拝啓 「西加奈子」先生、お願いです。どうかもう32歳独身女のことは、そっとしておいてください。《リーディング・ハイ》
何気なく座ったその席に、素知らぬふりをした本がずらりと並べられていた。
見るつもり、読むつもりはなかったのに、
これでもか! というほど、デカデカと帯に書かれていた文字が気になった。
『西加奈子の必読本』
どんな話だろうと思い、思わず手を伸ばし、ふと裏表紙を見た。
瞬間
そのまま、何もなかったふりをして、本を表に返し、元の場所へと戻した。
鼓動が小さく早く打っている。
それは、初めて訪れた彼の部屋の洗面所で、
何気なく開けた扉から、クレンジングオイルとウェーブヘア用のスタイリング剤がこんにちは。静かなパニックを抑えながら、そっと扉を閉める、あの感覚。
急に立ち寄ることになった彼の部屋で、何気なく手を伸ばしたテーブルの上に無造作に置かれたチラシの下から、
『湯けむり混浴なんちゃら』的なタイトルが、こんばんは。
出来るだけ無駄な動きをしないよう、スッとチラシをかぶせた時の、あの感覚と同じ。
見てはいけないものを、見てしまった。
頭で理解する前に、体が反応する、あの感覚。
それくらい、わたしの目に飛び込んできたあの一文には力があった。
見てはいけないものを、見てしまった。
だからこそ、気になる。
気になって仕方がない。
知らないふりをしたい。
だけど、知りたい。聞きたい。見たい。読まずにはいられない。
結局数日後、わたしはドキドキしながらこっそりとその本を購入した。
可愛い猫が背中を向けている、ほのぼのとした表紙。
ひっくり返して裏を見ると、やっぱりあの恐ろしい一文が書いている。
『女32歳、独身。誰かにのめりこんで傷つくことを恐れていた――』
思わず瞼に力が入り、ごくりと唾を飲む。
お化け屋敷の入口の扉に手をかける、あの瞬間に似た緊張感が走る。
絶対良くないことが起こる。
絶対怖いことが起こる。
それは、わかっている。
なのに、気になって仕方がない。
「押すなよ、押すなよ!」と言いながら、背中に触れる感触が待ちきれない。
体の奥底から湧き上がってくる衝動を、抑えることができない。
押されたい。押されたい。
その世界の中に飛び込んでみたい。
恐怖心と期待から、小刻みに震える指で、ページの端をつまむ。
――だめだよ、だめだよ!!
心の奥で、小さなわたしが叫んでいる。
――そんなの読んだら絶対にだめ!
いい? あなたはもう32歳!
同級生の友達は、みんな結婚どころか子育てもしてるの。
20代とは違うの!
もう安定を求めなきゃいけない時期なの!
のめりこむとか、傷つくとか、興味すら持っちゃだめなの!
そういうのはね、優しい旦那さんと、すやすや眠るかわいい我が子のツヤツヤのほっぺを撫でながら、「こんな恋もあるのね~」って微笑んで、
そうやって余裕のウフフを操れる人しか読んじゃ駄目なの!
そんな自分の声に、自分でもうなずく。
わかってる。わかってるよ。
そんな話に共感してしまったら一巻の終わり。
明るい未来はどんどん遠ざかる。
わかってる。
わかっては、いるんだよ。
でもさ、ちょっとくらいいいじゃん。
ちょっとくらいなら。
どうせ、作り話でしょ……
そのときのわたしは、
この本の作者が「西加奈子」先生だということを、
知ってはいたけど、わかっていなかったのだ。
なぜなら、「西加奈子」先生は、いつだってわたしの味方だった。
ブスだって美しく生きたっていい。
脳内奇抜だって、誰かと笑い合ってもいい。
隠したい過去があっても、正々堂々胸を張っていい。
人も景色も世の中も、何もかもがそのままで美しい。
変なら変なまま、あなたはあなたのまま、
ただそれだけでいいんだよ。
そう、励ましてくれた。
だから、「西加奈子」先生に期待をしていたし、信じていた。
実際、32歳で自意識過剰な痛い女だって、
やわらかなしあわせを掴むことができる。
そう、教えてくれたのも、「西加奈子」先生だった。
だから、今回だって、
「西加奈子」先生なら、きっとわかってくれる。
『女32歳、独身』のこころを見抜き、適切な物語を届けてくれるものと思っていた。
信じていた。
信じたかった。
なのに。
こんな裏切りがあるなんて。
こんな突き落し方をするなんて。
いや、もしかしたら、心のどこかでは、わかっていたのかもしれない。
「西加奈子」先生なら、ただの恋愛物語を書くわけがないって。
本当は心のどこかで、こうなることはわかっていたのかもしれない。
だけど。
それでも、信じたかった。
報われるんじゃないか、救われるんじゃないかって、信じたかったんだ。
だけど、これは、
32歳の独身女が甘い夢を見られるファンタジーなんかじゃなかった。
きっとまだわたしにも待っているはずだと期待する、ウキウキうっとりな夢物語なんかじゃなかった。
32歳の独身女が傷つくことを厭わずにのめりこむ恋愛。
それは、ハイビジョンの大画面で、目を見開いた山村紅葉が絶叫する火サスだ。
小刻みな低音のBGMで追い詰めるだけ追い詰めて、
最後には女の叫び声が響き渡る。
いつか恐ろしいシーンがやってくるとわかっていて、
それでも心から怯え、叫んでしまう。
サスペンス以外の、何ものでもない。
いや、サスペンスどころではない。
これはもう、ホラーだ。
人間が犯した恐ろしい罪なんかとは比べ物にならない。
この世の物とは思えない恐ろしい化物に食い尽くされる、
身の毛もよだつホラーでしかない。
こんな話を32歳独身女が読んでいいわけがない。
ひとり夜中に悪夢にうなされトイレに目を覚まし、隣の部屋や下の階にうるさがられないよう、物音を立てないよう、コソコソと歩く。
タイマーをかけている炊飯器の小さな光がぼんやりと強烈に黒目を狙い、
手を洗おうと蛇口をひねるとガス給湯器がポーッと情けない邪魔くさい音を鳴らす。
こんなことをしていて、また熟睡に戻れるわけがない。
結局朝までうつらうつらしてしまい、
アラームの1分前に、ダル重い体を無理やり起こす。
瞼はうっすらと腫れ上がり、アゴ下にはニキビ、いや、吹き出物がおはようございます、だ。
恐ろしい。
32歳独身女にとって、感情を乱すことほど、何かに心を奪われることほど、誰かにのめりこむほど、
恐ろしいものはない。
だから、だ。
32歳独身女は、絶対この本は、読んではいけない。
帯も今すぐ取り替えるべきだ。
「穏やかな幸せを求めるなら、絶対に読んではいけない」
そう、書くべきだ。
誰が「西加奈子」の『必読本』なんて書いたんだ。
恐ろしい。
32歳の独身女性に対して恨みを持つ誰かの陰謀だ。
32歳独身女の慎ましくも穏やかな日々を壊そうとする策略だ。
32歳独身女にはもう、後がない。
結婚願望が少しでもあるならば、ここからはもう恋だの愛だの言っていられない。
誰かにのめりこんで、傷ついている暇なんて、もう残されていない。
だから、決して実らない恋とわかっている男に、運命なんて感じてはいけない。
鋭い指摘をしてくる男に、「この人だけがわたしを理解してくれる」なんて、浅はかな期待をしてはいけない。
それなりの語彙力も身に付け、ある程度の恋愛経験を重ねてきたのに、
思わず「好き」と口走ってしまう、そんな20代みたいな恋は、してはいけない。
彼のすべてを手に入れたい、叶わないならば、その体の一部を奪ってしまいたいと思うほど、狂おしい程の愛なんて、知らなくてもいい。
髪を振り乱し、自らの涙に溺れ、野生の動物のようなうめき声で叫ぶほど、誰かを欲し、恋い焦がれてはいけない。
そんな、人生を狂わせるほどの恋に、心を奪われてはいけない。
そんなことをしたら、おだやかであたたかな幸せは、どんどん霞んで遠ざかる。
のめりこんだら、だめだ。
自分を見失うほど心を奪われたら、そこで一巻の終わりだ。
そう、もう32歳のいい大人だ。
だから、本当はわかっている。
心を奪われてしまうほど、自らを見失ってしまうほど、
狂おしい恋に身を投じてはいけない。
そんな恋の存在そのものに、気付いてはいけない!
見てみぬふりをしなければ、いけない。
そうやって、生きてきたんだ。
ある時から、心の奥底にある衝動には気付かないふりをして、
穏やかで明るいぼんやりとした光だけを見つめようと、心に決めていたんだ。
それなのに!
「西加奈子」先生、どうしてこんなにも恐ろしいホラーを、
32歳独身女に突きつけたんですか。
反面教師にしては、後味が強烈過ぎます。
見て見ぬふりをしたいのに、
気付かないふりをし、今日も今日とて生きていきたいのに、
心のザワザワが止まりません。
あぁ、それなのに。
それなのに、「西加奈子」先生。
なぜ、今更になっていつものように、
やさしくあたたかく、その言葉を、届けようとするんですか。
大丈夫。
あなたはあなたのままで、ただそれだけでいい。
人も景色も世の中も、ただそれだけで美しい、と。
「西加奈子」先生!
お願いです。
どうか、それだけは否定してください。
これは悪い冗談だと言ってください。
こんな風になっちゃいけないよ、って。
32歳の今この瞬間に、
本能のまま、心惹かれるまま、運命を信じ、誰かにのめりこみ、心を奪われるほどの恋に身を投じては、絶対にいけない。
そう、言ってください。
あぁ、これは、この本だけは誰にも勧められない。
32年間、生傷耐えない恋の苦しみと葛藤しながらも、束の間の穏やかで幸せだった頃の記憶を頼りに日々を生き続けている。
そんな、頑張る32歳の独身女性仲間には、
決してこの本は、勧められない。
この本は、絶対に読んではいけない。
絶対に、だめだよ。だめだよ。押すなよ。だめだよ。
うっかり本屋さんで見かけても、見ないふりをしてほしい。
表紙を開いたらもう終わりだ。
いい年の大人にだって、一度手にとったその本を読み進めたいという衝動を、抑え切ることはできない。
できない。
できなかった。
わたしにも、できなかった。
結局わたしは、すべてを、読んでしまった。
この恋の結末を、知ってしまった。
「ふー」を通り越し、「あぁぁぁぁぁ」と大きな溜息をつきながら、
本を閉じる。
裏表紙のあの恐ろしい一文を読み返し、「勘弁してよ」とほくそ笑む。
そして、本を表に返した時、ふと自分の手元を見て、わたしは凍りついた。
こ、これは、これこそが本当のホラーだ!
読んだ人にしかわからない、
あの恐ろしい恋の結末を知る覚悟を持ち得た人にしか知ることができない、
背筋のゾクゾクする恐怖が、待っている。
「西加奈子」先生、お願いです。
どうかもう、32歳独身女のことは、そっとしておいてください。これ以上、感情をかき乱し、毛穴のすべてから鳥肌の立つような、恐ろしい程の感激の興奮を、与えないでください。
32歳まで独身でい続けたからこそ大きく頷いてしまう、こんな作品は二度と書かないでください。
傷を負う度に固くなってしまったこころを、やさしく包み、
「それでいいんだよ、それだけでいいんだよ」と、あたたかく微笑んでくれる、そんな作品は、もう、絶対に書かないでください。
こんな衝撃は、もう、この作品だけで、充分です。
どうか、穏やかで平凡な日々を淡々と過ごせるよう、繰り返し読んでは興奮してしまう、こんな恐ろしい作品は、もう、書かないでください。
「白いしるし」西加奈子著、2013年、新潮文庫。
………
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