私は練習が嫌いなんです
記事:39さま(ライティングゼミ)
小さなころからピアノを習っていた。
ピアノの発表会では難しい曲を弾いたり、
コンクールにも出たこともある。
小学生から中学生に、中学生から高校生になる中で、ピアノをやめる友達はたくさんいた。
上手に合唱コンクールの伴奏をしていた子も、高校に入ったときにピアノはやめたと言っていた。
でも、私はやめなかった。
中学生になってもピアノはつづけていたし、
高校生になってもピアノはつづけていた。
練習は嫌いだったけど。
出来ないことを出来るようにする、ということが私にとって難しかった。
練習する、ということ自体が苦手だったのだ。
出来ない小節を取り出して繰り返し練習、なんてしていると、おしりがむずがゆくなってきて、もう居ても立っても居られないくらい、イライラする。
出来ないことは自分が一番わかっているのに、それを自分で自分に突き付けているような気がして、どうにもこうにも許せなくなる。
弾けない自分が許せなくて、弾けない自分は見ないふりをする。
そうしているうちに、いつの間にか練習嫌いになっていった。
今なら、そんなカッコつけないで練習がんばれよ、と思ってしまうが、
高校生の私にはカッコつけないことが難しかったのかもしれない。
ただ、好きになった曲を弾くことは好きだった。
何度弾いても好きな曲は好きな曲だから、あっという間に仕上げてしまって、先生をびっくりさせることもあった。
ノクターンは大好きな曲だった。
何度も何度も弾いては、水がキラキラする音を出したいとか、夜の静かな空気を表現したいとか、そんなことを思っていた。いろんな表現のつけ方、色の濃淡を出せないかと工夫していた。
なのに、そういう曲は仕上がりが早いから、あっという間に次の曲を渡されてしまう。
もっとノクターンを弾きたかったのに。
トルコ行進曲が来たせいでノクターンが弾けなくなっちゃったじゃないか。
そう思うから、トルコ行進曲を弾く気にならない、
弾く気にならないから、うまくならない。
うまくならないから、弾く気にならなくて……
そんなことの繰り返しだった。
つまり、長いことピアノは続けていたけれど、キラリと光る才能の持ち主だったとか、才能はないけどピアノが好きでたまらない努力家だとか、そういうわけではなかったのだ。
なんとなくピアノをはじめて、
なんとなくやめるタイミングを失って
なんとなくピアノを続けていただけだ。
それが変わったのは、いつだろうか。
と、考えるまでもなく思い当たることがある。
高校2年生のとき、礼拝での讃美歌の伴奏係になったことだ。
私のいた中学高校はキリスト教の学校で、毎朝礼拝があった。
讃美歌を1曲歌い、聖書を読んで、先生の話を聞く、という20分あまりの礼拝だった。
その時の、全校生徒が歌う讃美歌の伴奏係を任されたのだ。
全校生徒の前で、選ばれしものだけが弾けるオルガンで礼拝の讃美歌を伴奏する。
入学以来初、目立つ役割を与えられた私は、ちょっと燃えた。
伴奏係に選ばれたことは、学年で一番ピアノが上手と言ってもらえているような気がして、うれしくて誇らしかった。
ほんの、ちょっとだけ、ね。
でも、同時に気づく。
ミスをしたらみんなが讃美歌を歌えなくなってしまうし、なにより全校生徒の前で恥をかくことになる。
せっかくもらった“学年で一番ピアノが上手な人”の称号を、奪われてしまうような気がした。
だから、私は好きな讃美歌でも好きじゃない讃美歌でも、とにかく練習した。
何度も何度も弾いて、譜面を見ないでも弾けるくらいまで弾き込んだ。
週末になると途切れないピアノの音に、
『ピアノの発表会だって、コンクールだって自分から練習しなかった子が、自分で練習している』
と母親が仰天するほどだった。
その甲斐あってか、1年間の伴奏係のなかで目立った失敗はなく役目を終えることができた。
“学年で一番ピアノが上手な人”の称号は、きっと無事守れたはず。
これが、私の第1次練習期だ。
そして、今、私は第2次練習期を迎えている。
あんなに練習が嫌いで嫌いで仕方なかったのに、今は、帰ったらこの曲のこの部分を練習して弾けるようにしよう、そうしたら、次はテンポをあげて弾けるようにしよう、なんて仕事中にまで考えている。
なぜか。
もちろん、私が弾けないことで一緒に演奏しているメンバーに迷惑をかけるというのが大きな理由だろう。
今、一緒に演奏しているのはトランペットとパーカッションの2人だ。
この3人で演奏するということは、一人一人の役割がかなり重い。
トランペットには曲のメロディーを吹き切るという重大任務が
パーカッションには曲の雰囲気やリズム感を作るという重大任務が
そしてピアノには曲全体の流れを作るという重大任務が課せられている。
誰か一人が練習不足でも、曲作りにはたどり着けない。
それなのに私の練習不足で曲作りにたどり着けないことがあって、そのことへの申し訳なさで練習に励んでいるともいえる。
では、ミスしたくない、足を引っ張りたくないという想いだけで、第1次、第2次練習期をむかえられたのだろうか。
その想いだけが、練習するとおしりがむずがゆくなってイライラしてしまう私を、練習に向かわせたのだろうか。
確かに、学校で一番ピアノが上手と認められたかったし、そう思ってもらえるように練習をした。
一緒に演奏するメンバーに迷惑をかけることが申し訳なくて練習していることも確かだ。
それらは、練習嫌いな私ですら、練習に向かわせる十分に大きな理由だ。
でも、自分の伴奏で全校生徒が歌ってくれることがうれしいとか、一緒に演奏していて楽しいとか、そういうプラスの気持ちも、私が練習するために必要な大きな大きな理由だったのだと思う。
私が弾いたピアノが歌う人や一緒に演奏する人と重なったとき、きっと私は自分一人で弾いていたときよりも大きな感動を得られるのだろう。
それは、1人で黙々とトルコ行進曲を練習していた時には感じられなかったし、
たとえ大好きなノクターンをどれだけ弾いても、得られなかった感動だ。
一緒に演奏する仲間がいる、それが練習嫌いだった私を練習に駆り立てる一番の理由なのではないだろうか。
誰かのために、なんて偉そうなことではなく、相手がいるというだけで頑張る理由になるのかもしれない。
だったら、仕事も普段の生活も、決して一人で完結することなんてないのだから、一緒に過ごす人の存在を少しだけ気にしたら、今より少し頑張れるのかもしれない。
明日は、文句ばかり言ってしまう上司にも、デリカシーがないなぁと思ってしまう先輩にも、少しだけ喜んでもらえる仕事をしてみよう。
それが、きっと頑張るってことなのだから。
≪終わり≫
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