「お前は甘ったれている、自慢話ばかり、ふざけるな」というメールをもらった話。《川代ノート》
今日、個人的に結構落ち込むことがあった。私が書いた記事に対する苦情のメールが来たのだ。
簡単にまとめると、川代紗生は自慢話ばかり。甘ったれている。本当の苦しみを知らないからあんなことが平気で書けるんだ。軽はずみにあんなことを書くな! というような内容だった。
私は大学4年生の頃から、かれこれ3年以上はこのWEB天狼院書店で記事を更新しているけれど、「お前の言うことには賛同しかねる」というような反論コメントがついたことは何度かあるものの、メールで直接攻撃的なことを言われたことがなかったので、ちょっとびっくりしてしまった。いや、結構びっくりしてしまった。言葉遣いも、怒りと悪意に満ちていた。本気で私の書いていることに対してムカつくとおもっているようだったし、私の記事を読んで本当に嫌な気持ちになったんだなということが伝わってきた。
正直、これまで芸能人にたいしてアンチコメントをしている人や、ツイッターでクソリプを送っている人を見ても、「ああ、暇なんだなあ。本当にやることないんだなー。嫌なら見なければいいのに」としか思わなかった。嫌だとわかっていて、どうして見てしまうんだろう。頭悪いんじゃないの? とすら思っていた。そういう人を軽蔑していた。
だから、きっともし自分にそういった悪意を向ける人がいても、気にしないように努力しよう、と思ったし、わざわざそんなメッセージを送ってくる人のことなんて無視しよう、と思っていた。
でも、無理だった。
気にしないなんて無理だ、と思った。
そのメールに溢れた私への悪意の中には、少し、期待がにじみ出ているような気がしたからだ。
「ふざけるな」と、「いいご身分ね」と、そう書いてあった。
はじめは、うわ、こんなメール送ってくる人いるんだと、その程度にしか思わないようにしていた。でも、もしかしたらこの人は、救いを求めて私の記事にたどり着いたのかもしれない、とそう思ったら、なんだか申し訳なくなってきてしまったのだ。
もしかしたら、本当に本当に辛くて、救いを求めてワードを検索して、それがたまたま私の記事に引っかかったのかもしれない。
で、タイトルに惹かれ、その記事が自分を救ってくれるかもしれないという期待を込めて読み始めたら、結局それが求めていた結末と違うとか、そういうことだったのかもしれない。
私もよくある。本当に辛い時、救ってくれるのは、家族な友人の言葉ではなく、案外、ネットや本の言葉の力だったりする。
もしかしたら、これを読んだその人は、本当に本当に辛くて、きつくて、どうしようもなかったのかもしれない、と思った。
そんなときに、きっと私の体験談は、役に立たなかったのだろう。むしろ、自分が経験したことよりもずっと浅いところで私は悩んでいて、なんだこの甘ちゃんは、と思ったのだろう。
自分よりも全然苦労してないところで、こいつは自分は辛かった辛かったとわめいて、それで自分はこんなに頑張りました、偉いでしょ、って言ってんのかよ、ふざけんな! 私の方が数百倍、数千倍辛い思いしてるわ!
と、そう思ったのかもしれない。
いや、本当のところがどうなのかは、本人に聞いてみないとわからないけれど、おそらくそんなところだろうと思った。
私はそのメールを読んで、結構落ち込んでいる自分に気がついた。他人からの強烈な悪意というものをストレートに受けたことがこれまで、そんなになかったからだ。私はそれなりに傷ついていた。ということは、このメールを送ってきた人の言う通り、私の周りには優しい人ばかりなんだな、と改めて気付かされた。
そして、思った。
何かを書いて、そして、発信するということは、誰かを傷つける可能性も一緒に、背負い込まなければならないということなのだ。
何かを主張し、私はこう思うと世の中に向けて言うということは、たとえその主張が正しく読み取られていなかったとしても、誰かを傷つけてしまう可能性がある。
たとえば私が母親の記事を書いたら、母親がいない人は傷つくかもしれないし、私が恋愛の話を書いたら、恋愛をしたことがない人が傷つくかもしれない。
そして私は、常に自分が書いた言葉が誰かを傷つけているということを承知の上で、それでも書きたいと思うことを書かなければならないのだ。
怖いな、と思った。昔は、ただ自分が思っていることを書いているだけだった。「これが書きたいな」「これを伝えたいな」ということを素直にキーボードに打ち込んでいるだけで、楽しかった。
でも、大人になるにつれ、それだけじゃ済まないこともあるんだと気がついた。
ああ、私、本当にこのまま書いていても良いんだろうか。
朝、そのメールを確認したあと、ひどく落ち込んでしまった。どんよりとした空気が自分の心臓の上にずっと留まっているような、そんな感じだった。もう嫌だ、と思った。こんなメール受け取って、記事書く気になんか、なれないよ。
月曜日から金曜日の22時に、記事を更新する。それは決めたことだった。しかも、適当な記事じゃなくて、全力の記事。自分が自信を持って出せる記事を出したい。
でも、そんなどんより雲が胸の中に立ち込めているままでは、何も書く気になれなかった。いくつか用意していたネタも、思いついた時には「絶対これ書きたい!」と思っていたのに、あっという間に輝きを失ってしまったように見えた。
どうしよう。
22時まであと2時間。
手は全く動かない。
そんなとき、ブー、とスマホのバイブがなった。
母親からのラインだった。
「今、じいちゃんから電話があったんだけど」
何か、嫌な予感がした。
「さきのアップした文章を毎日のように読んでるみたいで」
うわ、と思った。やっぱりだ。
私の祖父は、私が小さい頃からよく面倒を見てくれて、孫だけれども、自分の娘のように可愛がってくれていた。
記事を読んで、どう思ったんだろう、と思った。
孫があんなに自分のことをあけっぴろげに書いていたら、そりゃ嫌だよな、と思った。
元彼の話、結婚の話、離婚の話、仕事の話、そして家族の話も。なんでもかんでもネタにしてしまっている。
しかも、正月に祖父宅に行ったとき、こう言っていた。
「仕事がそんなに大変なら、もう辞めてもいいんじゃないか?」
天狼院の仕事が忙しいこと、きついと感じることもあるのだということを、色々と話していた。祖父はとても心配していた。とても優しくて、面倒見がいい。きっと私の将来を案じているのだろうと思った。
もうあんな風に自分の身を削ってまで文章を書くのはやめろとか、恥さらしだとか、そう思われていたら、どうしようと思った。
母親から、ラインの続きが送られてくるのが怖かった。
「何?」
怖くて、つい返事を送った。すぐに既読になった。
「家?」
「いや、まだ店」
「そか」
なんだ、早く言ってくれと、そう思っていたらまたブー、とバイブがなった。
「とにかく、さきを応援してるからって、言ってくれと」
……
……
……え?
驚いた。予想外だった。あんなことを書くのはどうなんだとか、そう言われると思っていた。
「え、なんで」
母は、すぐに続きを送ってきた。
「駅に送ってった時に、辞めちゃえみたく言ったが」
「少し長い目でみて、続けてみたら的な」
「心配して、気にしてくれて、しょっ中さきの文章読んでるらしい」
ラインを見る画面が、ゆらりと歪んだ。
店にいるのに、と思った。勘弁して欲しかった。
つんと鼻の奥の方に液体が集中していくのがわかって、必死でこらえた。
スマホにバイブ機能なんかつけとくんじゃなかった、と思った。気がつかなければよかった。いい大人にもなって、みっともない。
でも、救われた。
心底救われた。
正直、きつかった。心が折れかけていた。
私は書くということを甘く考えていたのかもしれないと思った。文章を書く。それを発信する。自分と同じ考えをシェアすることができる。面白かったと言ってもらえる。それって最高に面白いし、一生続けていけたらめっちゃハッピー! と、それくらいにしか考えていなかった。
でも、あんな風に、私が書いたことで傷ついてしまう人がいる。少なからず、いる。きっとメールをしてきた人だけではない。もしかしたら知らず知らずのうちに、多くの人を傷つけてしまっているかもしれない。
それでも書きたいのか、誰かに嫌われるリスクを背負っても書きたいのか、そう言われると、もしかしたら、イエスとは言えなかったかもしれない。
だいたい、自分は何のために書いているんだろう、と思った。どうしてこんなに書くことにこだわっているんだろう。誰かを傷つけても、自分が傷ついても、それでも書きたいと思えるほどの信念とか、目標とか、あんのかよ、自分に。
川代紗生はこういう人間で、こういうことを考えてますと、誰でも読める媒体にのせて、こうやってWEBで発信することって、思っていたよりもずっと怖いことだったのかもしれない。
3年以上経って、やっとそれに気がつくなんて。遅い。遅すぎる。
そうだ。私はいつも、何をするにも遅すぎるのだ。
何かに気がつくのにも、行動にうつすのにも、何もかもが、遅い。
そして、自分が幸せであることに気がつくのにも、本当に遅かった。
どれだけ恵まれた環境にいるのか、どれだけ自分を大切にしてくれる人に囲まれているのか、何も、本当に何も、気がついていなかった。
やっとだ。
やっとだよ。遅いよ。
本当に、メールを送ってきた人のおっしゃるとおりで、私は甘えてばかりで、何の苦労もしてなくて、軽はずみに言葉を発信してしまっていたのかもしれない。
でも、それでも。
そうだとしても。
そうだとしてもやっぱり、書きたい、と思った。
私は書きたい。どうしても書きたい。
だって、私はいつだって、こうして言葉に、書くことに救われてきたからだ。
私が落ち込んだとき、何よりも支えてくれるのは本に書いてあるたった一つのフレーズだった。台詞だった。
友達からのメールだったり、親からの手紙だったり、今日のような、祖父からのメッセージだったりした。
そしてそれと同時に、私は自分の感情を吐き出すことによって、自分自身、救われていた。何かあると、言葉にして、自分の気持ちを見える形にした。すると、ああ自分はこういう人間で、こんなことがしたくて、こう思っているんだということが明確に理解できるようになった。
言葉は、書くことは、チューニング作業なのだ。
生きていく上で、辛くてどうしようもなくなったとき、言葉がある。どうしようもない気持ちは、行き場をなくしてうろつくのではなく、「言葉」という媒体を与えることによって、落ち着きどころを見つけていく。
そうやって少しずつ少しずつ、自分のチューニングをしていく感覚が私は好きだし、そうしないことには生きていけないのだと思う。
そして自分が言葉に救われたように、もしも自分が書いたことが、誰かの役に立てるのなら、これ以上幸せなことはないと、本気でそう思っている。
もしかしたら将来、自分の気持ちは変わるかもしれないけれど、それでも今私は、そう思う。
誰かを傷つけているかもしれない。
誰かを不快にさせてしまっているかもしれない。
そう思うのは、とても怖い。
怖いけどやっぱりそれでも、私は書きたいと思う。
今こうして書きたいと思えていること、そして書く場所を与えてもらえていること、本当に幸せだと思う。
誰かにとっては軽はずみだと思えるかもしれない。
自慢話だと思えるかもしれない。
誰かを、本当に傷つけて、本当に不快にさせてしまうかもしれない。
でも、もうこの生き方を、手放すことはできなさそうだ。
申し訳ないけれど。
何かの本で、村上春樹さんが、こう言っていた。
「どんな風に書くかというのは、どんな風に生きるかというのとだいたい同じだ」
ああ、あれってこういうことだったのかもしれないと、今になって、実感している。
「川代ノート」は月〜金の22時更新!
*この記事は、人生を変える「ライティング・ゼミ《平日コース》」フィードバック担当でもあるライターの川代が書いたものです。
「ライティング・ゼミ」のメンバーになると、一般の方でも記事を寄稿していただき、編集部のOKが出ればWEB天狼院書店の記事として掲載することができます。
http://tenro-in.com/event/44700
❏ライタープロフィール
川代紗生(Kawashiro Saki)
東京都生まれ。早稲田大学卒。
天狼院書店 池袋駅前店店長。ライター。雑誌『READING LIFE』副編集長。WEB記事「国際教養学部という階級社会で生きるということ」をはじめ、大学時代からWEB天狼院書店で連載中のブログ「川代ノート」が人気を得る。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、ブックライター・WEBライターとしても活動中。
メディア出演:雑誌『Hanako』/雑誌『日経おとなのOFF』/2017年1月、福岡天狼院店長時代にNHK Eテレ『人生デザインU-29』に、「書店店長・ライター」の主人公として出演。
川代ノートは月〜金の22時更新!
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