週刊READING LIFE vol.143

「不好意思」(ブーハオイースー)に助けられた日々《週刊READING LIFE Vol.143 もしも世界から「文章」がなくなったとしたら》


2021/09/13/公開
記事:丸山ゆり(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「不好意思」(ブーハオイースー)
 
訳すと、「すみません」といったところだろうか。
この言葉を一体どれくらい言っただろう。
 
今から30年ほど前、私は結婚をして新婚時代を台湾で過ごした。
住むことになったのは、台湾の首都、台北から車で一時間半ほど南西に走ったところにある新竹という街だった。
風が強い街で、特産品はビーフンだった。
ちょうど、台北と台中の真ん中あたりに位置していた。
 
台湾に赴任することは、結婚前からわかっていたので、私は現地での生活で言葉に困らないように中国語会話の教室に数か月間通った。
中国語と言えば、你好(ニーハオ)「こんにちは」や、謝謝(シェイシェイ)「ありがとう」くらいしか知らないレベルだった。
そんな知識だったので、現地での生活が始まると、環境だけでも違う場所なのに、言葉がわからないとさらに生活が困るだろうと思い、せめて簡単な言葉での意志の疎通が出来るようになっておきたかったのだ。
 
台湾での言葉は、北京語だった。
元々の台湾の人たちは、台湾語を話すのだが公用語は中国語だ。
中国語は漢字なので、見ている分にはどちらかというと安心感があるのだが、文法は英語のような並びなのでこちらに慣れるのは時間がかかった。
 
結婚して、台湾に渡ったのは、私は30歳を迎える年だった。
短大卒業後、商社に勤務して9年。
社会人となって仕事をするようになり、商社の中でも様々な部署を経験し、一通りの仕事は出来るようになっていた。
 
後輩に仕事の指示をしたり、問題が起こっても解決が出来たりもしていた。
自分でお金を稼ぎ、仕事をこなしていた当時の私は、ある意味、怖いものなどないような時期だった。
何でも自分で出来る、私に出来ないことはない、そう、もう大人なんだから。
 
そんな私が結婚を機に会社を辞め、さらには見知らぬ国、台湾で新しい生活を始めることになったのだ。
人生初の引っ越しは、海外への引っ越しだった。
 
海外赴任は、海外旅行とは全く違う。
その異国の土地での生活というのは、想像がつかない。
当時、住んでいた街、新竹では引っ越した際に出る段ボールなどを含めて、ゴミの出し方が日本とは違った。
ゴミ置き場に置いておけばいいのではなく、早朝、ゴミ収集車が来る時に手渡ししなければならなかった。
相当早い時間にもかかわらず、起きなくてはいけないのが辛かった。
 
それから、建物の作りが日本とは違っていた。
マンションのドアを開けると、いきなり部屋になるので、家の中は丸見えになってしまう。
何かしらの工夫をしなければ、びっくりしてしまうことになる。
マンションのドアと言えば、その下には何故か隙間があって、虫はしょっちゅう入って来るのだ。
亜熱帯地方の日本とはまるで違う、勢いのあるヤモリやムカデ、ゴキブリにどれだけ驚いたことか。
さらには、水道水は飲めないなど、日本とは全く違う環境がそこにはあったのだ。
 
台湾での生活が始まり、私の新婚生活もスタートしたのだが、いわゆる家事に関しては全く問題なかった。
料理はそれなりに作れるし、洗濯や掃除も問題ない。
そういう環境の変化は大丈夫だったが、困ったのは買い物だ。
スーパーマーケットでの買い物ならば、無言でできるので快適なのだが、洋服や靴などの買い物はお店の人とのやりとりが必要になってくる。
 
「他の色はないですか」
 
「キュロットスカートはありますか?」
 
さらには、街中でお店を探す時にも尋ねることすら出来なかったのだ。
生活の中で、こんなにも簡単なことなのに、そんなことすら出来ないなんて。
私が20歳くらいの若い主婦ならまだしも、30歳を迎え、仕事もそれなりにやってきた身としては、出来ないことのレベルの低さが歯がゆかった。
仕方がないので、週末、夫と一緒に買い物に行ってもらって、通訳してもらうということが度々あって、それが情けなくもあり、ストレスともなっていった。
 
思うように動けないことが本当に辛かった。
何でも一人でこなしてきた自分が、人を頼らなくてはいけないのが情けなかった。
 
また、田舎の街だったので、日本人は珍しく、市場などでは、「日本人、日本人」と指をさされたこともあった。
同じような量の野菜を買ったのに、私の前にお金を払ったおばさんとは全然違う値段を言われたこともあった。
「おかしいな?」と思っても、問い直すこともできなかったのだ。
スーパーマーケットだったら、明瞭会計なのに、そんなこともあった。
日本人に対して、良い思いを抱いていない人も当時はまだいたのだ。
 
台湾での生活も慣れてくると、私はある手法を思いついたのだ。
それは、紙に中国語を書いてもらうということだった。
話し言葉を聞き取るのはちんぷんかんぷんでも、文章ならば漢字だから想像はつくのだ。
なので、わからないことや、行きたいお店の名前を書くと、皆が教えてくれた。
知らない人に声をかける際、決まって話す第一声は、「不好意思」(ブーハオイースー)という言葉だった。
「ちょっとすみません」だったり、「お忙しいところ恐縮です」という意味で使っていた。
どれだけ沢山、この「不好意思」(ブーハオイースー)を言ったことだろう。
それでも、そこからコミュニケーションが取れることはとても助かった。
 
ようやく、生活にも慣れてきたころ、郵便局での用事があって、新竹駅前の郵便局に行った時のことだった。
窓口の女性は、私が日本人だとわかると流暢な日本語で話かけてきてくれた。
出金伝票に記入する、漢数字が難しく、わからなかったのだが、丁寧に教えてくれたのだ。
やっぱり、日本語でのやり取りだと、わからないことの解決も早く、とても嬉しかった。
 
その時、女性は私にこう言った、「戦時中、日本が台湾を統治した時、この国に素晴らしい郵便制度を導入してくれたのよ。本当に感謝しています」
郵便制度なんてどこも同じかと思っていたが、日本と同じシステムは快適なのだと言うのだ。
市場のおばさんには、野菜の代金を割り増しにされたり、「日本人」と言って指さされたりしたこともあったので、この女性の言葉に私はとても救われた。
こうして日本語を流暢に話すことも、当時、日本語教育があったからだそうだ。
なので、年配の人たちの中には、日本語が出来る人も多かった。
 
この女性と話をしていると、それまでの台湾での生活の不自由さがスッと消えてゆくような、そんな気さえしたのを覚えている。
そして、また口をついて「「不好意思」(ブーハオイースー)という言葉が出てしまった。
すると、その郵便局の窓口の女性は、「ここは『不好意思』ではなくて『謝謝』ね」と、訂正してくれた。
 
台湾の生活で、私はそれまでの人生経験で積み上げてきたことのどれもが出来ずに自信をなくしていた。
街中でも、若い学生やお店の人にいつも「不好意思」とお願いをして生活をしていた。
中国語の文章に助けられ、郵便局の窓口の女性の温かい言葉に励まされた。
当時、異国の地で生活をする私にとっては、文章が生活の糧だった。
文章が私を助けてくれ、また、癒してくれることにもなった。
 
今、日本で仕事をしていると、毎日、当たり前のように文章を書いている。
でも、人生の一時期、異国の地での慣れない生活をしていた時、あの時の文章ほど有難かった経験はないだろう。
これからも、あの当時の経験を忘れずに、文章と向き合ってゆきたい。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
丸山ゆり(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

関西初のやましたひでこ<公認>断捨離トレーナー。
カルチャーセンター10か所以上、延べ100回以上断捨離講座で講師を務める。
地元の公共団体での断捨離講座、国内外の企業の研修でセミナーを行う。
1963年兵庫県西宮市生まれ。短大卒業後、商社に勤務した後、結婚。ごく普通の主婦として家事に専念している時に、断捨離に出会う。自分とモノとの今の関係性を問う発想に感銘を受けて、断捨離を通して、身近な人から笑顔にしていくことを開始。片づけの苦手な人を片づけ好きにさせるレッスンに定評あり。部屋を片づけるだけでなく、心地よく暮らせて、機能的な収納術を提案している。モットーは、断捨離で「エレガントな女性に」。

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2021-09-13 | Posted in 週刊READING LIFE vol.143

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