学校では教えてくれない!英語と日本語の違いに見る、日本人の性質って?《海鈴のアイデアクリップ》
私がアメリカに留学していたときの話。
何を隠そう、私は生まれてから一度も海外に出たことがありませんでした。海外経験のない純ジャパの私が、いきなり海外に飛び出して経験したのは、日本にいたときには出会いもしなかったかつてない驚き。そして、たくさんの常識を覆す新しい発見。すべてが私の人生の糧になる素晴らしいものでした。
その中でも、やはり一番戸惑ったのが、「言語の違い」。
現地の人と話して仲良くなりたいのに、自分の言いたいことがぜんぜん英語に変換できないんです。とっさに反応しようにも、その「とっさに出てくる言語」すらどんな風に発すれば自然なのかまったく分からず、あいまいな反応を返すだけで会話を続けることができなかったり。もはや会話をすることがストレスと思える時もありました。
たとえば、カフェに初めて訪れたときのこと。
長い列に並んだ末にやっと自分の番が来て、
「なんて聞かれるのかな?日本語だと、『ご注文は何にいたしますか?』みたいな感じに聞かれるから、英語に直すと『What is your order?』とかかな・・・?」
どきどきしながら店員さんに声を掛けられるのを待っていると、その人から発せられた言葉はこうでした。
「What can I get for you?」
へ!?
え、今この人なんて言いました?
げっと、とか言ったかな?
え? でも主語が”I”?
あなたがゲットするの? お客さんは私じゃないの?
あ、でも語尾にfor youがついているから、私のために、ってことか。
ということはつまり、全部を要約すると・・・ええと・・・
とっさの会話の一瞬なのに、頭の中は高速回転、でもやっぱり要するに何を言っているか分からなくなって、もうこんがらがっちゃって、頭グチャグチャ。思考停止。ちーん。
とりあえず、注文を言ったら、頼んだものが出てきたことには出てきたのですが、私の頭の中に浮かんだはてなマークはなかなか消えず。
だんだん生活しているうちに分かってきたのは、What can I get for you?というのは、日本語における『ご注文お伺いします』という意味合いで一般的に使われているものだということでした。
初めて聞いたけど、そういえば、学校で習った時、こんな表現使われてたっけ・・・?
今まで習ってきた机上でおこなわれる形式ばった英語は、まったく実践的ではなかったんだ、ということにショックを受けました。
と同時に、日本語と英語における表現の考え方が、根本的にまったく違うということも明らかになったのです。
たとえば、現地の友達との旅行中、カラオケに行かない?という話題になったとき。
それまで習った英語からその表現をしようとなると、
「Let’s go karaoke!」
とか、
「Shall we go karaoke?」
みたいな表現になるのかと思っていました。
しかし、現実に友達間の会話となると、
「Do you wanna go karaoke?」
という、ぜんぜん想像と違う表現が使われていることが分かったのです。
慣れないうちは、その表現が出てくるたびにびっくりしました。だって、日本語に直訳したら「あなた、カラオケに行きたい?」という、あたかも上から目線の、高飛車な表現にも取れるんですもん。
それだけじゃありません。
「一緒に遊ぼうよ!」と提案する時だって、
「We should hang out together!」
とshouldを使うのにも違和感を感じずにはいられませんでした。
だって、それまで習ってきた知識だと、shouldは「すべき」「したほうがいい」という意味です。
直訳すると、「私たちは一緒に遊ぶべきだ!」って・・・どんだけ俺様なんですか!笑
英語は、日本語をそのまま訳しても伝わらない。どうやら、英語は日本語と違い、根本的な考え方として「自分を中心」に考えているようなのです。
そもそも、アメリカに来て不思議に思っていたことは、
「なんでこんなに皆、そろいもそろって自信満々なんだ!?」
ということでした。
最近、肥満が社会問題にもなっているアメリカですが、やはり、日本に比べたら言ってしまえば体型もルーズな方は実際に多いです。
なのに、
「自分は自分。太ってる?それが何よ。」
と言わんばかりのオーラが、全身からあふれ出ているのです。太っていようがどうであろうが、まっすぐ自分を貫いている波動のようなものを一人一人から感じるのでした。
日本にいる時の判断基準は、いつだって「周りはどうか」です。
たとえば、大学の授業。大教室での講義で、ふいに教授が「あなたはどう思いますか?」と問うたとき、生徒は周りをキョロキョロするか、もしくは目を合わせない。あたかも「この質問は自分に問われたものではない」と決め込んでいて、大人数の中で自分だけが大真面目に答えることはイケてない、恥ずかしい、という雰囲気が充満しているのです。
話題の中心も、「○○はこうだ」という人のウワサ話や、勝手に決めつけた評価についての話が多いように感じていました。話している者が、その場にいない者のことについてどうこう議論して盛り上がっている姿には、寒気を覚えずにはいられません。自分のことは棚に上げて、他に話すことはないのかと。
しかし、アメリカの学生は、その答えが間違っていようがいまいが、自分の考えをバンバン口にしていましたし、太っていたって「私ってかわいいでしょ?」というように振る舞う女の子たちばかりでした。
自分は自分。そうやって世の中のすべてを楽しみきって生きている姿に、私もどれだけ勇気をもらったか分かりません。
それに比べたら、どうやら日本では、周りの目を気にしすぎている人がどうも多いような気がするのです。
英語と日本語の違いに苦しんで分かったことは、日常で使っている言語が、彼らの絶対的な自信をもたらしているのかも、ということでした。
アメリカでは、日常的に「自分が中心」と思われるような表現で言葉を使っているのです。その姿勢が当たり前となり、普段の様子ににじみ出てくるのも、とても自然だと思います。
ということは、英語を使う人たちにならって、自分に自信を持ちたかったらまずは言葉の表現から変えていけばいいということになるんじゃないでしょうか。
言語は思想をも支配する、とも言います。
自分が操っているように見える言語、本当は、それに私たち自身が操られていることに、私たちは案外気づいていないのかもしれません。
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