【足枷】イヤホンの”アイツ”を失くして気づいたこと《まみこ手帳》
通学中の電車でつり革を握りながら窓の外を眺めていました。
近頃はすっかり春の陽気ですねぇ。
しばらくぼーっとしていると、心地よい脱力感に見舞われ、ふと思い立ちました。
こんなときは「くるり」かな。
あの気だるそうなボーカルの歌声が無性に聴きたくなったのです。
私は早速iPhoneで再生アプリをひらき、リュックからイヤホンを取り出して両耳に装着しました。
すると、
???
違和感。
なんだか左耳のイヤホンからいつものやさしさが感じられない。
というか、普通に痛い。
外してみると、やっちまっておりました。
“アイツ”がいない。
名前はなんていうんだろう。あの、イヤホンを自分の耳にフィットさせてくれる、ふにふにしたゴム製の”アイツ”……。
あれが片方消えていて、角張ったプラスチックがむき出しになっていたのです。
むき出しのプラスチックを耳にはめて無理やり音楽を聴こうかとも思ったのですが、
やっぱり痛くて、断念。
脳内では完全に「くるり」モードができていただけに、
なかなか憂鬱な気分になるものですね。くそう、どうしてくれる。
しかしまぁ。なぜこんな哀れな事態になっていることに気付かなかったのか。
考えてみると、そういえばこのイヤホン、長らくリュックのポケットに入れたまま放置していたのです。
そうか、最近音楽を聴かなくなっていたんだなぁ。
もちろんBGMやらラジオなんかで流れている音楽を聴くことはありますが、
通学中の電車や歩行中にウォークマンで音楽を聴くという習慣がいつからかなくなっていたのです。
私は高校時代、ロックバンドが大好きでした。
軽音楽部でエレキギターを弾き始め、近くのライブハウスに足繁く通いました。五線譜もまともに読めないし正直あまりプレイヤーとしてのセンスはなかったのですが、とにかく楽しくて楽しくてバンドに入れ込んでいました。
最も調子に乗っている時期なんかはまさに、
『わたしの青春、NO MUSIC, NO LIFE!』
よくいる、そんな感じの若者でした。
あの頃の私はやはりイヤホンとウォークマンを肌身離さず持ち歩いていました。
ひどいときは通学中もショッピング中も、一人になると必ずイヤホンで音楽を聴いていないと気が済まないたちになっているほどでした。店や街中で流れてくる流行りのJ-POPをシャットアウトして、いつでも大好きなロックバンドの音楽に浸ることで満足していたのです。
ライブハウスが好きでした。いつもそこに行けば会えるバンド仲間が好きでした。
世間的には不器用といわれる彼らの、とげとげしい野心がかっこいいと思いました。
学校の友達も皆いい人ばかりでしたが、大好きなロックバンドや楽器の話はなかなか伝わりません。それがもどかしくて、ちょっと面倒で、なんとなく軽音楽部の連中で固まりがちになりました。
受験をして大学に入って、私の周りの環境は大きく変わりました。田舎の県立高校に通っていた私は、帰国子女やら留学生やらがこんなにうじゃうじゃいる場所に出くわすのは初めてでした。まさかブランドもののバッグを提げ、髪を巻いてヒールをカツカツと鳴らしながら歩く同年代の女の子たちとこんなにも仲良くなれるとは予想もしていませんでした。K-POPが好きな人、スポーツが好きな人、お酒が好きな人……。いろんな人と交流するようになりました。自分と全く違う人も。今まで出会ったことがないような人も。彼らは次々と私の知らない世界を教えてくれます。そしていつしかそれこそが、心から楽しいと思えるようになったのです。「もっといろいろなことを知りたい」と好奇心をもっている自分を発見したのです。
気づけば私はイヤホンもウォークマンも持ち歩かなくなっていました。通学中に大学の知り合いを見かければすぐに声をかけたいし、妙なイントネーションで話す駅前のティッシュ配りの人のこと、立ち寄ったお店で流れていたBGMのこと、生意気な小学生の会話……歩きながら見つけたものは何でも吸収して友達と話すときのネタにしてしまおう、といつでも企むようになったのです。
高校時代の自分と大学生の自分。
思えば、以前の自分はずいぶんと狭い世界で生きていたような気がします。
ある意味でイヤホンは、私にとっての足枷だったのかもしれません。
私はイヤホンをつけて世界を遮断することで
同じ場所を、同じ人達とずっとぐるぐる回っていたのかもしれません。
それはそれで楽しい時間でした。しかし、それより楽しい世界があるかもしれないということを、知らずに過ごしていたのです。想像すらしなかったのです。
両耳を塞がずに街を歩く。それだけで、面白いものがどんどん転がり込んでくることに気がつきました。
実は今日も「くるり」の気分をぶち壊されて不服だった私ですが、イヤホンが使えなかったおかげで、ちょっと良いことがあったのです。
つり革を掴んで電車に揺られていると、私の左に立っていた40代くらいの女性とその前の席に腰を下ろしている温厚そうな女性の、のんびりとした会話が聞こえてきました。
「この間見つけたんだけどね、『◯◯珈琲』っていう喫茶店があって。このくらいのコーヒーが200円なの。200円なのにすんごい美味しくて……! あたし感動しちゃったのよ。」
感じのよいおばさま方が談笑している横で、私はポーカーフェイスを気取りながら右手でiPhoneをいじりました。
検索、検索。
“◯◯珈琲”
ふむふむ、上野の方か。ここなら大学帰りに行けるな。メモメモ。
盗み聞き?まぁ、そうともいいますね。
でも素敵な情報を得られたのだから、いいじゃないですか。
イヤホンの”アイツ”を失くしたおかげで、
私の「行きたい場所リスト」に、ひとつ候補が増えたのだから。
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