天狼院通信

クリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』を観て、人の「センス」について強い諦観を抱いた。《天狼院通信》


記事:三浦崇典(天狼院書店店主)

昨夜、非常にまずい映画を観た。

なぜこんな酷い映画を人は創れるのかと、考えすぎて眠れないくらいだった。

この映画の影響を受けたまま、仕事に挑むと差し支えがあると思った。
それで、今日、朝起きて、慌てて映画館に駆け込んだ。

精神と魂を浄化するために僕が選んだのが、クリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』だった。

熱狂的なファンを生んだ『ダークナイト』や『インターステラー』を創ったクリストファー・ノーラン監督が、初めて、戦争映画に挑むという。
正直言って、半信半疑だった。
いくら名作を生む監督とは言え、戦争映画は難しいのではないかと思っていた。

ところが、映画が始まるや否や、その世界にどっぷりと取り込まれた。

前提として断っておかなければならないのが、僕は、いわゆる戦争映画が好きだということだ。
好きだからこそ、戦争映画について、評価が厳しいとも言える。

様々な主人公の視点から、同時に描かれる極限状態の世界で、クリストファー・ノーラン監督は、徹頭徹尾、クリストファー・ノーランだった。
ジャンルを超えて、時代や世界を超越して、クリストファー・ノーランは、クリストファー・ノーランを体現し続けた。

人間ドラマがどうこうという問題はない。
いや、人間ドラマがどうこうという視点で観ても、それはそれで素晴らしいのだが、あらゆる局面での「選択」が、どこを切り取ってもクリストファー・ノーランなのだ。

大部隊同士による派手な戦闘シーンがあるわけではない。大編隊を組んだ戦闘機部隊の交戦があるわけでもない。

敵は、姿を見せない場合さえある。姿が見えていたときのほうが、あるいは少なかったのかもしれない。

けれども、我々、観るものはクリストファー・ノーラン監督の「選択」の元に紡がれる世界へと誘われ、その「選択」の正しさに圧倒させられてしまうのだ。

屈服と言ってもいい。
ところが、それがとても清々しい。

全編に張り巡らせられた美しいまでの「選択」の連続に、観るものの感性は尽く、歓喜するよりほかない。
下手な思考の「エンジン」を停止させて、「感性」を滑空させたほうがいい。
そこで見える光景が、おそらく、強度な感動へと誘う。

民間の船がダンケルクへと救援に向かった際に、海で拾った兵士が恐怖に駆られて取り返しのつかないことをする。
けれども、甚大な被害にあったはずの若い登場人物は、その兵士が不安そうに、「大丈夫か?」と問いかけるのに対して、こう答えるのだ。

「ああ」

と。
それを見て、その父である船長は、頷く。

音もなく、滑空する戦闘機に、地上の兵士たちが歓声を上げるあの美しいシーンを、どうして、ああも美しく描けるのだろうか。

音楽を自在に操り、恐怖と緊迫感から反転する際に、なぜ、あそこまで心が揺さぶられるのだろう。

個別に進行していたストーリーが終盤で、まるでオーケストラが音を綾なすように、一つへと集約されていく。
そして、そこに、「人間」がいることを、確固とした「人間」がいることを、我々は明瞭度高く、心に描くことになる。

エンドロールが流れたとき、なぜか、こみ上げて来るのだ。
大きな何かがあったわけでもなく、劇的な何かを押し付けらることもなかったはずなのに、どうしても、涙がこみ上げて来るーー

そのとき、僕ははっきりとその原因を知った。

「センス」なのだ。

昨日のまずい映画と、クリストファー・ノーランとを大きく分けるのは、「センス」なのだ。

「センス」は、選択に現れる。

「大丈夫?」と問いかけるのに対して、若い登場人物は、泣きながら殴りかかってもよかったはずなのだ。
けれども、クリストファー・ノーランの「センス」は、それを許さなかった。「ああ」と言わせた。

戦闘機は、自暴自棄になってある種の自滅的な行動に走ってもよかったはずなのだ。
ところが、クリストファー・ノーランの「センス」は、静かに空を「滑空」させたのだ。

強い主人公を用意して、英雄に祭り上げてもよかったはずだ。
派手にヒーローズ・ジャーニーを発動させて、登場人物の成長を描き切るという方法もあったはずだ。
しかし、クリストファー・ノーランの「センス」は、もはや口を開くことのない若い登場人物を英雄として紙面に登場させるのだ。

何が起きたのか、わからない。
何も起きていないのかも、わからない。

だが、我々、観るものは、どうしても終盤で、胸が熱くなるのを感じるだろう。

それは、ストーリーラインやキャラクターライズの勝利ではないだろう。
我々は、クリストファー・ノーランの「センス」に時を預けたことに、途方もない幸福感を覚えることになる。

――実は、この記事を書いている僕は、この「センス」という概念について語るのに、ためらいを覚えていた。
なぜなら、それは、極論すれば、あるかないかのどうしようもない二択に問題が絞られてしまう嫌いがあるからだ。

クリストファー・ノーランは、「センス」があるから、すごい。
前夜に観た監督は、「センス」がないから、ダメなのだ。

こんな単純な図式になり、「あるかなしか」以上、と話が終わってしまうが怖かった。

けれども、僕は物語の制作者でもある。

制作者である僕が、この「センス」という難しいながらも、避けては通れない話題に挑まないわけにはいかなかった。
クリストファー・ノーランに、あれだけ「センス」を見せつけられて、黙っていることなどできなかった。

はたして「センス」は、磨くことができるのか?
「合理性」を組み上げた先で、「センス」という名の「月」を手にすることはできるのか?

結論から言ってしまえば、「合理性」の積み上げで、大気圏を脱することはできないと僕は考えている。
「センス」は、「直感」に似たある種の飛翔であって、これを堂々と作品に体現できることができる人は、おそらく、「合理性」の積み上げを無数に繰り返すうちに、あるいはそれと平行して、飛翔へとつながる「濃縮」の期間へと突入するのではないだろうか。

創作の「時」が「濃縮」され、まだそれが形を得ない時代に、様々な失敗や成功の前兆を体験し、やがて、形を持ち、「センス」として飛翔する。

すなわち、人の「センス」とは、その片鱗はまだ未完成の時代にも見せるが、結局は人の意志によって、「濃縮」させる期間が必要なのではないだろうか。

苦悩しつつも、結果的に、そうして養われた「センス」は、「選択」を誤らせない。
ときに、それが外目から見れば、「直感」のように即時的にも見えるだろう。

外目から見て、「センス」がいいと思われた人は、マーケティング的な視点からすれば、究極的な「障壁」を手に入れることになる。
その「障壁」の中に、映画や物語、何らかの芸術を創り出すための、「資金」が集まり、創作を担う有能な「才能」が集い来るのではなかろうか。

宇宙の開闢と動揺に、崇高なる「センス」が埋まる前に、混沌とした「濃縮」がまずは必要となる。
それを経て、膨大なエネルギーを生む、ビッグバンが生じるように思えてならない。

「センス」とは、すまし顔で静かにそこにいるのではなく、そうした猛々しくエネルギーに満ちた運動の末に生じるのではないかと思うのだ。

僕は制作者として、この秋、11月2日(11月1日配本)に小説『殺し屋のマーケティング』をポプラ社より発表する。

『ダンケルク』を観て今思うのは、この作品に対して、どれほど「時」を「濃縮」できたかということだ。

もし、「濃縮」がうまく行けば、おそらく、爆発的に多くの読者を得て、この作品は飛翔するだろう。

もし、そうでなければ、僕の「選択」が間違っていたということで、それは「濃縮」が足りなかったことの証左になるだろうと思っている。

そう、『殺し屋のマーケティング』において、僕の「センス」が問われているのだ。

そして、今、自信を持って言えるのは、『殺し屋のマーケティング』において、ひとつも「選択」を誤っていないということだ。

ぜひ、皆さんに確かめて頂きたい。


2017-09-10 | Posted in 天狼院通信

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