それは、娘も割り込めない父と柴犬の物語
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記事:藤崎奏(ライティング・ゼミ2月コース)
「ペロがいなくなった!!」
慌てた声の母から電話がかかってきたのは、大学に入学して1ヵ月が経った頃だった。週末にはGWを控えていて、地方の国立大に進学し一人暮らしを始めた私は、もうすぐ帰省するところだった。
「またー? おなかがすいたら帰ってくるでしょ」
ペロというのは、実家で飼っている柴犬である。私が5歳の時にうちに来たのでかれこれ14歳のおじいちゃんだが、まだまだやんちゃで時々庭から脱走しては近所の畑で遊びまわっているのだ。そしてご飯の時間になるとちゃっかり戻ってきて、「ずっとここにいましたが、何か?」という表情でご飯を催促する。
なので、ペロがいなくなることはそれほど緊急事態じゃないはずだ。
「そうだけど、でも、いつもと違うの!」
よくよく母の話を聞くと、いなくなったのは前の日の朝らしい。とすると、丸1日半は帰って来ていないことになる。ペロは食いしん坊だから、とっくにおなかは減っているはずなのに。確かにおかしい。
母との電話を切った途端、不安が押し寄せてきた。
大丈夫かな。大丈夫かな。遊びまわっているうちに何かあったんだろうか。ペロはやんちゃなくせに、本当はものすごく臆病なのだ。初対面の人に勢いよく吠えるのも、初めての場所で足が動かなくなるのも怖いからだ。普段はくるんと丸まっているシッポが、怯えると力なく下がるからすぐにわかる。そんな怖がりのペロが、家に帰ってこれないなんて。
どこかで震えてるんじゃないかと思うと心配で眠れない。すぐに私も帰らなくちゃ。ペロを探しに行かなくちゃ。
結局私が実家に帰れたのは、ペロがいなくなってから5日後だった。
ペロは、帰ってこなかった。
母が懸命に地元の保健所や警察を回ったが、事故の情報すらなかったらしい。
消えてしまったペロ。もしかしたら、帰ってこなくなった私を探しに出かけたのかな。急にいなくなってごめんね、ペロ。
嘘みたいだった。私は泣いた。母も泣いた。
でも、父は泣かなかった。「どこかで大金持ちに拾われて、うちのより良いご飯もらってるよー」と一人でへらへらしていた。
ばかだな。ペロを一番かわいがっていたのは父なのに。本当は、家族で一番涙もろいのも。家族で箱根駅伝や24時間テレビを観ていて、一番初めに泣くのは父なのだ。きっと、悲しんだら本当にもうペロが帰ってこない気がしていたんだろう。父の気持ちが痛くて、私はまた泣いた。
ペロは生まれてすぐにうちに来た。血統書付きの立派な血筋で、「若駒号」という凛々しい名前も持っていたのに、うちに来た瞬間から「ペロ」と呼ばれるようになった。ペロペロよく舐めるからペロ。ペロは甘えん坊な子犬だった。
ペロがうちに来た日、父に「今日からおまえの弟だぞー」と言われたのを覚えている。一人っ子だった私は、弟が出来て嬉しかった。毎朝父と一緒に散歩に行った。
小学生のころ、嫌なことがあると私はよく庭に行ってペロを抱きしめた。ちょっと野生臭いペロの匂いと小さなぬくもりは、私の心を慰めた。「動物は人間の悲しみを理解して寄り添ってくれる」みたいな感動的なエピソードがあれば良かったのだが、残念ながらペロはそんなに賢くはなかった。されるがままにじっとしている時と、嫌がってじたばた逃げようとする時が半々くらい。時々私の顔をペロペロ舐めた。
この頃に、ペロと父と3人で撮った写真が残っている。じっとしてるのが嫌そうなペロと、ペロに抱き付いてご満悦な小さな私と、優しい顔をして私の肩を抱く父。幸せな記録。私とペロの思い出はこの頃が最高潮だ。
中学生になると、私は朝の散歩に行かなくなった。朝へ眠いし冬は寒い。散歩担当が父一人になって、ペロはますます父に甘えるようになった。
大学入学前の引っ越しの朝、庭でペロとさよならをした。ペロと言葉を交わしたのは(厳密には交わしてはないけど)この時が最後だった。でも私は、これから始まる新生活にわくわくしっぱなしで、ちゃんとペロの顔は見てなかったんじゃないかな。「じゃあね! GWには帰ってくるからね!」そう軽く言って、写真を一枚撮って別れた。ちなみにペロはこの時父の方を見て笑っていたから、この時の写真は横顔だ。ペロとの最後は、残念ながらこんなすれ違いの記憶。
ペロがいなくなっても私たちの前では涙を見せなかった父だが、変わったことが一つある。父は基本的に母に寛容で、母が「こうしたい」と言ったことに反対することは今までなかった。だが、ペロがいなくなって数年後に、母が「また犬を飼いたい」と言った時だけは首を縦に振らなかった。「もしペロが帰ってきた時、うちに別の犬がいたらかわいそうだよ」と言って。
この時直感的に、父とペロの間には、誰も入り込めない絆があるのだということを悟った。私なんて入り込む余地のないくらいの強い絆が。きっとこれからも、ずっと。
ペロはきっと幸せだろう。大好きな父に、こんなに愛されて。
「ぼくのことは早く忘れて……悲しまないで……」なんて殊勝なこと、ペロはきっと思わない。父から注がれる愛情を無邪気に受け取って、いつまでも全力でシッポを振るペロが目に浮かぶ。
今、私は、泣きながらこの文章を書いている。もうずっと昔の出来事なのに。今は春で、暖かくて、平和で幸せな休日の昼下がりなのに。なぜか涙が止まらない。でも、どんなに泣いても、私の顔を舐めてくれるペロはもういないのだ。
***
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