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週刊READING LIFE vol.82

余白が目に沁みる《週刊READING LIFE Vol.82 人生のシナリオ》


記事:井村ゆうこ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
料理なんて嫌いだ。料理なんて大嫌いだ。料理なんてもうしたくない。
 
朝5時。キッチンでひとり、玉ねぎに包丁を入れながら、頭の中で悪態をつく。まな板の横には、ピーマンとにんじんとなすが、大人しく順番待ちをしている。
数秒後、後悔する。どうしてはじめに玉ねぎなんか切ってしまったのだろう。目が痛くて涙がでる。一旦包丁を置き、まばたきを繰り返す。涙が痛みを押し流していく。エプロンで乱暴に頬をこすって再び包丁を手にする。ピーマンをみじん切りにする。苦い匂いが鼻を刺激した。
いったい、私は死ぬまでにあと何個ピーマンを切るのだろう。そんな疑問がふと脳裏をよぎる。
包丁を置く。もう、にんじんもなすも切りたくない。冷蔵庫の野菜室に無理矢理ふたつを突っ込んだ。
止まったはずの涙がふたたびあふれそうな気配を感じ、慌てて目を閉じる。きっと玉ねぎの切り口からまだ出ているのだ、硫化アリルとかいう涙を誘う物質が。
 
新型コロナウイルス感染症拡大防止により始まった外出自粛の毎日。それは、絶え間ない食事の準備の始まりでもあった。学校が休校中の小学校1年生の娘と、在宅勤務中の夫の空腹を満たすため、私はせっせとキッチンに立った。
料理は嫌いじゃない。むしろ好きと言ってもいいくらいだ。だから、朝昼晩と一日3食用意することも最初は楽勝だと思っていた。
ところが、全国に緊急事態宣言が発令された4月初旬辺りから、私の体とこころに変化が現れた。
まず、食欲がなくなった。何を食べてもおいしくない。次に、何を作ればいいのかわからなくなった。食べたいものがない。スーパーに行って、食材を前にしてもレシピが思いつかない。気がつくと、空のかごを下げて立ち尽くしている。仕方がないから手当たり次第に食材を買い込む。使い切れなかった野菜や肉を何度もダメにしてしまった。冷凍保存しておこうという知恵もはたらくなっている自分が情けなくて落ち込んだ。私は、料理が嫌いになった。
 
「ママがこわい」
娘がそう訴えていると夫から告げられたのは、ゴールデンウィークの最終日だっただろうか。料理を完全に嫌いになった時期とちょうど重なる。
「朝から晩まで、ずっといっしょで大変なのはわかるけど、もう少しやさしくしてやれよ」
娘が寝た後の静かなリビングに、夫の声がひびく。
「お前、イライラし過ぎだぞ。子どもに当たるなって。いいかげんこの状況受け入れろよ」
「子どもに当たってなんかいないよ」
胸の奥に感じた鋭い痛みを吹き飛ばすように、即座に言い返す。
「ならいいけど。とにかく、なんとか乗り切るしかないんだから、少しでも楽しいこと考えろよ」
数分後、おやすみと言って夫は寝室へ向かった。
 
娘に自分の苛立ちをぶつけていないと反論したが、それは嘘だ。嘘だと自分がいちばんよくわかっていた。
3月に入ってから、幼稚園が休園となり、朝から晩まで娘とずっといっしょの生活がはじまった。幼稚園の卒園式と小学校の入学式はかろうじて行われたが、小学校の授業は一日も実現していない。緊急事態宣言が発令されてからは、外出も最低限に抑え自宅で過ごしている。在宅勤務の夫は朝7時前から夜9時過ぎまで、急遽こしらえた「書斎」に缶詰め状態で、私と娘が過ごすリビングには昼食時しか顔を出さない。それもものの10分だ。
ひとりっ子の娘の相手をしてやれるのは私しかいない。だけど、私にもやらなければならないことは山ほどある。仕事も家事も、緊急事態だからといって待ってはくれない。
狭いリビングで、娘の存在を感じながら行うパソコン作業は、いつもの何倍も集中力を必要とした。あともう少しでひと段落という手前で話しかけられ、いら立ちが募る。抑えようにも抑えられないため息がでる。聞こえているはずの娘の声を、何度も無視してしまった。
 
私だってよくわかっている。
友だちにも会えず、娘がさみしい思いをしていることを。
楽しみしていた小学校生活が始まらず、漠然とした不安を抱えていることを。
母親である私の邪魔をしないようにと、懸命に気を遣っていることを。
そんなこと、よくわかっている。それでも、夜中にまわした仕事による睡眠不足とか、作っても、作っても終わらない食事の準備とか、離れて暮らす親に対する心配とか、そういったものが、私から余裕を奪っていく。味覚を連れ去り、食欲を遠ざける。
 
私なんかより、大変な毎日を送っている人がいることも、よくわかっている。
看護師の友人は愚痴ひとつこぼすことなく、子どもを保育所に預けて日々戦っている。
フリーランスの講師業をしている知人は、子どもの面倒をみながらオンラインで講座を開催している。
休業を余儀なくされた友人は、得意の英語を活かして子どもの学習支援に乗り出している。
みな、今自分にできることを見極め、実行に移している。
 
人生にシナリオがあるとするならば、私は腕のいいシナリオライターにはきっとなれない。
状況の変化に対応して、自分の人生のシナリオを柔軟に書き換えることができない。
新型コロナウイルス感染症という敵を前に、私は自分の底を見た気がした。

 

 

 

「本、送ったよ」
3月以降、FacebookもInstagramも更新していない私を心配して、友人が連絡をくれた。本心を打ち明けることができる数少ない友だちのひとりだ。私は自分の気持ちを正直に話した。彼女は黙って耳を傾けてくれた。「大変だね」とも「頑張れ」とも「よくわかるよ」とも口にしない。また連絡するねと言って電話を切った友人が、本を送ったとメールしてきてくれたのは、2日後のことだ。
どんな本か想像がつかなかった。仕事もプライベートもアウトドア派の彼女と、本の話しをしたことは一度もない。タイトルをたずねようかと思ったが、せっかくなので受け取ってからのたのしみに残しておいた。
 
本が届いた。
「もうだめーっていうときに、何度も開いた本だよ。良かったら読んでみて」
久しぶりに見る友人の書いた文字。直筆のメッセージをもらうなんて何年ぶりだろうか。
彼女が送ってくれた本のタイトルは『点滴ポール 生き抜くという旗印』(岩崎航著、ナナクロ社)
3歳で筋ジストロフィーを発症し、生活のすべてに介助を必要とする著者による、詩が収められていた。
ほとんどの詩が、「五行歌」という5行の言葉にまとめられている。
 
子ども時代は懐かしい
でも、昔に帰りたいとは思わない
大人になり
いろいろあっても
今の方が断然いいさ
 
立って歩き、風を切って走り、箸を使って自分で口からご飯を食べ、呼吸器なしで思いきり心地よく息を吸う。今はもうやりたくても、できなくなったこと。それでも、まだできていた子どもの頃に戻りたいとは思わない。岩崎さんは、そう書いている。
授かった大切な命を、最後まで生き抜く。途絶えることのない悩みと戦いながら生き続けていく、と。
 
1ページに5行の詩が上下にふたつ、書かれている、詩を取り囲むように、白い余白が広がっている。その真っ白な余白が、私には岩崎さんの心の強さに見えた。
どんな困難が目の前に立ちふさがろうとも、それを受け止め、希望を見出していくための「余白」が彼の中にあるのではないだろうか。余裕なく苛立つ自分のこころが、そう訴えてくる。
 
人生のシナリオを柔軟に書き換えていくために必要なのは、きっと余白だ。余白が多ければ多いほど、何度でも二重線をひいて、あらたなシナリオを書きこむことができるに違いない。
 
点滴ポールに
経管食
生き抜くと
いう
旗印
 
自分の骨身に
活を
入れるための
呼吸器を
つける
 
繰り返し彼の詩を読んだ。
それから、娘の日記を読み返した。緊急事態宣言が発令され、小学校が始まらないと確定した日から、ひらがなの練習のために書きはじめた絵日記だ。改めて開いてみると、字の間違えばかり指摘して、じっくり読んでやっていなかったことに気づく。
最初のページからもう一度目を通し、余白にメッセージを書きこんでいった。夫にも頼んで同じように書きこんでもらう。
翌日、絵日記を目にしたときの娘の顔を、私は忘れたくない。表紙を開いたときのおどろいた表情。ページを繰る真剣な顔。最後に見せてくれた満面の笑み。毎日いちばん近くで見てきたはずの娘の顔が、幼稚園児の顔から小学生の顔に成長していることに、私は気がついていなかった。
こころの中で娘に謝った。
 
岩崎さんの言葉も忘れたくない。
「生き抜くという旗印は、一人一人が持っている。
僕は、僕のこの旗をなびかせていく」
本を送ってくれた友人のように、これから先、私は何度もこの本を開くだろう。繰り返し、励まされるだろう。
 
生れてから死ぬまで、人生のシナリオは続いていく。
突然の困難に見舞われても一時停止することなく、余白に何度も新たな自分を書きこんでいくしかない。生き抜いていくしかない。
私も、私の旗をなびかせて、生き抜いていきたい。
 
洗っても取れないしみや汚れのついたエプロンに首を通し、冷蔵庫の前に立つ。
作りたいレシピは、食べたいメニューは、頭の中にちゃんとある。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
井村ゆう子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

転勤族の夫と共に、全国を渡り歩くこと、13年目。現在2回目の大阪生活満喫中。
育児と両立できる仕事を模索する中で、天狼院書店のライティングゼミを受講。
「書くこと」で人生を変えたいと、ライターズ俱楽部に挑戦中。
天狼院メディアグランプリ30th season総合優勝。
趣味は、未練たっぷりの短歌を詠むことと、甘さたっぷりのお菓子を作ること。

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2020-06-01 | Posted in 週刊READING LIFE vol.82

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