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だから、もう後悔はしない。

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【4月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:布施京(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「なんでママじゃいけないの? どうしてパパなの?」
 
2歳の息子に向かって必死に訴える母親がいた。
まだ、おしゃべりも上手にできない息子に、すがりながら本気で訴える母親だ。
 
理不尽とも思えるその態度には、彼女なりの理由があった。
 
8年前にさかのぼる。
 
「あんな会社、もうやってられない!」
彼女の夫は、帰宅して会社の愚痴を言わない日はなかった。
専業主婦をしていた彼女は、仕事に不満をため込んでいる夫より、自分が好きな仕事をして、家族を養えるなら、そのほうがいいのではないか、と密かに就活をしていた。
 
2年がかりで応募、不合格、を繰り返し、ようやく見つけた就職先は、海外だった。彼女の予定通り、夫は退職して、2歳になったばかりの息子と一緒に家族三人で赴任した。
 
彼女の予想外だったことは、仕事が多忙で、息子にあまり会えなくなったことだった。
 
「仕事で忙しいのは、仕方がない」
そう割り切って仕事に明け暮れていた彼女に、もう一つ予想外のことが起こった。
 
母親のことが一番好きだったはずの息子が、そのランキングを変えてきたのだ。
寝かしつけるのも、「パパがいい」
本を読むのも、「パパがいい」
そう、言い出したのだ。
 
「よし! 今日は早く帰って、驚かせよう!」
彼女は、ランキングの首位を取り戻そうと、仕事を無理して切り上げ、幼稚園に迎えに行った。
教室の入り口に立って息子の遊ぶ様子をしばらく見ていると、息子が気がついた。
彼女は笑顔で手を振った。
息子はパパじゃない彼女を見て、驚くどころか残念そうな顔をした。
そして、気づかないふりをしてそのまま教室の奥で遊び続けた。
彼女は目の前で起こっているできごとを、どう理解すればいいのかわからなかった。
 
子どもを迎えに来たほかのお母さんが、彼女の隣にやって来た。
すると、そのお母さんの子どもが、小走りで飛び込むように、母親に抱き着いた。
屈託のない笑い顔が母親の服に埋もれていた。
 
「私だって、こんな笑顔を望んでいた……」
羨ましさを超えて、彼女の顔はこわばっていた。
 
彼女は込み上げる感情を抑え、なんとか繕った笑顔で教室に入り、息子に声を掛けた。
息子は明らかに不機嫌な顔になり、差し出された彼女の手を振り払った。
幼稚園を出ると、五等身の2歳児は、一人でちょこちょこと家に向かって歩き出した。
 
彼女はその後ろ姿を見ながら、茫然と立ち尽くした。
自分が何のために、ここで仕事をしているのか、わからなくなった。
 
「迎えに来て……」
夫に涙声で電話をするのが精いっぱいだった。
 
「パパ!」
坂道の上に現れた夫を見つけた息子はうれしそうに叫び、駆け寄った。
その光景を見た彼女の心はつぶされそうになった。
 
「失恋でもこんな気持ちになったことがあっただろうか……」
彼女は、もう、思い出せなかった。
ただ、ただ、胸がえぐられるように、痛かった。
 
帰宅後、彼女はつらい思いを怒りに転じた。
 
「なんでママじゃいけないの?」
 
そう訴えた彼女は、まぎれもなく、私だった。
 
私の家庭は、幼いころ、両親の喧嘩が絶えなかった。
母は、姑にいじめられ、足が不自由だった舅にいつも大声で呼び出される日々を過ごしていた。そんなかわいそうな母を放って、毎晩のように遊んで遅く帰る父がたまらなく嫌いだった。
私は、そんな父と自分を比べていた。
 
「私は遊んでいるわけじゃない! 仕事をしているだけなのに! どうして息子に嫌われなければならないの?」
泣きわめきながら、今度は夫に訴えた。
 
「子どもなんだから、仕方ないだろ」
諭すように、夫が言った。
 
「わかってるよ!」
頭ではわかっているつもりでいた。
でも、この時、私は、まだ原因側に自分を置いてはいなかった。
 
赴任して、母親が家にいなくなり、どれだけ息子が不安になったか。
私は自分の仕事のことで頭がいっぱいで、理解しようともしなかった。
育児は夫にすべてお任せ。仕事が優先で、息子への関心も徐々に薄らいでいった。
もちろん、「働いている」から、家事はしない。
家にいるときは、「たまにいるときくらいテレビが見たい」から、と動かない。
たまの休みに公園に家族で行っても、すぐに疲れて、ベンチでうたた寝。
 
気づけば、主婦が愚痴る「ダメな夫」の典型そのものだった。
そして、それは、「自分の父親」とそっくりだった。
 
2年の海外勤務を終え、帰国し、夫も勤め始めた。
私は転職し、息子と接する時間をできるだけ増やそうと必死になった。
保育園の送り迎えはもちろん、息子と二人だけの週末は一緒に出掛けるようにし、子どもの目線で一緒に遊ぶよう心掛けた。
普通の母親なら当たり前のことが、私にはできていなかったからだ。
 
子どもがどれだけくだらないことが好きか。
子どもがどれだけつまらないことでいっぱい笑うか。
子どもが好きなことは、どれだけいっぱい繰り返すか。
 
私は何もわかっていなかった。
 
だから。
くだらないことをいっぱい一緒にした。
つまらないことでいっぱい一緒に笑った。
子どもが好きなことをいっぱい繰り返した。
 
1年以上が過ぎたある日。
思いがけずにその日はやってきた。
二人でいつものように保育園に行く途中、息子から手をつないできたのだ。
 
その時の歓びをどう表現したら、伝わるだろうか。
あの、母親に抱き着く無邪気な子どものような笑顔を、その時、私もしていたと思う。
うれしさと安心が入り混じった幸せな顔だ。
 
子どもがお母さんと手をつなぐ。
その当たり前のことが、どれだけ、尊いことか。
 
「私は、このために、今ここにいるんだ」
そう確信した。
 
あの2年を私はずっと後悔していた。
 
でも、あの2年があったからこそ、ただ手をつなぐということに、これだけ幸せを感じることができた。
当たり前のことが、当たり前じゃないということに気づかせてくれた。
すべては、尊いこと。
 
あの2年は取り戻せない。
でも、あの2年がなかったら、私はこんなにも感謝して今を生きてはいなかった。
 
だから、もう後悔はしない。
後悔は、しない。
 
 
 
 
***
 
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2020-03-31 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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