メディアグランプリ

北の大地の救世主


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:渡邊千尋(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
一人暮らしを始めてちょうど一ヶ月経った頃だった。
 
「ほんと無理。どうしよう!」
 
ひとりぼっちの部屋で私は叫んだ。いや、正確にはひとりと一匹だった。
私は口に出すのも、こうして文章にするのさえ憚られるあの黒い虫と対峙していた。
私は本当にこいつが苦手だ。そもそも得意な人の方が少ないとは思うが、私の苦手度合いを簡単に表すと、見つけたら最後、軽く一時間はその場から一歩も動けなくなる。まさに蛇に睨まれた蛙状態だ。
この時もそうだった。
 
「えっ、無理無理。どうしよう……えっ? 無理だ」
 
何の意味もないひとりごとをこぼしながら、殺虫剤を片手に一、二時間ほどの膠着状態を過ごしたのち、迫ってこようとした相手を泣きながらなんとか撃破した。その日の夜は怖くて眠れなかった。
 
殺虫剤という最強武器を手にしていても、やつを目の前にするとそれを撒く勇気が出ない。一回撒けば、やつは必ず抵抗して動き回る。それがもうダメなのだ。お化け屋敷とかドッキリを仕掛けられても「うわ」くらいにしか驚かない私が、近所中に響き渡る大声で叫んでしまう。
 
住んでる場所が悪かったのか、時期が悪かったのか。その夏、やつとの邂逅は一度や二度で済まなかった。
 
しかもやつらは時間や空気を読まずに私の目の前に現れる。
その日、私は遠方に住む友人と四時間ほどのスカイプ通話を楽しんでいた。楽しい時間はあっという間で、そろそろ日付も変わろうかという頃。ふと目線を上げるとやつがいた。
急に大声をあげて泣き出す私に、友人はさぞ驚いたことだろう。遅い時間にも関わらず私がやつを倒すまでの間、画面の向こう側で懸命に応援をしてくれた。
 
「毎回こんな壮絶なバトル繰り広げてんのかぁ……可哀想にね」
 
友人の心からの可哀想にを聞いたのはこれが初めてだった。
この友人は北海道生まれ北海道育ちで、やつに生で会ったことが一度もないという。うらやましいにもほどがある。都内なんて街中を歩いていても見かけるほどなのに。
 
この時の私は、友人に哀れまれるほど、体力的にも精神的にも本当に疲弊しきっていた。
 
一人暮らしを始めると母親に宣言したとき、「あんたは絶対無理よ~」と笑われた。
なんでと聞くと、「だってあんたひとりでやつを倒せないでしょ~」と。
仰る通り、実家に住んでいた頃に一人でやつを退治したことはなく、父親が寝ていようが何をしていようが必ず呼び出して退治してもらっていた。
そういう母親こそ、ひとりで退治しているところを私は見たことが無かったので、なにくそと思いながらその話は聞かなかったことにしたのだが。
 
ここに来て、一人暮らしはやっぱり私には無理なんだと母親の言葉が頭の中を駆け巡った。一人暮らしを始めてから半年も経たないうちに、私はホームシックならぬGショックを起こしていた。
 
そんな気の抜けない夏も終わりかけた頃。
引っ越し祝いにと、やつを見たことがない北海道の友人が我が家に遊びに来てくれることになった。
友人は我が家に着くと、話もそこそこに「早速お土産だよ」とひとつの箱を手渡してくれた。中には緑色の蓋がついた小さな小瓶が入っていた。
 
『北のかおり ハッカ油』
 
「ハッカが何?」と思った。食べる”ハッカ飴”しか知らなかった私には、これが何なのか検討もつかなかった。そんな私に友人はこう言った。
 
「キミはね、やつと向き合っちゃダメ。未然に防ぐ対策をしよう」
 
どうやら虫のほとんどがハッカの香りを嫌うらしく、このハッカ油、アウトドア用品として頻繁に用いられているものなのだという。北海道に住む友人にとってハッカ油はかなり定番のもので、やつにもちゃんと効くと調べた上で差し入れをしてくれたのだ。
 
やつに精神をやられかけている私を本気で心配した友人は、私のために、自らやつのことを調べてその対抗策を持参してきてくれた。
もう、救世主だと思った。
ハッカ油そのものもそうだが、そう思って差し入れてくれる友人も、間違いなく私の中で救世主だった。
 
友人が帰ったあと、私は早速その救世主を家中にばら撒いた。ばら撒きすぎて、ハッカのにおいに自分自身も負けてしまいそうだったが、やつに出会うことに比べれば全然マシだった。
 
結果から言うと、その効果は絶大だった。数日、数ヶ月、一年と経って、翌年の夏。
二週間に一度は悩まされていたやつの侵攻はピタリと止まり、私の一人暮らしに平穏な日々が戻ってきた。
救世主のおかげで自信のついた私は、他にも対策を練ることでさらに我が家の守りを強固なものにしている。
 
もし今、私のようにやつの仲間たちに頭を悩ませてる人がいるのなら、まずは北の大地の救世主を頼ってみてほしい。きっとこの夏も、ものすごい効果を発揮してくれるに違いない。
 
 
 
 
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2020-05-14 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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