最終兵器「チュウ」
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記事:犬井ジロ(ライティング・ゼミ)
「ゆうくん! 走らないよー」
「ゆうくん! お友達のおもちゃだよ! 取らないよ!」
「ゆうくん! もう遊ばないの? ほら、おかたづけするよ!」
いや。子供って、なんでこんなに無軌道に動き回るんだろう。元気一杯の二歳児を前に私は、色々、くたくただ。こんな無節操な生き物と24時間体制で向き合っている世のお母さん達は本当に偉い!
当方スペック、オーバーフォーティー、無職寸前、子無し、子育て経験無し。
対する二歳児ゆうくん、男の子、もうすぐ三歳、まだおしめ。
昨年から時々、友人の子守りをしている。子守りと言っても、昼間の数時間、児童館で遊んでいる子供に付き添うだけなのだが。友人の母親が入院したため、急遽代わりの人が必要になったのだそうだ。
しかし、よく私なんかに頼んだなあ、と思うけれど。まあ、一番ヒマそうに思ったのだろう。実際ヒマだった。ささやかなバイト代も魅力だった。なので、
「見ててくれるだけでいいから。おしめも簡単だよ」
と、気楽に言う友人の言葉を真に受けて、人生初の子守りを気軽に引き受けた。
甘かった。
まず第一に、二歳児は体力が有り余っている。とにかく、走る。2、3メートルの距離でも走る。ぐるぐると走り回る。
いや、ダメダメ。「じどうかんのルール」には「はしらないでね」と、書いてある。
「ゆうくん、走らないよー」
止めようとすると逃げる。笑いながら走って逃げる。オーバーフォーティーだと思ってなめている。おかげで追いかける羽目になり、体力が奪われる。
言う事を聞いてもらえない大人がへとへとになっている。大人としての威厳も損なわれる。
かと思うと、隣の子のおもちゃを取り上げて若干のトラブルになっている。
「ほらほら、ゆうくん、それはお友達のおもちゃだよ。遊びたいの?」
離さない。
「ゆうくん、じゃあ、かしてください、ってお願いするんだよ」
「かしてください」
うん。素直だ。かわいいな……って、あれ?
おもちゃを取られた子は、別のおもちゃに気を取られてそっぽを向いていた。
「あはは、もう聞いてないですね」
取られた子のお母さんが明るく笑う。
「ですねえ」
と、私も笑った。
そんなもんなのか。心配して損した。いやいや、でも、取り上げたのは良くないし。あそこで「かしてください」って言わせないと、ジャイアンになっちゃうからな。言わせることが大事だ……って、もう取り上げたおもちゃはどこかへほったらかしてるし!
うーむ。無駄な気をもませやがって。ゆうくんめ。
そして気力も奪われる。
そう。次から次へと移り変わる興味。これまた二歳児の武器だ。ゆうくんの通りすぎた後は、おもちゃがあちこちに散乱している。ゴジラか?
いや、違う。ゆうくんは次代を担う貴重な人材なのだ。お片付けを覚えさせなければ。「じどうかんのルール」にも「あそんだおもちゃはかたづけてね」と書いてある。
「ゆうくん! 一緒におかたづけしよう!」
「……」
無視か。集中して聞こえない(ふり?)も得意技だね君は。
「ゆうくん、ゆうくん! おかたづけしてから次のおもちゃで遊ぼう!」
「おかたつけいやだー」
……そして再び無視か。手強い。
しばらくすると、他の子がそのおもちゃで遊び始めた。じゃあもういいのか。ふう。
すると今度はゆうくん、ボールをあちこちに投げている。近くにいるお母さんが、子供をしっかり抱きかかえて守っているのが見えた。
「ゆうくん、ボールあんまり投げないよー! お友達に当たったら危ないからね」と、転がって来たボールを取り上げたところ、
「ジロちゃん、もうやだ。ゆうくん、ひとりであそぶ。あっちいって」
ゆうくんは、拗ねてしまった。
しょうがないなあ。
「わかった。じゃあ、そこにいるから。なんかあったら呼んでね」
「よばない。ゆうくん、ひとりであそぶ」
そうか。さびしいなあ。まあ、しばらく一人で好きにしててもらおう。こっちも疲れたよ。体力気力をチャージさせておくれ。
と、少し離れたところで一息ついた。ゆうくんはヒーロー人形で一人遊びしている。
そういえば、おもちゃのお片付け、他のお母さん方はどうしているのだろう? と、まわりを観察してみる。
「りょーたくん、おもちゃかたづけようね」
りょーたくんは、素直におもちゃを片付けはじめた。
うーん。やっぱりお母さんの力は絶大か。時々いっしょに遊ぶだけのジロちゃん、では言う事聞いてもらえないのも仕方ないか。子供の性格もあるのかなあ?
ぼんやりと子供達を眺めていて、思い出した事があった。
どこかのカリスマ園長だか、児童教育研究者だったかのエピソードだ。
見知らぬ施設に初めてやって来て、わぁわぁ泣いている子供の耳元で、そのカリスマ先生が何かをささやいたら、子供はおとなしくなった。というエピソードだった。何をささやいたのか。内容は忘れてしまったのだが、先生の自己紹介とか些細なことだった気がする。ささやくことで、子供は落ち着いて相手の言う事を聞く、といった話だったような。
次は耳元でお願いしてみよう。そう思ってゆうくんを見ると、おもちゃの入った箱をひっくり返そうとしていた。慌てて近寄る。
「ゆうくん、ゆうくん。全部だすの? 後できちんとおかたづけするんだよ?」
ゆうくん、うなづいた。
「よし、じゃあ一緒にひっくり返そう」
箱の中身は、組み立てて色んなものが作れるレゴのようなおもちゃだった。
二人で武器とも、怪獣とも、乗り物ともつかないものを作って戦って遊んだ。もちろん、ゆうくんの大勝利。すっかりごきげんもなおったようだ。時計を見るとおやつの時間だった。
「ゆうくん、おやつ食べる?」
「食べる!」
おもちゃをほったらかして、テーブルに走って行こうとするゆうくんを、後ろからホールドして耳元でささやいた。
「おもちゃおかたづけ、してからね。さっき約束したでしょ?」
「えー」
と、しぶりながらも、ゆうくんはお片付けを始めた。
お? 効いたのか? ささやきマジックか? 使えるかもしれない。
「おやつ、もっとたべたい!」
ゆうくんの肩を抱いて耳元で
「今日はもうおしまいだよ。手、洗おうね」
「……はぁーい」
「ママにあいたいー」
声をひそめて、
「ママ、もうすぐだからね。それまでいい子で遊ぼうね」
「うん……」
なんだろう。この無敵感。ささやくだけでこんなに言う事を聞いてくれるものなのか。
ちょっとは大人の威厳を取り戻す事ができた。ささやきマジック、すごい。
しかし、抱きしめてささやいて相手を意のままにする、なんて悪女みたいだなあ。
抱き合って、耳元でおねだり。キッスはおあずけ。
男は「しょうがねえなあ……」としぶしぶ、でもちょっと嬉しそうに言う事聞いちゃう、みたいな。
我ながら、ちんけな想像だ。そもそもそんなベタなおねだり、ドラマや漫画の中でしか見た事ないけどね。
まあ確かに、大きい声でわあわあ言うよりは、声をひそめた方が人の心に届くのかもしれないな。落ち着いた声で話すと相手も耳を傾ける、って何かで読んだ事がある気もするし。少なくとも、ゆうくんには絶大な効果があったなあ。
これ、大人にも使えるんではないだろうか。抱きしめてささやく、なんてスウィートなシチュエーションにはご縁が無いが、誰かに何かをお願いしたい時は、少し声を抑えて、ささやくように伝えてみようか。
「あ、ママだ! ママー!」
そんな事をつらつら考えていたら、友人が迎えに来た。
「おつかれーありがとう。ゆうくん、おとなしくしてた?」
「あのねー、ジロちゃんにいっぱいあそんでもらったよー」
「そうかーよかったね。ほら、ジロちゃんにお礼言いなさい。ありがとう、って」
「ジロちゃん、ありがとう」
ちゅ!
ズキューン! か、かわいい!
くそー……最終兵器「ほっぺにチュウ」かよ……
完敗だ。もう、メロメロだ。
子供って、いいもんだなあ。
ウキウキお母さんと帰って行くゆうくんを見送りながら、心がちょっとだけ、シクシクした。
『来月1日、空いてたらまた、ゆうくんのお守りお願いします』
友人からメールが来た。
『いいよー』
返信を打ちながら、心がはずむ。
ささやきマジックでゆうくんを攻略したつもりだったが、結局、落とされたのは私の方なのだった。
***
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