たとえばそれが「恋」だとすれば《天狼院通信》
なっちゃんに言われて気づいたことがある。
「どうしてみんな三浦さんに恋愛相談するんだろう? なんでだろう?」
たしかに言われてみれば、そうである。
僕は、暇ではない。
むしろ、きっと忙しい。
しかも、僕は別に恋愛の達人でもなんでもない。
けれども、たしかに、よく恋愛相談を受けるのだ。
本気モードで受けるのだ。
たいていは、決まって、苦しい恋の話を聞かされる。
結構、希望がないな、と思うような話を聞かされる。
でも、なんだか、かわいそうだから真剣に考えてあげる。
すると、もっともらしい答えが出る。
まあ、もっともらしい答えが出たところで、別にそれをそのままアドバイスを受けた人が遂行するわけでもない。
でも、そのまま遂行すると、不思議とうまくいく。
そういえば、悲恋でない話もあった。
とある若いお客さんに気になる人がいると、打ち明けられた。
グリーン大通りでマルシェを出し、そこで読書会をしていたときのことだった。
僕は、躊躇せずに、攻めに攻めに攻めたらいいよ的に、ひぞくぞんざいにアドバイスしたように思う。
まあ、僕もたいていは攻めに攻めに攻めるから、それ以外の方法をそもそも知らないのだ。
すると、数日して、なんかのイベントの前に、彼が僕の前に現れた。
三浦さんにちゃんと報告したくて、と彼は照れくさそうに言った。
「うまく、いきました」
素晴らしい報告だった。ちょっと驚いた。
やっぱり、まあ、攻めに攻めに攻めたほうがいいんだな、と思った。
文学を若い頃からどっぷりとやってしまうと、悲恋でなければ恋ではないと思い込んでしまう嫌いがある。
小説では、いつだって、どこでだって、悲恋がもてはやされる。
悲恋が物語の中核にある。
だから、文学につかってしまうと、なんだか、悲恋でないと申し訳ないような気にもなってしまうのだ。
ひどくなると、夭逝しなければ文学者ではないとも思ってしまう。
けれども、リアルは複雑なように見えて、実にシンプルである。
自分の想いをただ、素直に伝えればいい。
それで、よくても、だめでも、まあ、人生はゆるやかに続いてく。
烈しいだけが恋ではなくて、静かに染みわたるように当たり前になっていく恋もあってもいい。
外見にはまるで気づかれなくても、二人だけが小さな烈しさを胸に抱えるようにして、誰に語るでもなく、それを大事にしてもいい。
当たり前のように、一緒にいる時間が長くなっていって、でも、それぞれの時間をふつうに尊重できて、それぞれの存在をちょっとだけ誇らしく思いながら、いつも小さなことでわらっていられるような、そんな恋があってもいい。
窓から吹き込む5月の風があまりに心地よくて、なにげなく、
「幸せだな」
と、口からぽろりと言葉がこぼれたときに、そう感じさせたのが、風ではなくて、そのとき当たり前のように一緒にいた人のせいだとふと気づいたとしたら―
たとえば、それが「恋」だとすれば、落ちてみるのも悪くない。
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