物語が、僕の琴線を震わせ、喉頭を締めつけ、頬を濡らす。《リーディング・ハイ》
記事:西部直樹(リーディング・ライティング講座)
品川駅のコンコースを、少し顔を上げながら歩いていた。
前を向いたら、こぼれてしまう。
下を向いたら、落ちてしまう。
だから、少し上を向いて歩く。
ビジネスリュックを背負い
小脇に今読み終えた本を抱え
溢れそうになるものを堪えていた。
大田区での仕事を終え、これから新潟に向かうのだ。
ロジカルな説明、議論について講義をしてきた。
新潟でもロジカルに、冷静に、議論をする方法を説明します。と講義をする予定なのに。
それなのに、こんな事になるなんて。
上を向きながら、脳裏には今朝の彼女のこと、そして、ずいぶん昔の彼のことが浮かんでいた。
彼女は私に背を向け、玄関から出て行った。
ずいぶんと朝早い時刻だ。
私は朝刊を手に、パジャマの間から出た腹をかいていた。
「ずいぶん早いんだなあ」という私の言葉は、行き場を失った。
彼女は、もう行ってしまった。
遠くなっていく足音を聞きながら、ふっと溜息をつく。
朝早くから、お囃子クラブの練習に行くこと。
帰ってきたら、塾に行き夜遅くまで勉強すること。
夜は、少し恐くても一人で風呂に入ること。
少し苦手でも、チーズを食べること。
中学の受験をすること。
将来は動物のお医者さんになること。
まだ12歳だけれど、娘はさまざまなことを自ら選びはじめている。
父として、僕は娘の選択を見守るしかない。
朝早くいくのは辛いから、クラブは辞めてのんびりしたら、
とか
中学の受験は難しいから、高校受験にして、いまは遊んでみたら
とか
親として最善と思う選択を示しても、
彼女は親の選んだ道ではなく、自分で選んで進んで行っている。
親ができるのは、その選んだことが、最善だったとなるように、後押しするしかない。
彼女がでていった玄関にたたずみ、
今、読んでいる物語の主人公のことを思う。
彼女は、さまざまなことを自ら選び取っていった。
そして、それが最善であったとするために……。
選び取ってしまったことを、選び直すことはできない。
お囃子クラブの練習に費やした時間は戻らない。
受験が終わった時に、塾に行かなければよかったね。
とは言えないのだから。
その物語を書いた若い作者、
彼が紡ぐ言葉が、還暦近い僕の胸に刺さる。
中学生の時に「若きウェイテルの悩み」を読んだ。
読んだけど、中学生だった僕には、何を悩んでいるのか、わからなかった。
それを40年ぶりくらいに読み返してみた。
ゲーテが僅か25歳の時に書いた、およそ250年も前の物語なのに、
その言葉たちは胸に刺さるのである。
ウェイテルの懊悩が、絶望が迫るのである。
ゲーテの人生への洞察に深く頭を垂れるのである。
書き手の若さや年代に関係なく
普遍が、時代と言語を超えて届いてくる。
日本の若い作家の言葉が、深く胸に刺さる。
琴線が震える。
喉頭が締め付けられる。
頬が濡れる。
「人の不幸を見たい人は、不幸を見たいと声を上げる」
「人の幸せを見たい人は、この試合を見守る自分たちのように、きっと、ぐっと口をつぐんで、ギュッと拳を握りしめて、その姿を見守ってくれている」
そうなんだ。
娘の後ろ姿を見ながら、
僕は、口をつぐみ、拳を握りしめ、その姿を見守っている。
彼女の選んだことが、彼女の幸せに繋がるように、と。
僕は声高にウェイテルの情熱の空回りを責めることはできない。
結末が分かっていても、彼の書簡を読みながら、じっとその姿を見守るしかなかったのだ。
そうなのだ。
この物語のために紡がれた言葉が
私の琴線を震わせ、喉頭を締めつけ、頬を濡らすのだ。
品川駅のコンコース、京急線からJR線への乗り換えをしながら、私は上を見ていた。
そうしないと、涙がこぼれ落ちそうだったから。
京急線の電車の中で、その物語を読み終えてしまった。
途中で気がついていた、これは人前で読む本ではなかったなと。
一人、家で、夜中に読み終え
風呂に入って
ゆっくりと物語を振り返り、
言葉を反芻し
緩んだ涙腺のままに
しておきたかった。
しかし、途中で読み止める事ができなかった。
少女たちは、何を選んだのだろう。
選んだあとに何が待っていたのだろう。
止める事のできない熱情、
夢にみた未来、
彼女たちは、掴むことができたのだろうか?
その物語を、読み止める事はできなかった。
そして、
僕の
だから、僕は、怪しく上を向きながら
品川駅のコンコースを歩いていたのだ。
読み終えて、
僕の琴線は震え、喉頭は締めつけられ、頬は濡れてしまった。
その物語は、
「武道館」 朝井リョウ著 文藝春秋
………
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