リーディング・ハイ

57歳の僕は、振り返って問う「勇気を持って」生きてきたのだろうかと《リーディング・ハイ》


勇者

 

記事:西部直樹(リーディング・ライティング講座)

 

 

車のフロントガラスの向こうには、呆然と立ち尽くす若者の姿があった。

ぶつかるかもしれない。

彼を轢いてしまうかもしれない。

しかし、フォードのハンドルはいうことをきかない。

右にも左にもハンドルを切ることはできない。

切ったら……

ブレーキを踏むのも躊躇われる。

いまブレーキを踏んでも車は止まらないから。

 

瞬く間に、フロントガラスの向こうの景色は変わる。

路肩に止まったトレーラーが見える。

大型トレーラーの運転手はこちらをただ気の毒そうに見ている。

肩をすくめたのかもしれない。

 

次の瞬間、道の端の谷底が見えたように思った。

と、車は、後ろ向きに滑り落ちていく。

 

アリゾナ州のフラッグスタッフから、山を越えところにあるネイティブアメリカンの居留地を取材した帰りの出来事だった。

 

夏の終わり頃だった。

フラッグスタッフは、爽やかな晩夏の気候で、レンタカーは夏タイヤだった。

しかし、帰り道、峠にさしかかったところで、猛烈な吹雪に見舞われた。

山は初冬だったのかもしれない。

運転に難渋したのか路肩に止まっている車が多かった。

 

そんな中で、わたしの運転する車は、下り坂でスリップしてしまったのだ。

車は、コントロールを失い、凍った路面をただ廻るだけだった。

道の右側は、深い渓谷、落ちたら……

左の山側には一段深くなった側溝があった。

 

車は、滑り落ちすぐにとまった。

山側の側溝に落ちたのだ。

 

谷底でなくてよかった。

しかし、側溝に落ちた車は、動くのか。

リアバンパーはどうなんだろう、レンタカーなのに。

 

わたしの頭の中は、谷に落ちなかった、誰にも、何にもぶつからなかった。

その安堵と、この山の中で車が動かなくなったら、という不安が渦巻いていた。

 

そして、同乗している同僚女性へは、声をかけることはなかった。

 

彼女とは、この取材旅行のために随分と前から準備を共にしてきた。

同僚の女性は美しい人だった。

準備をしていて気がついたのだが、美しい外見に似合わず、性格はきつめだった。

 

彼女に、この失態を何といわれるのか、恐ろしくて、声をかけられなかった。

 

運転の下手さをなじられるかもしれない。

危険に晒したことを非難されるかもしれない。

帰ることができるのかどうか不安にさせていることを咎められるかもしれない。

 

彼女は、車が側溝に落ちて止まると、静かにしていた。

わたしには、勇気がなかった。

困難な事態に的確に対処する度量も、知恵もなかった。

ひと言声をかける勇気もなかった。

 

わたしは、ただのヘタレだったのだ。

 

車は幸い外装が多少へこんだくらいで、運転に支障はなく、側溝も深いものではなかったので、自力で抜け出すことができた。

 

フラッグスタッフまでの道のり、私たちは黙ったままだった。

日本に帰ってきても、その関係は修復することなく、気まずいまま、その会社を辞めることになった。

 

あの時、少しの勇気があれば、アリゾナの山中での事故は笑い話になっていたかもしれない。

彼女との関係は気まずいものにならず、友人関係でいられたのかもしれない。

 

あの時……。

 

それからしばらくして、新しい会社に入った。

その会社の社長は、ワンマンであり、ある種のカリスマだった。

私は、ひたすら仕事をし、新しい事業を立ち上げていった。

新しい事業が軌道に乗ると、そのことがカリスマな社長の悋気に触ったのか、

それから何かと理不尽な要求をされるようになり、最後には、「独立したらどうかな」と退職を迫られるまでになってしまった。

 

そこまで言うのなら、とまだ準備も整わないうちに退職、独立することになる。

独立後に、ある会合でそのカリスマ社長は、知人など仕事関係者のいる中で、私に向かって、「君は1年持つかなあ」と言い、周りの取り巻きたちに「1年は持たない、と思う」と同調を求めるように言うのである。

 

あまりの理不尽さに手が震えた。

しかし、私は仏頂面で黙っていることしかできなかった。

 

その後、私はそのカリスマ社長とは没交渉となってしまった。

 

あの時、少しの勇気があれば……

私はもう少し自分に自信を持てたかもしれない。

 

あの時……。

勇気を持って、生きていたなら……

ヘタレでなかったなら。

 

 

「勇者たちへの伝言」の主人公は、中年のヘタレである。

やめ時を失い惰性のように続けている大阪の放送作家。

彼は阪急神戸線の車内アナウンスの「西宮北口」を「いつのひかきたみち」と聞き間違えてしまう。彼は衝動的にその駅で降りてしまう。かつて阪急ブレーブスの本拠地、西宮球場のあったところだ。

彼が幼い頃、野球に関心のなかったはずの父が、一度だけプロ野球の試合に連れてきてくれたところでもある。その跡地から、この物語ははじまる。

彼の父は、ラジオを聴きながら仕事をしていた。野球の中継になるとダイヤルを変えてしまう。それほどに野球に関心がない、いや嫌いかもしれない。それなのに、なぜ西宮球場に彼を連れて行ったのか。そこには何があったのだろう。

父の人生、父に関わった人の人生と、物語は輻輳し、そして、収斂してゆく。ひとつの「勇気を持て」という言葉を軸にして。

 

 

 

この本を読み終えたのは、乗車率110%くらいの電車の中だった。

しまったと思った。

なぜ、電車の中で読み終えてしまったのか。

家に帰って、風呂につかりながら読み終えればよかった。

ハンカチを取り出し、私は鼻をかむふりをして目頭を押さえた。

何度も。

 

 

過ぎた過去は変えることができない。

ならば、未来は変えられるだろう。

勇気を持てば、変えることができる、何もしないより、変わる可能性が高まるのだ。

 

やはり、家で読み終えるべきだった。

この本を胸に抱き、家の屋上から星空(あまり見えないかもしれないけど)を見上げたかった。

過ぎたことを拘ることなく、次に向かっていこうと、星に誓いたかった。

 

電車の中では、ただ、ハンカチで鼻をかむふりをして、瞑目しているしかない。

ただ、ただ、いい本に出会えたと、感謝しながら。

 

 

紹介した本

勇者たちへの伝言 いつの日か来た道  増山実著 ハルキ文庫

 

 

 

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2016-07-24 | Posted in リーディング・ハイ, 記事

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