京都というまちに、毒されて思うこと。《三宅のはんなり京だより》
東京と京都を行き来する新幹線の中で、いつもしてしまう妄想がある。
東京が男で、京都が女だったら、どんな会話をするだろう。
東京男(以下東)「おいおい調子こいてのんびりしてて大丈夫か?時代はこんなにもスピードを上げて変化してるのに、もっと成長しなくていいのか?」
京都女(以下京)「何言ってはるの、成長して何になろうって思うん?豊かさや人としての深みは、走ったところで増えるわけやないんよ?」
東「もっと努力して効率を上げて、成長して目的を達成することで人はよりよい人生を歩めるんだよ!」
京「無駄にこそ、楽しさや好ましさが宿るんやないの?そんな前や上ばかり見てないで、もっと広々とした何かを見たらどうなん?」
こんな議論を延々としてしまうんじゃないだろうか、と。
東京に行くたび、人とチャンスと広告の多さにびっくりする。まるでエナジードリンクでも飲んだかのように、頭がしゃきっとする。世の中にはすごい人がたくさんいる、私ももっと頑張らなきゃ。
東京を「せわしない」と言う人がいるけれど、当然だ。そのせわしなさは、東京という街を作り上げたひとたちの努力のスピードなのだ。そのせわしなさによって、日本はたぶんせわしないスピードで豊かになれたのだろうし、実際私はその恩恵に預かりまくっている。東京がいつでもあんなにきらめいてざわめいているのは、それだけ頑張ってる人たちがいるからだと思う。
一方、私はいま京都に住んでいる。東京から京都に帰ってくるたび、いつも精神が弛緩するのを感じる。ふにゃぁって心の何かがほどけて、じんわりと「今」が広がっていく気がする。
私はときどき、「京都は、どうも変わりたくないみたいだ」と思う。
もちろん、料理やサービスなど、日々この「京都」をよくしていこうと頑張ってる方はたくさんいる。でも、その鍛錬の方向性が東京とはちがう。
寺社仏閣、懐石料理、和菓子……変わらないものに、より深みを加えていくこと。それは時間を重ねる、歴史をつないでいくことでもある。京都という町に進化があるとすれば、それは下に下に伸びてゆくものである気がするのだ。
誰かが「東京の学生はいつか社会に出なきゃいけないって分かってるけど、京都の学生は分かってないね。いつまでも大学生でいられると思ってる」と言っていた。私にはその感覚がわかる。
だってここは暑いし寒い。外に出て得られる幸せよりも、中でだらだら本を読んだり映画を見たり友達と飲んだりするほうがよっぽど幸せな気がしてくる。
加えてサラリーマンが少なく大学生が多い町なので、なんというか「社会」が遠い。一生大学の図書館にこもってられる気がしてしまう。ずうっと世間は変わらない気がしてしまう。
学生にとってどっちが幸せなのか、私にはわからないけれど。
東京と京都。
どっちがいいとかわるいとかではなくて、どっちも日本にあってよかったなぁと思う。夢とか努力とか成長とかそういったものが日本を動かしてくれて、歴史とか思索とか余白とかそういったものが日本を深めてくれるんじゃないだろうか、と思ってるからだ。
また春がやってくる。京都を出るひともいれば、京都に来るひともいる。
私はというと、のこされた京都での一年をどう使おうかなあ、なんてことばかり最近考えているあたり、京都というまちに毒されたんだろうなぁと思う。
一生いるかは分からないけれど、就職は東京でするつもりだ。いきたい会社がそこにあるから、などと言っているけれど。本当は、この京都でふやけた頭をしゃきっとさせに行くだけかもしれない。
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