正直、ヒゲのおじさんが大の苦手だった《海鈴のアイデアクリップ》
スタッフ海鈴です。
身体を洗うときのボディタオルは、粗いほうが好き。
背中に回したとき「ちゃんと擦れてるわー、汚れ落ちてるわー」と確信を覚えることができるからだ。
洗顔料も、つぶつぶのスクラブが入ってるのがけっこう好きだ。
ちゃんと顏が刺激されて、マッサージ効果で血行がよくなっているような気がするからだ。
総じて、ザラザラは気持ちがよい。
腕とか足とか、ちょっとだけ毛が生えてるのをサーッと上辺だけ撫でるのも、ここだけの話、実は気持ちがよい。
もちろん女子はツルツルに越したことはないけどさ。ザラザラ女子とか、嫌だけどさ! 生腕に偶然触れた瞬間、中途半端に生え出した毛が逆立って「ザラッ」となる感触に「え……?」って顔されるのとか、絶対、死んでも嫌だけどさ!
けれどなんでだろうな。
ザラザラは気持ちいはず、なのに。
ヒゲだけは、ほんっとーに、どーしても、無理だったのだ。
全身全霊をかけて、ヒゲだけは近くに来るのを拒否していた。
あれだけ分かりやすすぎるくらいハッキリと「拒否」を示すなんて、好奇心旺盛な私にしては、ちょっとおかしなことだったと思う。
きっとヒゲに対して、何か生命的に危機を感じ取らずにはいられなかったのだろう。
だが思い起こせば、父も一時期ヒゲを生やしていた。
ブームだったのだろうか。今はもう生やしていないが、正直、じょりじょりされるのはあまり好きではなかった。子供心に、ほんと勘弁だった。
しかし、父は父だ。身内だからまだ良かった。
ある日、一目見ただけで泣きわめいてしまうほどの天敵が、現れたのだ。
サーフィンをやっている父親に連れられ、毎日のように海で遊んでいた夏休みのことだった。
海岸の一角に、日に焼けたお父様方がワラワラと出没しなさる光景が、私にとっての「夏休み」だった。
波がよかろうが悪かろうが、「サーファー」という生き物は、海のそばに行きたがらずにはいられないらしい。
波が出ればサーフボード片手に、海に繰り出す。
波がなくても海辺でパラソルを張りバーベキューセットを開いて、とりあえず日光浴なんかをしたり、貝を採りに潜ったりしていた。
幼稚園児だった私たち子供らは、基本、放し飼いされていた。
まあもちろん、親に監視されてはいただろうが、私たちは、浅いところの海とか、磯場でカニやヤドカリ、小さい魚を捕まえるのに夢中だった。
父のサーフィンチームのおっちゃんたちは、気がいい人たちばかりだった。
けれど人見知りしがちだった私は、日焼けしたお父様方には自分からあまり話しかけようとはしなかった。
そりゃあ海だから当たり前だが、ギラッギラの太陽の下、お父様方は半裸でいらっしゃるのだ。しかも、休みには毎日のように海に通っているから、ほどよく、こんがりと焼けている。
子供心に、お父様方の風貌は、ちょっと、怖かった。正直。ほんとうは、とっても気のいいお父様方ばかりなのだが。
だから私は基本、父の後ろにぴったり付いて回るか、子供たちだけで遊んでいた。
天敵はある日、突然現れた。
仮に、その人を、山下さん(仮)としよう。
「そろそろ帰るぞー」
だんだん日も暮れ、あたりがオレンジ色に包まれてくる。親にかけられた帰りの号令に、潮にまみれた身体を洗ったり、帰宅の準備をしていた時だ。
「おー、今来たのかー」
父親が、誰かに声をかけるのが聞こえた。
「まあ、仕事帰りに、波がどんなもんか見に来てね」
私たちが帰ろうとしたところに、ひょいっとやってきたのが山下さんだった。
山下さんは、40代前後のように見えた。すらりとした体躯に、男性にしては長い髪を後ろで一本にまとめた髪型をしていた。
そして、鼻の下とアゴにしっかりと、ふさふさした立派なヒゲを蓄えていた。口が、毛で輪っか状に覆われていた。
「お、みすずちゃん、おっきぐなってー。来年から小学校かあー」
このおっちゃん、私のことを知っているだと?
ひゅっと湧き上がった違和感にひるむ間も無く、ひょい、と山下さんが私のことを軽々と抱っこした。
瞬間、
本能だった。
「びえええええええええええええええええええええ」
私は大声で泣き出していた。
山下さんの顔にごっそりと生息していた黒い物体。
まあ言ってしまえばヒゲであり、ヒゲ以上の何物でもなく、それはそれは立派な、ただのヒゲだったのが、そのヒゲを必要以上にたくわえた山下さんの顔が私の顔に接近したとき、私は、言いようのない「恐怖」を覚えた。
そのとき見ていたアニメや童話、物語に出てくるヒゲの生えた人物がたいていの場合、敵キャラや、大柄の悪役だったからかもしれない。
得体の知れないものを顔に付けているヒゲの人物=害を及ぼす悪、という方程式が完全にできあがっていたのだ。
抱き上げられて、本能的にヒゲを遠ざけようと、山下さんの胸を手で押していた。山下さんの顔に自分の顔が1ミリでも近づくことがないよう防御するのに必死だった。
「おお、ごめんよごめんよ……」
山下さんは、ちょっと悲しそうにして、私のことを下ろしてくれた。
それ以来、山下さんが海に現れると、その瞬間、私はサッと視界に入らないように、隠れるようになった。当時の私にとっては、伝説の海坊主でもなく、テトラポットを這いずり回るフナムシでもなく、山下さんこそが、海における恐怖の権化以外の何物でもなかったのだ。
そんな私は今、ヒゲをたくわえた人の元で働いている。
あれだけ「近寄るまい」と心に誓ったヒゲだったのに、一体どういうことだろう。
恐怖は、身体に無意識のレベルでインプットされるらしいが、やはり、思い返せば思い返すほど、山下さんの一件から、ヒゲに関して逃れられない縁が私にはあるのかもしれない。
あの時、子供心ながらに感じたのは、私に泣かれて、山下さんはちょっと悲しんでいただろうということだ。
一般的に「ヒゲ」というと、「ヒゲ自体そのもの」を表す意味と、「ヒゲを生やしている人物」を表す場合がある。
しかし私はもう、ちゃんとヒゲは「ヒゲ自体そのもの」として、認識するようになった。
ヒゲがあるからといって、その情報だけで人を判断するような女の子では、もうないのだ。
今だったら、山下さんともこの話をして笑えるようになっているだろう。
山下さんにこのことを謝ったら、許してくれるだろうか。それとも、もうそんなこと覚えていないだろうか。
山下さん、ごめんなさい。
ヒゲが生えているからといって、その人が強い人だなんて、とんだ私の勘違いでした。
あれだけ遠ざけていた摩訶不思議な毛の存在は、たぶん、今ならすぐに仲良くなるための、最高の話のタネになっていることだろうな。
Photo©AndYaDontStop
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