人間だ」
そう思っていたのが錯覚だったと気が付いたのは、就職活動のときだったと思う。今までは通用してきたはずの「人間力」が全く通じなかった。自分とは何も変わらないはずの周りの友人達が次々と内定をゲットしていくのに対し、私はエントリーした会社から、無情な「お祈りメール」をもらうだけの過酷な日々だった。
そもそも自分をずいぶん買いかぶりすぎていた。素直に一生懸命就活をする友人達を心の中のどこかで軽蔑していたのかもしれない。「私はそんな必死で色んなところ受けまくったりしない。自分で選んだ、本当に入りたい会社にだけエントリーする」。今まで丁寧に育ててきた、薄っぺらい「人間力のある自分」が、変なプライドとなって私に立ちはだかり、多くの会社にエントリーをすることを拒否させた。「知名度のある有名な人気企業に入りたい」というネームバリューを気にしてしまう自分もたしかに存在していたはずなのに、一流の企業を受けて落ちるのが怖いという不安に気が付かないふりをした。自信がないからこそ、自信があるようなふりをした。
そんな高慢ちきな態度が出ていたのだろう、エントリーした数少ない会社には悉く落ちた。こんなはずじゃない、と思った。自分は認められるべき存在なのだと。私のよさを理解できない社会の方がおかしいんじゃないかと思った。
でもよく考えれば当たり前だった。そんな上から目線で就活に臨む女をとりたい会社があるはずがない。運良く書類審査と一次面接は通過しても、二次面接や個人面接で落ちるのが大半だった。
どうして、と思った。
どうして誰もわかってくれないの。
どうして誰も受け入れてくれないの。
どうして誰もちゃんと私の話をきいてくれないの。
これまで作り上げてきた「自分像」が一気に崩れていく瞬間だった。周りの友人達が必死に就活している姿を見て、自分はこんな風に働く場所は決めない、ありのままの自分をさらけ出して、自分を認めてくれる会社と出会えたら、そこに就職すればいいだけの話。そう思っていた裏には、どこかに「自分は他の就活生より優秀だ」とおごる本心が隠れてはいなかったか。たいして面接官を喜ばせる努力も、自分を研究する努力もせずに、よくも「ありのまま」をさらけ出そうとよく言えたものである。ちゃんとした努力があってはじめて、素直に企業と向き合えるはずなのに、私は単に「ありのまま」という綺麗な言葉で、自分の怠惰さや未熟さをカモフラージュしていただけだったのだ。
そう、私は「自分はたいしたことのない未熟な人間である」という事実に気が付きたくないがために、「自分のことを気に入っている」ふりをしていたのだ。自分の怠惰さや傲慢さと向き合ってしまったら、努力しなければいけないということを自覚しなければならない。結局は努力をするのが面倒だから、自分に嘘をついていたのだ。「自分は人間力がある」と思い込ませていたのだ。
だがそれは幻想にすぎなかった。自分は嘘をつくことが出来ても、社会は私のために嘘をついてはくれない。残るのは「貴殿の更なるご活躍をお祈り申し上げます」という社交辞令とともに告げられる無情な現実のみである。
「きっと合う会社が見つかる」とは先輩にも言われていたが、真実を受け入れざるを得なかった。
私って、別に人の役に立たない人間なんだ。
そう気が付いたときには、本当にこの世から逃げ出したいと思った。どこか誰も私を知らない場所へ行ってしまいたいと思った。もう就活なんてやめたい。誰も私を必要としてくれない。私って何をして生きればいいの。どうすれば人の役に立てるの。そんなことばかり考えて考えて、泣いて、不安になって、家族にやつあたって。
私は、自分のことが好きじゃない。
その事実をようやく認められるようになったのは、考えつくし、泣き尽くした後だった。
もちろん自分のことは可愛いし甘やかしたくなる。でも客観的に自分を好きかときかれれば、純粋に好きとは言い難かった。
もし私が友人として私と出会ったら、とても憧れるような存在にはならないだろう。こんな女にはなりたくないと思うに違いないと思った。私には短所がたくさんあるという事実を受け入れざるを得なかった。そしてそれまで、私には短所などなく優れた人間であると思い込んでいた傲慢さも、認めるしかなかった。
私は社会と向き合うのが怖かったのだった。ずっと根拠のない自信を盾に自分を守るしかなかった。
「就職なんて縁なのに、必死で自分をよく見せるなんてバカみたい」、
そんなお決まりのフレーズで誤魔化していただけで、本当は頑張るのが面倒臭かっただけだ。努力しない理由を社会に対して必死でこしらえて虚勢をはっていたのだ。
私は怖かった。必死で努力して研究して好きになった企業に落ちるのが怖かった。大好きだった彼に振られたときのことを思い出した。熱狂的に好きなものが自分の手からすり抜けて行くときのあの喪失感、空虚さを、もう二度と味わいたくないと思った。傷つきたくなかった。だからみんなが受けるような人気の会社はわざと受けないようにした。とてつもなく好きになってしまって、その結果落ちたら絶対に傷つく。そんな目にあいたくないと思っていたのだ。だから中途半端な就活しかしなかった。
でもエントリーしていた企業にことごとく落ちたあとには、必死になって努力をする決断をするしかなかった。本気で好きになれる企業に本気でぶつかる決断を。思えばそのときにようやく、私にとって本当の就職活動が始まったのかもしれない。私は傷つくかもしれない覚悟をしたのだった。そういえば大学に合格したときもそうだったじゃないか。必死になって大好きになって、なにもかも振り切るくらいすべてをかけて努力をしなければ、なにも手にすることなど出来ないのだとようやく悟った。
そう決意してしまって、純粋な目で偏見なく企業選びをするようになったあと、私は本当に「面白い」と思える会社に出会った。決意したからこそそう思えたのかもしれないが、不思議なほど自分がその会社で働く姿が鮮明に想像出来た。面接を一緒に受ける就活生たちも、個性的で変なことに力を入れているような、好奇心の塊のような人たちばかりだった。この子達と同期になったらきっと楽しいだろうな、と面接を受けているうちから妄想が膨らんだ。
気がついたときには、私はその会社を完全に好きになってしまっていた。今までは面倒だった企業研究もとても楽しかった。その会社自体に興味を惹かれた。毎日その会社で活躍する自分を妄想して楽しんだ。でも一方で、ここで落ちたらどうしようという不安も比例して膨らんで行った。面接のたびに震える思いをした。怖かった。友人たちがどんどん就活を終わらせて楽しそうにしているなか、もしここで落ちたら私はいつまで頑張れるのだろうか、とそればかり考えた。
むろん、自分のことが好きじゃないという事実が変わることはなかった。短所ばかり目についた。自分であることをやめてしまいたいとすら思った。
今までは長所だと思っていたものごとを深く考えてしまう癖も、そのときの私には邪魔でしかなかった。自分ってなに、とか生きるってなに、とか、そういう哲学っぽいことを考えて新しい自分を発見するのが大好きだったはずなのに、一旦自己嫌悪に陥ると、もはや自分自身に酔っているうぬぼれ女としか思えなくなった。自分への信用を完全に失っていた。他の友人がきらきらして見えた。ああ、あの子と自分を交換したい、と何度も思った。
でもそこまで自分のことが嫌いでも、自己アピールを盛って話してしまおうか、とは一度も思わなかった。
私はたしかに自分には嫌いなところがたくさんあるし、治したいところもたくさんあるけれど、でもその事実を認められた今だからこそ、素直にその会社にぶつかれると思った。誠心誠意自分の思いを伝えようと思った。
自分のことが嫌いな部分も含めて私です。それでもここでやりたいことはたくさんあるんです。でもきっとそんな臆病な人の思いに共感することはできるんです。人を励ますことがしたいんです。
素直さだけでは誰にも負けないようにしようと思った。嫌いなところだらけの私にとっては、それが唯一自信を持って会社側に提出できる長所だった。
それが本当の自然体だった。嫌いでもいい。短所がたくさんあってもいい。それでようやく前に進むことが出来た。
ありがたいことに、結局その会社は私を受け入れてくれた。 ようやく落ち着く場所を見つけた安心感とともに、ひたすらに浮かんだのはありがとう、という気持ちだった。もちろんその会社に対してでもあるが、それだけじゃない、大きな感謝を覚えた。生きていることにたいして大きな喜びを感じた。すべてのものが愛おしく思えた。私のまわりにあるすべてのもの、すべての人、すべての環境・・・。そして嫌いだった自分にも感謝していた。
「自分が好きじゃない」と思うことにかわりはないのに、どうしてか幸せだった。嫌いな自分と付き合っていけることが嬉しくてたまらなかったのだ。
そのときはどうしてそんな矛盾した感情が浮かんできてしまうのか、意味が分からなかった。なぜだろう、と思っていた疑問も、知らないうちに心の隅の方へ追いやられて忘れていた。
「結局さ、さきは悩むことが好きなんじゃないの?」
最近三浦さんにそう言われた。つい数日前のことだ。なんだかんだ情緒不安定になることが続いて、それを相談したときのことだった。
そう言われた時は、そんなこと絶対にない、と思った。だって悩んで苦しんでいる時間は本当に辛くて逃げ出したくてたまらないのだ。わざわざ好き好んで悩むわけないでしょう。そう思った。
どうして自分が嫌いなのか?何が嫌いなのか。
それとも「自分が嫌い」というのは、単純に言い訳にすぎないのだろうか。
でも、ひとりでもやもやと考え込んでいるときに、就活のときの、終わった瞬間の、あの感動と感謝を。
・・・あ。思い出した。
私はたしかに自分のことが好きじゃない。コンプレックスだらけだし、前にも書いたように客観的に見ても好きじゃないところがたくさんある。もちろん嫌いなところばかりではないけれど、総合的に見て好きか嫌いかと聞かれれば、私は自分が嫌いだ。
でも、かといって、なら私は自分が不幸だと思うか、ときかれると、強く首を振らざるを得ない。
就職活動のときにも感じたことだが、私は幸せなのだ。とても。
悩んで、苦しんで、もやもやして、自分のことが信用できなくなって。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、うろうろと彷徨いながらも、それでもそういう人生をおくれていることがすごく幸せ。
自分のことがわからなくなって、何をしても楽しくなくなって、辛くて、窮屈で。でもそうして苦しみながらも、苦しんでいるからこそ、一歩ずつ進んでいるこのささやかな人生が、たまらなく愛おしい。
こうして上がったり下がったりしてばかりいる自分の人生が好きなのだ。
「自分のことが好きか」という問題と、「自分の人生が好きか」という問題は、また別の話なのである。
つまり、私は自分のことは嫌いだけれど、自分の人生じたいはとても好きなのだ。
たとえばもし、私が憧れる友人になれるとしたら、私はすごく迷うだろう。優しくて心が広くて、多くの人々から好かれる友人になってみたいと思う。
だがもし目の前に、自分の人生と、その憧れてたまらない友人の人生が二つあって、どちらかを選べるとしたら、私は迷わず自分の人生を選ぶだろう。
寸分の迷いなく、私は自分の人生を選ぶ。
結局は、いろんなことに影響されて傷つくことによって、少しずつ成長していって、傷つく人の気持ちもわかるようになっていく、そんな自分の人生が面白くてたまらないのだ。
私はたしかに迷ってばかりで、落ち込んでばかりで、調子に乗るとすぐに釘を刺されるかのように嫌なことが起こるし、失恋もするし、裏切られもするし、大失敗はするし。そんなことばかりだけど、だからこそ、そのなかから学ぶことは数えきれないほどあって。
これまで歩んできたのはたった21年の人生だけれど、胃が痛むような辛い瞬間も、泣いても泣いても涙がとまらなかったあの日も、今振り返ればすべてがつながっていて、いらない出来事なんてただのひとつもなかった。どの瞬間も私の人生に絶対に必要な出来事だったのだ。
苦しくて息が詰まるようなことがどんどんこの身に起こるからこそ、何も嫌なことがない楽しい平和な人生よりも、発見がとても多い。そういう自分の人生の方が、味があって面白いと私は思うのだ。
女はドラマチックを求める。
というけれど、まさにそうなのかもしれない。
三浦さんの言うとおり、私は「悩んで苦しむのが好き」、もとい、「悩んで苦しむことによってより多くのことに気が付ける人生が好き」なのだ。
だってその方が、ドラマチックで、ロマンチックで、文学的じゃないか。楽しいことも辛いことも、同じくらいたくさん起こる人生の方が、ドラマになる。
だって、この人生のヒロインは、誰が何と言おうと私なんだから。
上がったり下がったり。なんて面白い物語なんだろう。
もし、小説になったら。映画になったら。きっと大ヒットするに違いない。
そうこっそりと、したたかに妄想していれば、今自分が抱えている「自分が嫌い」という悩みなんて、本当に些細でどうでもよくて、可愛いものだ。
たくさんの、自分への悩みや不満を抱えていられることを本当に幸せに思う。
ああ、生きているって、なんて素敵なことなんでしょう。
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