【京都天狼院通信Vol13?1日で私が一番好きな時間】
*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。
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記事:池田瑠里子(チーム天狼院)
朝、庭に水をあげる時間が好きだ。
朝の光に照らされて、元気よく腕を伸ばしているかのような葉っぱたちに、
シャワーで、ざーっと水をかける……。
緑の葉がキラキラと光り、まるで魂が入って喜びをあげているかのようなその様子は、
何度見ても、毎日見ても、飽きることはない。
1日のうちで、朝は、命を感じ、しあわせな時間だと実感する。
今はそんなふうに感じるけれど、私は昔、こんなふうに木々を見ることはしなかった。
自然に目を向けて、葉の美しさだったり、小さな生き物に目を向けることなんてしない人間だった。
そもそも、庭づくりだったり、その辺に生えている草花だったりに興味を持つような女ではなかったのだ。
私の母は、植物がとても好きで、ガーデニングも趣味だったし、
一緒に歩いていると「あれは木蓮の花でね」とか、「今日は山吹がきれいだね」とか、そんなことばっかり言う母だった。
一方の私は、完全なる都会っ子。
確かにすごく小さいときは、虫取りをしたり、外で遊ぶ子供だった。
セミの抜け殻を集めることが好きだったし、蟻地獄の研究もしていたし(蟻地獄が好きで)、
学校の帰りにグミの木(と私たちは呼んでいた)に登って、その実を食べるようなこともしていた。おてんばな女の子だったと思う。
でも、どんどん成長していくにつれ、そんなふうに自然と触れ合うことはどこかカッコ悪くて、都会に染まりたい、そう思うようになっていってしまった。
公園からは自然と遠ざかり、飼っている犬の散歩すらいかず、遊ぶといったら渋谷か新宿。
道を歩く目的は、「目的地に向かうこと」。
道の脇に咲いている名も無い(名はあるのだけど)花たちに目を向けるなんて、ナンセンスだと思っていたし、
花の名前を覚えることに、なんの意味があるだろう。人生においてなんの役に立つのだろう。
中学生高校生の頃は本気でそう思っていたと思う。
そんなふうに成長した私を、いつも母は哀しそうな目をしてみて、
「あんたはもう、道を歩いていて、こういう花とか小さい生き物とかに、気がつくことすらないのね」と言っていたことをぼんやりと覚えている。
そんな私が、身近にある「自然」というものを改めて意識するようになったのは、大学を出て、仕事の関係で青森で一人暮らしを始めてからのことだったと思う。
東京で暮らしていた時とは全く違い、本当に自然と隣り合わせの環境だったのだ。
そしてそれこそ、自然の大きさと、私という人間がどんなにちっぽけか、思い知らされたように思う。
最初は大変なことの連続だった。
もう帰りたい、都会がいいと思ったことも何度もあった。
家の中には、大きいゲジゲジが住んでたり(最初は悲鳴を上げた。でも最後の方は共同生活に慣れた)、
仕事場ではゴイサギという鳥が猛威をふるい、フンまみれの池を掃除しないといけなかったり。
夏になると、カメムシが大量発生してその駆除に追われたり(こちらも最初は悲鳴をあげた。でもこれも慣れた)。
冬は過酷すぎる生活。毎日のように雪が積もり、雪かきをしないと生きていけない状況。
雪道は車で走るのは最初恐怖の連続だった。
でも、こうやってあげてみたことが全て、ネガティブなことではなかったのだ。
むしろ、私は、そんな生活に身を置くようになって、自然というもの、自分の周りにある、人間ではない別の小さな命たちに、目が向くようになったし、そこから勇気をもらうようにもなった。
雪景色は言葉で表現するのが難しいくらいに美しかったし、
3時間かけてドライブして行った白神山地の壮大さは格別だった。
気持ち悪いとずっと思っていたカメムシや、大きな蛾も、確かに気持ち悪いけど、でもよくみたらすごく繊細な作りをしていて、関心したり。
なにより、自然が仕事に疲れた休みに、ふらりと散歩に出かけた時に、美しい木々の木漏れ日の中、鳥のさえずりが聞こえる、ただそれだけで、
心が癒される……そのことを身をもって感じたなと思う。
そして、そんなふうに、身近に自然を感じで毎日を過ごすようになって、だんだんと、私自身、自分自身の人間としての傲慢さに気がつくようにもなったのだ。
そう、私は無意識的に傲慢な人間だったのだと思う。
もしかしたら全く周りからはそう思われないかもしれない。
でも私自身、自分という存在を振り返った時に、自分自身を過大評価していたり、自分が正しいと思い込んでいたり、そういうことがよくあったなと思う。
でも、そんな私という存在は、自然というものの前では、本当にちっぽけな存在であると気が付いたのだ。
私がどんなに高いお金を出してブランド物の洋服で着飾っても、美しさの定義は違えど、でも一頭の蝶の美しさには叶わないなと思ったし、
どんなに仕事で優秀な成績をおさめたとしても、雪を降らないようにすることは私にはできない。
むしろ、恋愛だったり仕事だったり、様々なことで悩んでいる私だって、この道に咲いている花と、自然の前では所詮同じ、ちっぽけな存在である……。
だんだんと、そういうふうに思うようになっていったのだ。
そう思うと、今まで目を向けることになんの意味もないと思っていた小さな花たちが、急に愛おしく思えてきたから不思議である。
言葉は通じないけど。なにも相手は考えていないのかもしれないけれど。私よりも小さな小さな命かもしれないけれど。
でも私と同じように、この地球に生かされて、そして必死に毎日を生きている……。
その姿に、小さくても、勇気をもらうようになったのだ。
青森で2年、その後栃木の鬼怒川温泉で2年、さらに京都に引っ越してきて3年になろうとしている。
生まれ育った東京の町よりも、自然が近い町にずっと住んでいて、不便なことだってもちろん多いこともある。
でも、私は、こうやって毎日、小さな自然に触れることが今では喜びだ。
もしかしたらこれからの人生、自然から遠く離れた場所で住むこともあるかもしれないけれど。
この朝の美しさと、今私が感じるこの気持ちを、忘れたくないなと思う。
そんなことを思いながら、今日も私は庭の紅葉を見上げるのだ。
今日も1日、頑張ろう。
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