冥土・イン・ヘヴン。(もしくは、セックスなんかで天国に行けるもんか)《リーディング・ハイ》
記事:おが あやな(リーディング&ライティング講座)
笑いながら、手をつないで逃げた。
子供みたいに全速力で。天国のようなラブホテルへ。
部屋のど真ん中には、白馬が一頭だけのメリーゴーランドがあった。見てよあれ、すごいよ初めて見た、と、天蓋付きのベッドを指さして笑った。皺ひとつ寄っていないシーツに飛び込んで、クロールの真似をした。まったく、子供みたいなやつだとこぼしながら、ほら、あなただってこみ上げる笑いを止められない。
低い声がくっくと笑う。私は、きめの粗い素肌を、筋肉の盛り上がった肩をべろりと舐めた。今初めて知ったんだけど、男のからだって、案外やわらかいね。
あなたは既にワイシャツを床に落としていて、なんだよう、やる気なんじゃないか、ばかだな、はじめからやる気満々だよ俺は、くだらない会話で盛り上がる。
ちぐはぐだ。ひどく現実感がない。体温を感じるのに、汗の味もするのに、生々しくはなかった。ふわふわしていた。私たち、ちゃんと生きてるのかな。もしかしたらもう死んじゃってるのかも。でもでも、それならそれでいいよね。ふたりで、天国にいるんだ。メリーゴーランドも、天蓋付きのベッドもあるロマンチックな天国に。シーツの花畑で遊んでいるのだ。
しかし、汗はかく。あなたの大きな手が、私の額をぬぐった。死人は汗をかかないだろうから、まだ生きてるんだろう。少なくとも私は。
不安に駆られて下から手を伸ばす。喉仏のこりこりした感触を楽しむ。ぐえ、とわざと汚い声を上げるから私はまた笑った。しばらく無言でもぞもぞしていたあなたが、ついに中のものをぜーんぶ放ってしまって、あぁ、結局あなたも生きてるんだなぁと思った。死人は汗をかかないんだし、射精なんか尚更しないだろうから。嬉しくなった。よかった、私ひとり生き残ってなくて。
ねぇ、天国に連れてってよ、私は囁く。
俺のテクで? わざと下品にあなたは聞き返す。
ぷっ、と一度吹き出すと笑いが止まらなかった。いつだってそうだ、この男には下品さがあまりに似合わないのだった。なんとなく滑稽になってしまうのだ。私は涙が出るほど笑った。どうしようもないね、最後の最後まで馴染めなかったね、この世界に。
涙が落ちていく。この場所が本当に天国なら、しずくを縫いとめてネックレスを作れたのかもしれないなぁ。
いいなぁ、死んだらやってみよう。あなたと私の涙を交互につないで、ネックレスを作ろう。
ロマンチックを致死量まで詰め込んだ、世界で一番ばかげた場所で、私たちは泣き笑いしながら、最後の時を迎えようとしていた。
白いシャツがあなたにはよく似合う。床に落とされて、グレーのスラックスやら靴下やらに埋もれた、清廉なシャツ。汚れて黄ばんでしまえば楽なのに、あくまで白い色を保とうとする頑なさが、あなたらしかった。こんなに愛しく思っているのに、激情に襲われる。シャツを踏みつけてしまいたい。皺をつけて、足形を残したくなる。
私は素っ裸でコップに淡い白の粉末を入れる。最近太ったからお腹の肉がぶるんと震えた。あなたも素っ裸でベッドサイドに腰かける。ふたり並んで、コップを手にした。
「本当にいいの?」
いいよ。
「本当に、本当に?」
いいってば。
「後悔しない?」
しつこいよ。
にらみを利かせればそれ以上は何も言わない。あなたは手の中にあるコップをじっと見た。私もそれに倣う。コップを持つ手が震えて、水面に小さな波紋を描く。粉末がとけても変わらず透明だった。
夢見がちなパステルピンクの壁紙の中、私たちがやろうとしていることは本当に現実なのかな。おふざけで、青酸カリ入りのミネラルウォーターを飲み干そうとしているなら、たぶんばかなんだと思う。いや、間違いなくばかだ。うん。
生きづらいね。悲しいね。
疲れちゃったんだよね。
だからってふたりで死のうなんて、普通なら考えつかないよ。余程ばかじゃなければ思いつかない。人生で一番幸せなときに死のう、だなんてさぁ。よく訓練された女の子の殺し文句で「天国に行っちゃいそう」って台詞があるけれど、本当にセックスで天国に行けるわけないでしょ。
死が真に迫ってきても、このロマンチックすぎる部屋では依然として現実味がないのだった。生の極みたる生殖行為があれほどふわふわしていたのだから、しょうがないと思う。
おふざけの延長でこのまま死ねる? ふわふわと楽しく、笑いながら、手をつないで。
なんか、悪趣味な心中だね。
あなたは長く躊躇ったあげく、目をつむり一気にコップを傾けた。
ぐ、と喉が鳴り、あなたの手から、コップは滑り落ちる。あっけなくガラスが飛び散る。
「ぐ、ぐう」
ごめん。
「う、うぅ……」
ごめんって。
「……しょっぱい」
それ、味の素入ってるから。旨み成分だし、まずくはないはず。
私はつぶやいた。感情の乗らない声で。自分に言い聞かせるようだった。あなたの情けない顔に一瞬だけ笑った。それから、私はまた泣いた。
たぶんさぁ、このまま一緒に死んでも天国には行けないよぉ。
笑いながら地獄に落ちるだけだよ、きっと。
自分の分のコップを床に叩きつけて割った。はじけ飛ぶ塩水。壁紙と同じパステルピンクの床が、濡れた部分だけ色を濃くする。その濁ったピンクは、今日見たすべてのモノの中で一番生々しかった。
生きることって、汚れることなのかなって思うんだよね、私。
このピンクの床みたいに、さ。
きれいなまま生きていけたらいいのだけれど、そうもいかないじゃない。
いやなことはあるけれど、やっぱり生きててよかったってあなたに言ってほしいんだよ私は。その言葉を聞くまでは、絶対に行かせない。何度だって味の素を入れてやる。旨み成分入りのミネラルウォーターで、みっともなく泣かせてやる。
素っ裸だったあなたは、床の白いシャツを拾う。すす、と腕を通してから、慎重に私を抱きしめた。肌と肌で抱き合っていた瞬間よりも、リネンの素材越しの方が、不思議とあなたの気持ちが伝わる気がするよ。頑なさ、惨めさ、やるせなさ。あなたが今までに感じてきた生きづらさが、この白いシャツには詰まっているのかもしれないね。
生と死が曖昧なラブホテルの一室で、私たちは静かに抱き合った。死が目の前にあるから、生きていることを実感できる。むしろ、そこまでいかないと踏みとどまれない、弱いふたりだ。
ねぇ、いつかほんとに天国に連れてって、私は懲りずに囁いた。シャツの裾を握り締めて、皺を作りながら。あなたがこっそり離れていかないように、こうしてつなぎとめている。
ひとりで、なんて考えないで。一緒じゃなきゃやだよ。
だってあなたひとりじゃ、ブレーキをかけられないでしょう?
あなたはまた、似合わない台詞を口にする。不安がる私を思いっきり笑わせるために。
私はぷっと吹き出した。
「きみがいないなら、天国だって地獄と同じだ」
***
三浦しをん「天国旅行」(新潮文庫)を読んで
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