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チーム天狼院

「愛という病」という本を読んで、女子大生の私が「女」であることが窮屈な理由が、わかったような気がした


記事:長谷川 賀子

「女って、よくわからない」
時々、心の中で、呟いてしまう。彼女が昨日怒った理由がわからないとか、会社の同期の女の子を褒めたら機嫌が悪くなって困ったとか、そういうことが原因で呟いてしまうんじゃない。

だって、私は女だから。
ついでに「女子」大生、なんていう属性までいただいてしまっている。

でも、「女」がなんなのか、よくわからないのだ。
「女」がわからないということは、「女」という性をもった「自分」がよくわからないということ。
だから、時々、苦しくなって、
心の中で、誰かもわからない相手に、問いかけてしまう。
「女」って、何? って。

だって、「女」らしさを求められたり、ひと昔前の女性像を押し付けられたりすることに不満をもつのに、
その不満というものの一部を自ら望んでしまったり、女として綺麗になりたいと思い、自ら進んで女になって、女として愛されたいと願うのだ。
自分のことのはずなのに、全く意味がわからない。

ただ、私は別に、男に変わりたいわけじゃない。女の心をもって、女の身体で生まれてきたし、恋愛や結婚は男性としたい。デパ地下に言ったらテンションはあがるし、可愛いチョコレートで元気になるし、素敵な洋服を見つけた時はスキップでそのお店に入りたくなるし、レースもリボンも大好きだし、百貨店の化粧品売り場なんて鮮やかな色といい香りで溢れていて、見ているだけで、女でよかったー! って思ってしまう。

でも、それだけで、自分が女だって思えるかっていったら、そうじゃない。
こんなに「女」という言葉を連呼しても、やっぱり女がわからないのだ。
もっと言ってしまえば、「女」として生きていることが、窮屈なのかもしれない。

とはいっても、「女」であることにこんなに困っている人ばかりではない。「女」をすんなり受け入れて、「女」としての自分が幸せになるよう選択して生きている人もたくさんいる。

だけど私は、22年、心の中に「女」を飼って生きながら、この扱いが、どうも難しいのだ。

自分が素直に自分の性を理解できないことに薄々気が付き始めたのは、たぶん小学校高学年とか中学くらいの時かもしれない。ちょうど思春期。みーんなまとめて「こども」! みたいな括りから卒業して、自分についても他人についても意識し始める時期だから、もしかしたら当然だったのかもしれない。女の子たちは固まっているのが好きだったし、どこかへ行くのも約束をしていたし、誰々ちゃんがねー、みたいな話も好きだった。だけど私は一人でいることが多かった。移動教室も帰り道も、一人の方が楽だった。塾も、同じ学校の人がいない方が、ちょうどいい距離で付き合えるかなーなんて思ったりして、自分の学区とは違う地域に通っていた。まあ、小、中学校が楽しくなくて大嫌いだったことと、気の合う人がいなかったことも理由の一つなんだろうけれど、自分が過ごす環境にいた「女の子」たちの行動と自分の行動が違うことは、自分が「女」らしいんだろうか、ということを考えるきっかけになるには十分だった。それからその時、一緒にいるのにひとりでいる、ひとりでいるのに一緒にいる、みたいに見える男の子たちがなんだか羨ましかった。

高校に行ったら、女の子は固まってお弁当を食べていて、男の子は固まってひとりで食べているように見えるという光景は、あまり変わらなかったけれど、みんなちゃんと「ひとり」で過ごしている人ばかりだったから、小中学校での私の疑問は消えていた。それに高校はあまりに楽しかったのと、勉強も必死だったので、「私って、女って何だんだ!」と考えている余裕もあまりなかった。

でも、行事の時に、ちょっとだけ考えることがあった。私の高校は、地方の伝統校、みたいな進学校で、長い期間をとって、企画して準備して、地域の人みんなが見に来る行事があった。運動会なんかは、縦割りでチームを組んで、盛り上がる。その中で、3年生はクラスでいくつかの役割分担ごとにリーダを決めることになっているのだけれど、そんな時、リーダーのひとりに決まった女の子がこそっと言ったのだ。「私でいいのかな」と。その心配は、自分の能力的に心配とか、体力的に心配とか、そういうことではなくて、優秀な男の子がいる中で、女子の自分がやってもいいのかな、という心配だった。私はそれを聞いて、全体がうまくまとまる時の自分のポジションを図れる、賢い女の子ですごいな、と尊敬する気持ちと、そんなこと思わなくていいのにという、人のことなのになんだか悔しい気持ちと、ごちゃまぜの気持ちになった。そのポジションはその子にぴったりで、誰も性別で気にする人なんていないから、「大丈夫だよ。○○ちゃんにやってほしい」とみんな言っていたのだけれど。ただ、そのリーダーとみんなをまとめるトップの子は、過去も、どのクラスも、男の子だったけれどね。

それから、私は大学生になった。そして、私が女って何? 私はちゃんと、女かしら? と猛烈に疑問を抱くようになったのも、ちょうどこの頃、それも3年の就活をし始めたくらいからかもしれない。なんだかいろいろなことが、正しいことなのかわからなくなったのだ。誰がいいと思って決めたのかわからないシルエットのスカートが正装なことも、みんな足の形は違うし健康的問題にも直結するのに、めちゃくちゃ痛くなるヒールを履かなきゃならないことも、「総合職にするの? 一般職にするの?」という質問を受けなくちゃならないことも、仕事はずっと続けたいなと思って「福利厚生」で探しても、全部ではないけれど、女性が望む「福利厚生」で調べると、堂々とそれを謳ってるくせに、そこに合わせて仕事やキャリアの上限が決まってしまって全然「福利厚生」がよくないことも。優秀な女の人たちが、女性だからいろいろ考えないとね、と言うのを聞くと、ちょっとショックを受けたりしていた。

私はいわゆる「就活生」として、超落ちこぼれだったので、今更ここで書くのも恥ずかしいけれど、
あの時は、どうしても「女」として自分の将来を選択しなくちゃいけないのが悔しくて、どうにか「人」として選択しようと、必死だった。世間の中の多くの「女性」が選択すると思われている選択肢から逆らって生きようと、もがいていた。

そしてそんな考えは、仕事、だけじゃなくて、他のところにも表れていた。
「量産型女子大生」みたいな見た目と雰囲気と会話には絶対ならないと決めていたし(なっていたかもしれないけど笑)、
女子力! なんていう安っぽい言葉に踊らされたくなかったし、
みんなが少女漫画を読んでいる横で時代小説にときめいて、刀剣乱舞は後から知って、私は本物の日本刀とか鎧とかの写真を見て物語を想像するのが好き、なんていう渋い趣味があることも、「変わってるでしょー」とかいいながら、どこか本当は嬉しかったり。

でも、そんなことを言いながら、「女」になりたくて、そして「女」に思われたい自分もいるのだ。
完璧に自立して生きたいくせに、「僕がいるから大丈夫だよ」なんて言われてみたいと思ってしまうし、
就活のヒールは嫌なくせに、お店で綺麗なハイヒールを試着すると、一気に女性らしくなる足元に体温が上がるし、
女子大生っぽくない趣味をもっている自分、が好きなくせに、「少女漫画とか雑貨屋さんとか似合いそう」なんて言われたら、そんなことなんよーとか否定しながら、実際は嬉しくなってしまう。

そして今では、天狼院の女性限定イベント、「自分史上最高にSEXYな一枚を撮る」なんていう秘めフォトが楽しみだし、京都天狼院の「女子部」の担当までさせていただいている。かつての自分からしたら謎極まりない状況なのだが、そこにいる自分は好き、なのだ。

こんな風に私は、「女」というものに疑問をもって、「女」を拒絶しながら、それでも「女」になりたいまま、生きている。
全員女がこんな面倒くさいことを思っているわけではないだろうし、「女」を受け入れながらも、「女」を時々拒絶したくなる人もいるかもしれないし、何の疑問もなく「女」を生きているがために、「女」であるが故の悩み、と気づかずに面倒くさい悩み事を抱えているかもしれない。

どっちにしろ、面倒くさい。矛盾するような気持ちも、同時に抱えているものであって、どんな女性の立場であっても、「女」を説明するのが難しく、「女」であるが故の何かを抱えている。

だから、たぶん、窮屈なのだ。

でも、どんなに窮屈であっても、どんなに疑問が解決しなくても、私は女として生きていかなくてはいけない。どうせ女という性をもって生まれたなら、女を楽しみたい。でも、やっぱり、わからない。

そんな時だった。こんな私を助けてくれる、ある本を知ったのは。
書籍化された京都天狼院スタッフの三宅さんの記事「京大院生の書店スタッフが「正直、これ読んだら人生狂っちゃうよね」と思う本ベスト20を選んでみた。≪リーディング・ハイ≫」を読んでいて、「愛という病」という本を知った。本のタイトルも表紙のデザインも、正々堂々、「女」に見えた。女の経験22年、いや、女と言えるには数年の私にはわからない、女として生きるヒントが、女とは何かの答えが、ここにはあるかもしれないと、期待していた。

そして、気が付いたら一気に、読んでいた。夢中になって、読み終えていた。

この本から考えることはたくさんあって、気づかされたこともたくさんあって、男女平等や制度、みたいな難しい話を机の上で考える前にこの本を読んだ方がいいなんて思ったけれど、

そんなことよりなにより、
この本は、私が感じていた「女」としてのもやもやに、名前を付けてくれたような気がした。
「女」として生きることが、窮屈な理由を教えてくれた気がしたのだ。

世の中には色々な選択肢があって、私たちは選んで生きていく。でも、その選択が、本当に自分の基準で選んだのか確信するのが難しいように、世の中はできている。女の求めた女らしさが、本当に女が求めたものなのか、知るのが困難なのだ。だから、女たちは、女であることがわからなくなるのかもしれない。自由に選んでいるはずが、実は全然自由じゃなかった、なんてことがあるから、窮屈に思うことがあるのかもしれない。

高校の行事のリーダーだって(同級生だけど尊敬する人ばかりだったので、なるべくしてなる人を選んだらたまたま男性だった、という事実を否定するつもりは全然ないのだけれど)、女の子が「やりたい」と言わないという選択は、果たして女の子自身が作った「女の子」の基準だったのだろうか。
キャリアの選択は、「私は」を主語にしていわゆるOLになることを望んだ人たちは自分の選択をしたのだろうし、「女だから……、私は」を主語にした人は、今の社会的な状況と自分の気持ちとの折り合いをつけた結果かもしれない。迷わずキャリアを選択した人は、自分を主語にしているんだろうけれど、もしかしたら、「女」としての何かを意識しない、という意識をしているかもしれない。
すごくひねくれているかもしれないけれど、メイクを選ぶのも、洋服を選ぶのも、仕草ひとつするのも、本当に自分の意思なのか、「女」が作った女らしさなのか、疑ってかからないと、つい「誰か」のつくった「女」の中に、飲み込まれてしまう。

何気なく見ている報道番組のフレーズも、記事の書き方も、エンターテイメントも、そこに向けられた野次だって、誰かがつくった「女」で溢れていることに、この本を読むと気が付かされる。女である自分も気が付かずに、うっかり飲み込んでいたことに、はっとした。それから、女がしてしまう、はたからみたら馬鹿らしい恋愛も、ある芸能人が女性に人気な理由も、BLなどの女たちが作り出した不思議な文化も、これを読めば、こういうことか、と自分たちの、女たちの行動の理由が腑に落ちる。

そして気が付いたのだ。私は女であることが窮屈だったんじゃないということに。私は、「女」であること、その括弧書きの「」が窮屈だったのだ。

それから、思うのだ。「女」を拒絶しようとしていた自分に、堂々と、女、を求めることを許そうと。せっかく女に生まれたのだ。もっと女について、考えてもいいのだと思う。女が女であることを考えて、「女」の「」を外した時、なんだか、「男」の「」も外れる気もするし。外したいのかそうじゃないのか、私は男じゃないからはっきり意見はできないけれど。

ともあれ、自分自身の基準だと確信することは、私たちを本当の意味で自由にしてくれるのだと思う。人をベースにした世の中で、心の性も体の性も、それを持った人自身が望む姿で、生き生きと生きる世界を、想像してみたいと、この本を読んで思った。

※「愛という病」の書評も載っている三宅の記事が書籍化された『人生を狂わす名著50 京大院生の書店スタッフが「正直、これ読んだら人生狂っちゃうよね」と思う名著を選んでみた。』がいよいよ明日9月22日(金)天狼院書店にて、先行発売開始です!
書籍の詳細はこちらから。
ご予約、お問い合わせ等、コメント欄や店頭にて承っております!

 

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