チーム天狼院

夫には絶対に見せてはいけない写真


*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。

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記事:斉藤萌里(チーム天狼院)

 
 
まずい。
その写真はまずい。
見ちゃダメ、見ないで。
ただ写真を見せるだけなのに、冷や汗が止まらない。
ああ、10分ほど前に、タイムスリップできないかなぁ。
普段から物欲といえば「本を買いたい」ぐらいしか思い浮かばない私でも、この時ばかりはどれほどドラ○もんのタイムマシンが欲しくなったことか。
隣の夫の様子をチラ見しながら、願う。
どうか、それ以上ページを捲らないでくれ。
どうか———。
 
今年の年明け。
昨年結婚したばかりの夫と一緒に、私の実家に帰省した。
いや、一緒に、というのは少し違っていて、厳密に言うと私は年末に先に一人で実家へ帰り、5日ほど滞在していた。
その途中で、彼が後から来てくれた。
妻の実家になんぞあまり行きたくないだろうに、結婚したばかりだし顔見せなきゃという律儀な大義名分をもって、大阪から福岡まで遊びに来た。
1月1日。
この日ほど、やることが絞られる一日はなかなかない。飲食店も商業施設も休業しているので、できることといえば家でののんびりすることか、初詣に行くことくらいだろう。

多分に漏れず、私は夫と二人で太宰府天満宮に来ていた。
太宰府といえば、かの有名な菅原道真が左遷された地で、天満宮は学問の神様と祀られている。毎年受験生やその親たちが受験前にお参りに行くのが定番だ。

 

その、超有名な太宰府天満宮だ。
元日に行けばそりゃ混んでいる。
わかっちゃいたけど、参道を歩ききるだけでもかなりの労力がいった。途中おいしそうな梅枝餅に気を取られながら上まで登った。夜が開ける前から多くの人が並ぶことを考えれば、年が開けた元日の人の量は、まだマシだったと言うべきかもしれない。
境内まで近くと長い列に巻き込まれた。
しかし私たちは、前日に父から教えてもらったショートカットの道を通り、本殿までたどり着く。ふう。あの行列に並ぶ勇気がない。本来ならば太鼓橋という反り橋を渡るのが名物なのだが、長いこと並びたくないという怠惰な我々の価値観が一致して良かった。
無事にお参りを終え、帰る前に御朱印してもらったりおみくじを引いたり。
梅枝餅もちゃんと買って、太宰府を満喫した。
彼にとっては初めての太宰府。
楽しんでくれたみたいで満足。

 

私は、何回目だろうか。
福岡市内から近くもないし、めちゃくちゃ遠いわけでもない。
高校には太宰府市から通っている友達もいた。
しかし、人間「いつでも行けるや」という感覚があると、結局全然行かないというのはよくあることだ。
私にとっての太宰府も、「頻繁には行かない。たまーに行く」というほどの場所だった。
何かの折に、例えば小さい頃に家族で同じように初詣に来た時とか。
高校生の時、茶道部に入っていた私は、太宰府で行われたお茶会に参加したこともあった。
毎度、行くたびに湧き上がる「久しぶり」感。
近いようで遠い存在。
 
そういえば……ふと、思い出す。
私、ここに、デートで来たことがある。
高校生の頃だ。
当時お付き合いしていた元彼と。
太宰府なんて、デートではよく行くような場所だから、全然あり得る話なのだが、まるであの時のデートを上塗りしているみたいでなんだか後ろめたい。
後ろめたさを感じることなんて一つもないはずなのに、実家に戻ってくると、つい、昔のことを思い出してしまうのだ。
 
みんなはどうなんだろう。
懐かしい場所に行ったら、昔のことを思い出す——というのは、よくあることなんだろう。
でも、夫の隣で思い出すことが元彼のことだというのは、いかがなものか。
一つだけ勘違いしてほしくないことは、思い出した元彼との記憶に、何の感情もないということだ。
せいぜい「そんなこともあったな」と懐かしむ程度で、楽しかったとか悲しかったとか、明確な感情は湧いてこない。彼と別れてすぐの頃とか、別れを引きずって1,2年ぐらい恋愛から逃げていた期間には、元彼との記憶を思い出す度に辛くなっていた。けれど、昔の自分と決別して新しい恋をし、夫と結婚した今では、元彼との記憶は事実が事実として、そこにあるだけだった。
だから、何も罪悪感を覚える必要はない。
私には、いまが大切なんだ。
太宰府天満宮から帰る途中、夫と二人でぱくついた梅枝餅。
「うまい」と言ってくれたのが、嬉しかった。
私の故郷を、肯定してくれたみたいだったから。

 

なのに。
それなのに。
その日の夜、私はとても焦っていた。
きっかけをつくったのが不覚にも自分だということが、余計に私に冷や汗をかかせる結果になった。
「これ、昔の写真」
二人で私の実家に帰ってくる機会なんてあまりないだろうから、と勢いで自分の部屋からアルバムを持ってきたのが間違いだった。
そのアルバムには、私の小さい頃の写真や、中学、高校の時の写真が納めてあった。
アルバムを持ってきたとき、私は中にどんな写真が入っていたか、ほとんど覚えていなかった。
夕飯を食べ終えたあと、食卓でアルバムを見せながらちょっとこそばゆい気持ちになる私。
「おさなっ!」とか「変わってないね」とか、ありきたりな反応しか期待していなかったんだけれど。
彼がとある写真の入っているページにたどり着いたとき、「やばい」と焦り始めた。
 
高校三年生の、文化祭での写真だった。
文化祭で、茶道のお手前をしている写真。
夏の大会がない茶道部だったので、文化祭でのお手前が三年間で一番の見せ場だった。
二年生の後輩とペアを組んで、三年生が一人ずつお手前をするのだが、この時、三年生だけ
が着物を着ることができるという特権があった。
一年生の文化祭で、初めて着物を身に纏った三年生の先輩たちの姿を見て、「自分にもいつかあんな日が来るんだ」と、どれほど憧れていたことか。
 
だから、実際に自分が三年生になって、着物を来て学校のお茶会でお手前を披露できるという日は、気分が高揚していた。私だけじゃなくて、一緒に部活をしていた仲間も皆、この日を待ち望んでいただろう。
着物に着替えてからお手前がないとき、三年生だけで控室に集まってそれぞれ写真を撮った。皆で撮ったり、二人ずつ撮ったり。今でもとても良い思い出だ。
 
そのうち控え室から出て、自分たちも文化祭を楽しもうということになった。
部内の友達だけじゃなくて、クラスの友達に会いに行った。
「着物であんまりうろつくな」という注意は受けていたので、お客さんとして文化祭を満喫することはできなかったけれど、仲の良い友達と先生には会いに行った。誰かと会う度、着物姿だった自分を見て「綺麗だね」って言ってくれた。
先生とも友達とも、それぞれ写真を撮った。
 
パシャリ。
 
一応スマホは持ってきていても、校内で触ってはいけない決まりになっていたので、母から預かったデジカメでパシャリ。
思い出が、消えないように。
写真の中に閉じ込める。
写真を撮っているその瞬間は、「いつかの思い出のために」なんて考えず、ひたすら撮りたいという欲求に駆られて撮っていただけ。
私と親友の彼女。
私と大好きな先生。

 

そして、その中に、元彼もいた。

当時まだその元彼と付き合っていたのだから仕方ない。
二人で、ハイチーズって言って、友達に撮ってもらった。
カメラマン役をしてくれた友達はなんだかニヤニヤしていて、恥ずかしかったけれど、当時の気持ちを振り返るならば、好きな人と着物で写真に写れたことが単純に嬉しかった。

 

そう、問題はその写真だ。
どこいったんだろうと思っていたけれど、高校生の私、ちゃんとアルバムにしまっていたのだ。
そのアルバムはいま、夫の手の中に————。

 

うそ、やばい。
高三の文化祭の写真が出てきたあたりで、すーっと血の気が引いてゆくのが分かった。
見られたくない。
というか、道徳的に見られたらまずいのではないか。
確かに、元彼との写真をとっておいたのは自分が悪い。けれどアルバムなんてそうそう見返すものでもないから、写真を入れたまま放置していただけなのだ。
それがまさかこんなことになるなんて……。

 

お願い、見ないで!

 

心の中で祈る。
後ろめたいことがあるわけじゃない。
ただの写真。思い出の一つと割り切ってしまえば、悪いことはない。
実際、夫はアルバムを捲りながら、何も言ってこなかった。
まあもし逆の立場だったら私も何も言えなかっただろうけれど、気にしていること何もないというふうに、アルバムを最後まで見終わって閉じた。
そのあまりの平静ぶりに、思わず訊いてみたくなった。
あの写真、見た?
って。
 
けれど、それを聞くことが正解だとも思わなかった。
元彼と私の昔のツーショットを見て、夫が何も言わない。
単に私に気を遣っただけなのかもしれないし、見たくなかったけれど見なかったことにしようと割り切ってくれただけなのかもしれない。
けれどたぶん、それが正解なんだと思う。

 

そうか、と気づいた。
写真って、人によって何を表していると感じるのか、違うのかもしれない。
私にとって、元彼との写真は罪悪感を抱かせるもの以外の何物でもない。
でも、人によっては思い出として置いておく人もいる。
写真に罪はないし、それを撮った当時はきっと、楽しい思い出だったのだから。
現にいま私が夫と二人で住んでいる部屋には、結婚式の時に前撮りで撮った写真、挙式当日の写真がたくさん飾ってある。
写真を見れば、幸せな気持ちに浸れる。
喧嘩して嫌な気分になったときでも、写真の中で満面の笑を浮かべている自分を見れば、夫との喧嘩がとてもどうでもいいことのように思える。「そもそもなんで喧嘩してるんだっけ? 私は何を怒ってるの?」と冷静になれるきっかけをくれる。

 

そう思うと、これまで自分が撮ってきた写真がすべて、大事な記憶なんだということに思い至った。
私は毎日日記をつけているけれど、それと同じように写真だって日記の一つだ。
残しておくための手段が文章なのか写真なのかが違うだけであって、自分がこれまで歩んできた道がそこに表現されているということに変わりはない。
思えば三年前、カメラを買って好きな時に好きなだけ写真を撮ってきたけれど、写真を撮るとき、カメラを撮りたい対象に向けたとき、どの瞬間をとっても、楽しかった。
日記を書いているとき、書くことで一日を振り返る瞬間は、充実している。「今日は楽しかった」「今日は仕事ができなかった」「悲しかった。辛かった」と、いろんな感情があるけれど、日記を書きさえすれば、次の日はまたすっきりとした気分で一日を迎えられる。どんな感情をもって日記を書こうと、書いているだけで、私は楽しいと思えるのだ。

 

写真。
夫には絶対に見せてはいけないと思っていた元彼との写真も。
あれほど私が「捨てないと!」と焦っていた写真だって、写真の中の自分は笑っている。
写真を撮られるその瞬間、本当に嬉しいと思っていたのだ。

カメラを買い、写真を撮っているいまの自分。
写真を撮るのが楽しい。
カメラに関して、まだまだ知らないことだらけだけど、日々日記をつけるように、大事な記憶を納めていく。
上手く撮れたとか、今度はここをこうしようとか、手探りで進んでゆく。
いまが楽しいなら、その一瞬一瞬が幸せなら、それでいいじゃない。

 

パシャリ。

 

10年後、写真を見て思うだろうな。

 

あのとき、夫婦生活一年生だった私と夫。
一緒に太宰府行ったの、楽しかったなぁって。

 
 
 
 

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2020-04-25 | Posted in チーム天狼院, チーム天狼院, 記事

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