迷惑なセールスマンがくれた母親の覚悟
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記事:ともとも(ライティング・ゼミ12月コース)
「ピンポーン」
家の呼び鈴が鳴った。時刻は午後3時ぐらいだっただろうか。その時私は生後1か月の息子の慣れない育児で、完全に寝不足の日々が続いていた。新生児は昼も夜もなく、2-3時間おきぐらいに起きておっぱいをあげなければならない。なのに、ちょうどおっぱいが終わって母子ともに寝落ちしたその瞬間に、この呼び鈴が鳴ったのだ。
「チッ」と舌打ちしながら、それでも「はい」と声を出した。しかしいつもなら必ず「どちら様ですか?」と訪問者の名前を確認してからドアを開けていたのに、この時は寝ぼけていたせいもあって、よく確認もせずにドアを開けてしまった。
ドアを開けると、そこには50代ぐらいの女性が立っていた。
「こんにちは~、お宅には赤ちゃんがいますね?」といきなりその女性は切り込んできた。
なぜそんなことが分かるんだろう? うちの子はそんなに鳴き声が大きくて、ご近所に迷惑をかけているんだろうか? それとも私の顔から育児疲れだと分かったのだろうか? 頭の中が一瞬グルグルした。でも冷静に考えたら、布オムツや赤ちゃんの肌着が何枚も干してあり、風になびいているのだから、「この家には赤ちゃんがいますよ~」と宣言しているようなものである。それにしても、いきなり人の家にやってきて、「赤ちゃんがいますね?」とはどういう用件だろう? 私はその女に警戒心を持った。
「はい、赤ちゃんはいますけど」と答えると、女がテンションの高い声で笑いながら言った。
「そうよね~、イマドキ布オムツが干してあったから、もしやと思って~!」
「イマドキ布オムツで悪かったね!」と心の中で叫んだ。なぜこんな見ず知らずの女に、見下されるようなことを言われなきゃならんのだ? 私はもうドアを閉めてこの女を追い出したかった。
布オムツについては、本当は洗濯が面倒臭くて嫌だった。ある日布オムツが姑から送られてきた時には、本当に有難迷惑でしかなかった。しかし、この見ず知らずの女に笑われたことが、姑の好意まで見下されたような気がして、本当に不快になってきた。早く帰ってほしい。
そこで女を追い出すために「それで、ご用件は?」と不愛想に聞いた。するとその女は、こう言った。
「あなたは赤ちゃんを母乳で育てているの? それともミルク?」
「……!」
もう、堪忍袋の緒が切れた。我慢の限界だ。
「なぜそんなプライベートな話を、見ず知らずのあなたに話さなきゃならないんですか?」
まっすぐにその女をにらみつけながら、私は静かに低い声で言った。するとその女は甲高い声で、
「まああああ! なぜあなたはそんなにひねくれた事を言うの?」と心底驚いている。
「今この周辺のお宅を回って来たけど、そんな風に言われたのは初めてだわっ!!」
「こんなにひねくれた人は初めてよっ!!」とひたすら叫んでいる。
「すみませんが、迷惑なんで帰っていただけますか? 赤ちゃんも起きちゃいますし」と言ってドアを閉めようとした。するとその女はまだ叫んでいる。
「私はね、母乳で育てることがとても大事なことだから、それをあなたに教えてあげようと思ってわざわざ来たのよ!!」
頼んでもいないのに、そういうことを平気で言う女。そんなことは、言われなくてもよく分かっている。そして女のうるさい声に息子が目を覚まして、おぎゃーと泣き出してしまった。
「母乳はね、赤ちゃんにとって最高の栄養なのよ! それに、免疫力がつくから、赤ちゃんが病気になりにくく……」 まだ女は叫んでいたが、もう私は聞いていなかった。
初めての出産で、退院後も不慣れな育児と寝不足で体調悪く、気持ちも落ち込みがちなこの時期に、この女は人の心に土足で踏み込み、爆弾を投下していったのだ。私は母乳派かミルク派かを回答せずに、ドアを閉めてしまった。やがて叫んでも無駄だと悟ったらしく、その女は憤慨してヒステリーを起こしながら帰っていった。
カーテンの陰に隠れて窓越しに見ると、女はかなり大きいカバンを抱えていた。そうか、育児書のセールスマンだったのか。しかしこんな風にデリカシーがないやり方で、はたして育児書は売れるのだろうか……。
今回出産するまでは、結婚後も仕事を続けてきた私。実は私自身は子供がほしかったわけではない。産むまで赤ちゃんにさわったこともなかったのだ。だから抱き方さえ知らない。そして子育て中に仕事を休んでいることで、社会から取り残されたような孤独感。だから四六時中泣いてばかりいる、やっかいなものを産んでしまったという感覚しかなかった。
ため息をつきながら、とりあえず泣いている息子を抱きあげた。すると、息子が泣き止んで「ニヤッ」と笑ったではないか!
本当に急な笑顔だった。これは、新生児によくある「ムシ笑い」で、本当は笑っているわけではないらしく、刺激に対する生理現象のようなものだそう。
しかしそんなことはどうでもいい。息子の笑顔を初めて見た時、あまりのかわいさにびっくりして、メロメロになってしまった。顔中をしわくちゃにした泣き顔からの、この笑顔。赤ちゃんってこんなにかわいいものだったのか! 心から湧いてくる、このとろけそうな甘い気持ち、これが母性本能というもの? この笑顔をずっと見ていたい! と心から思えたのだった。
早いもので、あれから29年がたつ。あのセールスマンがやってきた日に、初めて息子が笑った。その笑顔が私に子育てに対する覚悟をくれた。だから、その女のことは忘れようにも忘れられない出来事として、深く心に刻まれている。そしてその後も色々なことがあったが、今でも息子の笑顔に勝るものはない。
***
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