2時間の電車通学、通勤の時間が今は、何よりも愛おしく思える。《スタッフ山中のつぶやき》
あぁ。嫌だ。行きたくない。行きたくない。
できることならこのまま家の中で、へやの中で、布団の中で。
じっとじっとしていられたらどんなにか幸せだろう。
毎朝、目がさめるたびにそんなことを思う。
目覚まし時計を止めて、携帯のスヌーズ機能を何度も何度も何度も止めて、でもそれでも私の頭は布団の中にずっと埋もれている。
「朝ですよ〜。 もう時間ですよ〜」
と最初は遠くから優しく聞こえていた母の声も
「起きなきゃいけないんじゃないの? 遅刻するよ!」
と、だんだんと大きく、強くなる。
しまいには「もう、いい加減に起きなさい!」とベリっと掛け布団を剥がされてしまう。
最高のバリアを失ってしまえば、パジャマ姿、寝癖姿の私には、もう戦う術は残っていない。
その顔一杯に太陽の光を浴びたなら、眩しいのか、それとも太陽が憎らしいのか。ひどいしかめ面で、朝日を燦々と浴びることになる。
あぁ。嫌だ。行きたくない。どーーーしても行きたくない。
朝は苦手だ。
低血圧だとか。寒がりだとか。苦手な理由を挙げればいくらでも出てくるのだけど、そんな数ある理由の中で1番と言っていいほど。私はあの“魔の空間”に向かうことが何よりも嫌だった。
朝ごはんの納豆卵かけご飯をかき混ぜながら、
テレビの右上の時間の表示をじっと見つめる。
もしかしたら緊急の警報が出るかもしれない。そうしたらこのまま外に出なくてもよくなるかもしれない
そんな儚い希望を抱きつつ、あっという間に家を出る時間になる。
私がこんなイヤイヤ家を出ていることなんて母はきっと知らないだろう。
でも、毎日元気よく送り出してくれる母を、心配させるわけにはいかない。
楽しそうに玄関を出た後は、いざ気合を入れてその空間へ足を踏み入れる覚悟を決める。
中学一年生からずーっと毎日やっていることではないか。
今更嫌がってどうするのだ。
でもこればっかりは10年続けてきても好きになれそうもない。
現実世界にドコにでもいけるドアがあったらいいのに。そうしたら、あの空間を飛び越えて、一気に学校や職場に飛んで行けるのに……。
そうして駅のホームに並ぶ列の一番後ろにため息をつきながら並ぶ。
どうしても、どうしても私はあの電車の時間が好きになれない。
私の住んでいた街はいわゆるベットタウンだった。
人が住むための町。それだから、どこに行くにもまずは電車に乗らなければいけない。地元の中学とは別の学校に通っていた私は、中学高校6年間を電車で1時間半かけて通学していた。それこそ魔の1時間半である。
朝7時。横浜から、渋谷へ向かう東京東横線はどうしようもなく混んでいる。
電車を待つ列は、1つのドアに対してざっと10人が並んでいるのが3列。何本電車を待てば自分の乗れる番になるだろうと思ってしまいそうだが、この30人が1本の電車に意地でも乗り込む。
ドアがひらけば、そこはもうさながら戦場である。
おなじみの椅子取りゲームは先頭の3人に早々に負ける。そうなると次は
席の前に立つ場所とり合戦。この人は早い駅で降りそうだなと、心のかなで勝手に予想をした上で。その人が座る目の前にポジションを取る。
でも、それすら負けてしまったら、あとは野となれ山となれである。
ドア付近に身を置けば、どれだけの人が乗ってくるかがよくわかる。
まさかもう乗れないだろうと思った時点から、さらにもう5人くらい乗り込んできて、さらに追い討ちをかけるように駅員さんがもう2人を入れるためにぎゅうっとドアの前に人を押し込む。押し込まれながらも電車ってこんなに人が入るのかと感心してしまうほどである。
持っているカバンを離さないように抱え込んで、その波に自ら飲み込まれていく。携帯電話も、文庫本も出せるような余裕はもちろんない。
まずは自分のスペースを確保することと、そして他の人の迷惑にならないように細心の注意を払うこと。逆を言えば、あとはすることはない。することができない。
ある時は倒されないように身を固め、またある時は降りる人の邪魔にならないように流動的に動く。
あれ? 私の足って今どこにある?
腰が変な風に曲がっている。次の駅に着いた時に体制を立て直そう。
このパターンはここに重心を置いた方が安定する。なぞと
全神経が自分自身のことにのみ集中する。
そんな毎朝が6年間続いた。
もう、電車なんてきらいだ。
もし学校が家の近くにあるならば、もっと長く寝ていられるのに。
その分有意義な時間が過ごせるはずなのに。
でも社会人になってもやっぱりその日常はかわらなかった、毎日池袋の書店まで2時間かけて通う毎日だった。
出勤時間が遅かったため、満員電車に乗ることは少なくなったが、逆に帰りが遅くなることが多くなった。
終電が近くなると、満員電車とはまた別の恐ろしいことが起こる。
「あ、今のが最後の急行だった」
いやしかし、まだ帰れる。ただしそうなると、あとは各駅停車を残すのみ。
池袋から横浜まで、一駅一駅ゆっくりと地道に進んでいく。池袋の書店から家までの2時間半の長旅のスタートである。
最初の方はいい。読みかけの本を読んで、携帯で色々なニュースをチェックする。眠たくなったらうとうとできる。
でも2時間半ともなるとその3つすべてを終えてしまってもまだまだ家にはたどり着かない。
あぁ、つかない。うぅ、まだ半分もいってない。
そわそわ、そわそわ落ち着かない。
やっとの思いで最寄駅にたどり着いた時には仕事の疲れとはまた違う疲労感に包まるようだった。
もう、電車なんてきらいだ。
もし職場が家の近くにあるならば、さっと家に帰って、翌日の準備ができるのに。その分有意義な時間が過ごせるはずなのに。
嫌い嫌い。電車なんて嫌い。
混んでてもそうでなくても。あの空間は私にとって、何よりも魔の空間だった。
一人で乗ったところで、何かするにも限られてしまう。携帯も本も寝ることにも飽きてしまえば、しまいに車内の広告をじーっと眺めて、いろんなことに思いをはせることしかできない。
二人で乗ったところで、なかなか話すことも難しいし、儀礼的無関心が働いて、親しいはずの友人との会話も周りを気遣って妙な緊張感が生まれてくる。
電車なんて。移動のために仕方なく乗っているけれど、もし乗らなくていいならば、もう絶対に乗らない。
12年間電車に揺られ続けて思うのはそのことばかりだった。
そんな私の思いは今年の1月にようやく叶うこととなった。
京都への引越しは、私から電車を大きく切り離したのだ。
自転車に乗ってどこまでも行けるこの街は、電車に乗るともなれば
「え? そんなに遠出するの?」という感覚らしい。
家から天狼院書店まで、夢の自転車通勤を始めた私は、毎日のあのストレスから解放されたのだ。
ギリギリまで布団に埋もれることもできる。
職場を出たらその10分後には部屋に到着することができる。
満員電車に、揉まれることも、
長い長い電車の旅に手持ち無沙汰になることもない。
私はやっとあの魔の空間から解放されたんだ!
これからは電車で過ごしていた時間をもっともっと有意義に使うことができる。
1時間早く洗濯もできる。1時間長く寝ることもできる。あぁ。なんてすばらしいんだろう。
天狼院と自宅とを自転車で行き来するだけの毎日だったけれど、電車がない分健やかに過ごせるようだった。
「梅田駅で、羽海野チカさんの展示会があるんですよ」
そう聞いたのは、京都天狼院ができてから3ヶ月が経とうとしていた時だった。
羽海野チカさんといえば、映画アニメになった大ヒット漫画『ハチミツとクローバー』『3月のライオン』の作者。
実家にあるのにもかかわらず、京都でも改めて両タイトルとも全巻大人買いしてしまったほど私も大好きな漫画家さんである。
その原画展が、大阪は梅田で開催されるという。しかも、池袋で開催されている時にタイミングが合わず行けなくて、ものすごく後悔したものと同じものだった。それがなんと運良く大阪に凱旋してきたそうな。
これは何としても行くしかない。
たとえ電車に乗ることになったとしても行くしかない。
調べてみれば会場は天狼院からほど近い河原町駅から電車に揺られて40分。乗り換えなしで行くことができるらしい。
これはもう、意を決するしかないな。
約3ヶ月ぶりの電車に乗る嫌な気持ちよりも、原画展に行きたいという気持ちが勝った瞬間だった。
その日は急いで仕事を片付けた。すっかり使いなれなくなってしまった乗り換え案内を開く。Suicaを奥底から引っ張り出して、改札を抜ける。
シートに腰掛け、今から40分か何をしようかと思いをはせる。
久しぶりにツイッターでも見ようかな。
今ニュースではどんなことが取り上げられてるんだろう。
そういえば、ずいぶん前に読みかけていた本がずっとカバンに入ってたな。
あの電車広告面白い! なるほどよく考えてるなぁ。
そういえば、この前食べたプリンおいしかったなぁ。作り方調べてみよう。
あとは、あとはえーっと。
「梅田〜。梅田です」
ハッとする。気がつけば。もう目的地についていた。
あれ? まだまだやりたいことがあったのに、いいや帰りの電車でやろう。
さて、帰りの電車は何をしようかな♪ さっきの続きを早く調べたいなぁ。
電車の時間っていいなぁ。集中できるなぁ。
ん? そこで初めて気づく。
電車の時間ってこんなにも充実したものだったっけ?
少し気になっていたことを思い出して調べてみたり
読みかけていた小説を改めて読んでみたり
関心がないと思っていた情報に驚いたり
ふと目にしたものについて考えて、新たな発見をしたり
いつか使うかもと、部屋の片隅にずっと置いていてある事柄を一気に掘り出していくようだった。
こんなにも自分のためだけに時間を使うことは本当に久しぶりだ。
その40分間は間違いなくとても楽しい時間だった。
電車の中ではやれることが限られる。でもその限られた時間、空間は待合なく私個人のために使える時間だった。
仕事のことも、やらなきゃいけないことも一旦置いておいて、自分の為だけに使える時間。
そうか、家と職場の行ききだけの生活の中で、いつの間にか私の思考は仕事のことともしくは生活のことに占領されてしまっていたのだ。
仕事を職場でギリギリまでやり、部屋に戻っても寝るか、明日のために洗濯や掃除をするなど、生活するために必要なことに時間を割くことがないより大切だと思い込んでしまっていた。
でも、そんなこと、なかった。
いかに有意義な時間を過ごすことばかり、考えてしまっていたけれど、
そんなすぐ必要のないことを考えても、調べても仕方がないと思ってしまっていたけれど、
そんなことはなかったのだ。
久しぶりに電車に乗ってはじめて気がついた、
あの電車に揺られた毎日の何時間は私の中で必要な時間だった。
満員電車に揺られながら広告を見つめて、様々自分の考えをめぐらせることも、長い時間の中で、以前少し気になっていたワードを思い出して検索してみることも。全部全部、自分のための大切な時間だったのだ。
朝、夕目的地に行くまでの数時間。電車に乗って自分のために時間を使う。
10年間苦痛でしかなかったこの時間は、気づかないうちに私の大切な時間となっていた。
電車とは、最高の自分時間。そう言えるのかもしれない。
今度は電車でどこか遠くに行こう、ゆっくりと自分の時間を楽しみながら。
あの本を読もうかな。
どんな気づきがるのかな。
電車に乗ることが、今は、何よりも愛おしく思える。
***
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