大変、申し訳なく思う。《天狼院通信》
僕はハゲである。
有り体に言ってしまうと、僕はハゲであることについて、優越感を抱いている。
ハゲにはほぼメリットしかなく、しかし、なりたい人がなれるとは限らないからだ。
ところが、そんな僕でも、ハゲであることに対して、罪悪感を覚えることがある。
罪悪感は、毎週、あのタイミングでやってくる。
そう、1,000円カットのQBでだ。
最初から未来を予言して言うと、「そんなことどうでもいいよ!」と僕を知り、これを読んでいる9割以上の方が思うだろうが、ま、気にせずに言わせてもらうと、
「今日はどうしましょうか?」
との問いに対して、僕は1,000円カットで、こう注文をつける。
「えーと、横と後ろは1ミリで、そして上が6ミリで。それで1ミリは高めで」
これを、鏡に映る自分の頭を指しながら、正確に指示を出すのだ。
そう、ほとんどの人にとってはどうでもいい話で、誰もこのトップとサイドの差に気づかないだろうが、僕にとっては結構重要な問題だ。
すると、カットしてくれる人は、たいてい、バリカンを持って、
「では、6ミリから行きますね」
と言って、トップにバリカンを持ってくる。
ここである。
この瞬間が、いたたまれなくなる。
せっかく、カットしてくれる方は、バリカンを往復してくれるというのに、バリカンはほとんど刈る音を鳴らさない。
す、す、す、と申し訳程度に、たまに鳴るくらいだ。
けれども、この「す、す、す」が、僕ら、切られ手、切り手の間で、共有されるべき小さな安堵感になる。
この安堵感は、音に正比例する。
す、が、つ、に変化するもんなら、もう、安心するのだ。
このバリカンの往復行為が、決して無駄ではなく、意義があることなのだと。
切られ手が代金を支払い、切り手がバリカンを振るっているこの時間に、たしかに意味があったのだと、その音は知らせてくれる。
なんと、心強いことか。
そして、トップの6ミリす、す、すバリカンを終えて、サイドに来たときの僕らの共有される安堵感を、ぜひ、想像してみてほしい。
ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、である。
これまで、す、す、すだったのが、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、である。
この充実感は、いったい、何なんのだろう。
これまでの徒労感と、それにともなう、申し訳なさは、何だったのだろう。
そう、僕は髪を切られていると心から実感し、おそらく、切り手も、私は髪を切っていると心から実感するのである。
このカタルシス。
映画、一本分にも匹敵する、双方から生じるカタルシスが、1,000円カットの店内で、密かに絡まり合うのだ。
切られ手、切り手の間で渦のように生じるカタルシスを感じてしまうと、もはや、やめられなくなる。
あの申し訳なさも、このカタルシスのためにあったのかとも思ってしまう。
しかし、このカタルシス、考えてみると、僕のように、トップとサイドの密度差がなければ、興り得ないのではないかと思ってしまう。
そうなのだ。
やはり、そうなのだ。
まちがいない。
ハゲは、やめらない。