チーム天狼院

死にたい、とつぶやくあなたへ《三宅のはんなり妄想記》


 

「本は、人の一番の栄養よ」

 

彼女は、そう笑った。

死にたい。

深夜1時の現代日本で、こう呟いてる人間が一体どれくらいいるんだろう。

――ありふれた呟きだ。

日本という国で企業のサラリーマンをしてたら、横断歩道の黄色い歩行者ボタンの中で

「もうすこしお待ちください」になっていないボタンを見つけるくらいの確率で、きっと見つかるくらいの呟きだ。

それでも俺は、ありったけの俺を押し出すようにため息をついて、深夜1時の路上で、呟く。

ああ、死にたい、と。

何があったわけでもない。

いつものようにちょっとエクセルで入力ミスをやらかし、いつものように眉間と額とそれからきっと膝にたるんだシワが刻まれた上司に愚痴を言われ、いつものように隣の昔は美人だったかもしれないが最近いっそう不自然な顔の白さと不自然な口紅の赤さと自然なほうれい線の目立つ女性社員にため息をつかれただけだ。

きっと帰ったら晩酌のビール缶が残ってるはずだし、勝てるかもしれない競馬新聞を買って帰る予定だ。

独身中年男性としてのまっとうな幸せは手に入れてるはずだ。

だけどそれでも、ふいに、こんな夜がある。駅から歩いて帰る途中で、死にたい、と思ってしまうような夜。

死んでしまおうか。

急に、ふと、魔が差したのだと思う。

仕事は多少気になるけれど、俺がいなくてもカバーはきっと誰かがする。両親は他界して兄弟もいない俺がいなくなって、本気で悲しむ人はいないだろう。世界は俺がいなくたって回ることくらい、この年になると、分かる。

だったら死んでも、いいんじゃないか?

そう思うと、自分でも信じられないような、でもこうなることを知っていたような心地になって、その手段を考え始めた。

ビルから飛び降りるのが一番だろうか?睡眠薬をネットで手に入れる?線路に飛び降りるのは遺族の親戚にお金がかかると聞いたから却下……。

頭が、まるで仕事の案件を処理するかのようなスピードで動いてゆく。

日本のサラリーマンは、手段を達成する能力を磨いて生きているのだ。

たとえ、その手段が何のためにあるか知らなくても。

すると、ふっとある店が目に入った。

こんな時間に、うっすらと明るい、ぼんやりとした光。

コンビニや24時間スーパーの青白い光とは違う、オレンジに似た光を発する店だ。

その珍しさに、目を奪われた。

店は、飲み屋でもなく、スーパーでもなく――看板に『京都天狼院』と書かれてある。

なんの店だ?

思わず興味が湧いて、中を覗いた。

店に入ると、そこにあったのは、一面の、本、だった。

こんな場所に―――本屋があったのか。

ふらっと、そこにある本を手に取る。

小説、か。長らく読んでないな。

学生時代までは、小説も人並みに読んでいた気がする。本の虫とまではいかなかったが同級生が面白いと言うものを読むくらいの時間はあった。

 

「本は、人の一番の栄養よ」―――幼い頃、お袋が笑って言ってたなぁ。もう他界してしまった母親の顔を思い出す。

 

しかし、サラリーマンに求められるものは、小説に載っていない。最低限のビジネス自己啓発本を読むのに精一杯で、小説まで手が出せないというのが本音だ。

もう死ぬんだから後悔しても仕方ないが、こんなふうに人生が終わるのなら、お袋の言う通り、本ももっと読んどきゃよかったな。

そんなことを思っていると、

 

「その本、面白いですよ。いい栄養になります」

 

後ろから突然、声をかけられた。

驚いた。人が―――いたのか。

考えてみれば当然だ。ここは本屋なんだから、店員はいて当たり前だ。

しかしその店員は、かなり若く、こんな時間の本屋には不釣り合いの女性だった。

 

「あ、ああ、長らく小説なんて読んでないので……すいません」

 

笑って、本棚に戻した。

営業トークを聞いてる元気はなかった。仕事で疲れきって死のうとしているんだ、店員を邪険にするくらいの自由は俺にもあるはずだ。

ふうん、と、営業スマイルのかけらもない、まるでただの女子学生のような、店員らしからぬ声を出しながら彼女はレジに戻った。

見ると店内は狭く、レジからすべての本棚が見渡せるくらいの広さだった。

 

「しかし……本が、いい栄養、か。うちのお袋も同じようなこと言ってたよ」

 

ふいに、言葉が口をついて出た。営業トークはまっぴらだが、自分も、死ぬ前にちょっと若い女の子としゃべりたいという欲求には勝てないようだった。

 

「きみはひとりで店番をしてるのかい?」

 

何より、興味がわいたのだ。深夜の本屋と、若い店員に。

 

「はい、だってここは私のお店ですもの」

 

彼女はこちらを向きもせず、レジで作業を続けたまま、大して俺に興味がないような声で答える。営業スマイルの欠片もない。

彼女に営業トークは期待してなかったはずなのに、営業スマイルは期待していたらしい。

そっけない対応に、自分が少し傷ついているのが分かる。そしてそんな自分に対して、むなしさで胸が染まる。

死にたいのに、俺はまだ、何かを期待してるんだな、世間というものに。

世間へのむなしさが、目の前の彼女に向かう。

いい大人がすべきではないと分かっていても、胸に広がっていくざらつきを、彼女に吐露したくなってしまう。

 

「どういう事情か知らないけど―――その年で自分のお店、か。いいね、生きがいかい、この店は」

 

口がひらくと、亡霊のような言葉が広がってゆく。

彼女はこちらを見もしない。

 

「俺が死のうと決めた夜も、きみはここで本を売ってるんだな」

 

そこではじめて、彼女は顔を上げた。

 

「死にたいんですか?」

 

はじめて目を見て喋られた言葉が、これか。俺は、苦笑しながら頷いた。

 

「死のうと思っている」

 

すると、彼女はレジから出て、本棚へ向かった。

慣れた手つきで、本を3冊取り出した。

 

「死ぬなら、この本を読んでから、死んでください」

 

あと、これも。

本を俺に手渡した後、彼女は、俺の前に、とあるものを置いた。

それは――――

 

「これ、何?和菓子?」

 

彼女は、和菓子を、俺の前に置いたのだ。

 

「ご存知ですか?出町ふたばってお店の、夏季限定の、みぞれ餅っていう和菓子です」

 

その『みぞれ餅』は、葉にくるまれた、透明な餅のような、例えるなら紫陽花の花びらの

ようなぷつぷつした何かが入った和菓子だった。

 

「ほんとは私のおやつにするつもりだったんですけど、死んじゃうなら、かわいそうだし、あなたにあげます―――あと日本酒も、あげますよ」

 

そう言って、レジの下に置いてあったのかお酒の一升瓶を俺に見せ、「食べてください」と彼女は、和菓子を差し出した。

その、つやっとした見た目に惹かれ、俺は思わず『みぞれ餅』に手を伸ばした。

ふるっ。

口の中で、ふるっと餅がひらいたかと思うと、ぷちぷちとした触感が口に飛び込んでくる

。何だこれは。呆然とするあいだに、餡子の味が舌をさわる。

 

「今まで食べたことのある和菓子の中で、いちばんおいしいかもしれない」

 

俺は月並みな言葉で彼女にその感動を伝えると、彼女は初めてにこっと微笑みらしい微笑みを浮かべ、

 

「まるで女子高生の太ももみたいな食感でしょ?」

 

そう言った。

女子高生の太もも、か。言い得て妙だ。

俺は思わず笑った。そうだな、この和菓子を表現するとしたら、そう言うしかないな。

この和菓子の食感は、ふるふると口にさわり、ぷちぷちと中ではじけ、ぎゅうぎゅうと舌

をおしこみ――――

 

「女子高生の太ももに流れる血管のしゃくしゃくした感じとか、きゅうきゅうとしたお肉とか、ぷるぷるふるふるした肌にそっくり。はじめてこの和菓子食べたとき感動しちゃった」

 

うっとりと何かを思い出すかのように、彼女は言う。面白いことを言う娘だな、と俺は思った。

その和菓子の美味しさと彼女の物言いに少し心がほどけた俺は、渡された本を手にとった。

 

『恋文の技術』

『眠れる美女』

『すてきなひとりぼっち』

 

三冊は、そんな題名だった。

 

「なんで、これを」

 

作者は、森見登美彦、川端康成、谷川俊太郎、ときてる。どの作家も一応知っている。しかし、死にたい俺には、正直、エンタメ小説のパワーも虚しいし、純文学読む元気もなければ、詩に感動する余裕も残っていない。和菓子でほどけた心が硬くなるのが、自分でも分かった。

 

「きみの気持ちはありがたいけど」

 

本を返そうとすると、彼女は『恋文の技術』をひらいて、俺に差し出した。

目が勝手に文字を追った。目次のページらしい。

 

“第一話 外堀を埋める友へ

第二話 私史上最高厄介なお姉様へ

第三話 見どころのある少年へ

第四話 偏屈作家・森見登美彦先生へ

第五話 女性のおっぱいに目のない友へ

第六話 続・私史上最高厄介なお姉様へ

第七話 恋文反面教師・森見登美彦先生へ

第八話 我が心やさしき妹へ

第九話 伊吹夏子さんへ 失敗書簡集

第十話 続・見どころのある少年へ

第十一話 大文字山への招待状

第十二話 伊吹夏子さんへの手紙 ”

 

―――第五話を読んでから死のうかなという気分になったのは、魔が差したというものだ。

魔が差したついでにその本をめくると、

 

“流れ星を見たので、「人恋しい」と三回祈ろうとしたら、「ひとこい」と言ったところで

消えてしまった。どうやら夢も希望もないらしい”

―――そんな言葉が目に飛び込む。反射的に、手がページをめくってゆく。

 

“そういえば、君はいつもマシマロをもぐもぐしてる。「最近マシマロに似てきた」とみんな言っていた。”

“君はおっぱいに信頼を寄せすぎている。”

“イルカのおっぱいをさがしてごらん。”

 

ちなみに第三話は、

 

“追伸 夏休みの自由研究は平和なものにしましょう。

「ヨーグルトばくだん」のつくり方なんて、先生は知りません。”

 

で終わっている。平和な自由研究を、俺にも教えてくれよ。

と思ってふはっと笑ってしまったところで、頭をぶんぶんと振り、

 

「俺には、技術を手に入れたところで、恋文など書く相手は、いないんだ」

 

慌てて本を閉じた。この本を読み続ければ、いずれは声を出して笑ってしまうことが分かったからだ。

そう、死にたいと思ってても、おっぱいや指数関数やもみまん(=紅葉まんじゅう)やコヒブミー教授などと言われると笑ってしまうのが人間というものだ。

しかしそれでは、あまりに俺の格好がつかないではないか。

俺が頑として続きを読まないでいると、彼女はつまらなそうな顔をして、川端康成の『眠れる美女』をひらいた。そして『恋文の技術』を閉じながらも胸にぎゅっと抱えている俺に向かって、『眠れる美女』の一ページ目を差し出した。

一行目。

 

“たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。”

 

眠ってる。女の子。の。口。に。指を入れよう。と。なさったり。することも。いけません。よ。

俺の頬が、かっと熱くなるのが分かった。文章を読んだだけ、なのに。

 

「眠ってる女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ」

 

笑った彼女が、そこを読む。まるで俺の心を見透かしたかのように。

そのまま吸い込まれるように『眠れる美女』を読み終わった俺の横で、彼女は、最後の『すてきなひとりぼっち』をひらき、声を出し始めた。「六二のソネットより」と微笑んで。

 

「……私はひとを呼ぶ、すると世界がふり向く」

 

彼女の声は続く。

 

「そして私がいなくなる」

 

“62(六十二のソネットより)

世界が私を愛してくれるので

 

(むごい仕方でまた時に

やさしい仕方で)

 

私はいつまでも孤りでいられる

私に始めてひとりのひとが与えられた時にも

私はただ世界の物音ばかりを聴いていた

私には単純な悲しみと喜びだけが明らかだ

私はいつも世界のものだから

空に樹にひとに

私は自らを投げかける

やがて世界の豊かさそのものとなるために

……私はひとを呼ぶ

すると世界がふり向く

そして私がいなくなる “

 

俺は。

手渡された三冊の本の上に手をおき、俺は、俺は死にたいんだ、と小さな声で呟いた。

そう、俺は、死にたいんだ。

たとえ面白い本に面白いと感じることがあったって、そんな、俺が死にたいと思ってるこ

となど、簡単に変わりはしないんだ―――。

すると彼女は、きょとん、とした顔で俺を見る。

 

「知ってますよ」

 

これ、飲んでください。

そして、彼女はさっき取り出した『田酒「純米大吟醸」斗壜取』と書かれた瓶から、とぽとぽと酒を注ぎ、ことん、と俺の前にお猪口を置いた。

この娘は―――何なんだ?

そう思う俺の理性に反して、俺の手は反射的にそのお猪口を手に取る。ふわっと甘い香りを嗅いだかと思うと、喉にやさしい甘さが流れてゆく。

うまい。うまい酒だ。

 

「女子大生の血ってこんな味ですよ、きっと」

 

彼女があんまり自然にそう言うから、俺もつられて自然に笑う。

 

「さっきの和菓子といい、まるでほんとうに女子高生を食べたことがあるみたいだな」

彼女も笑う。

 

「はい、そうですよ」

 

そして、言う。

 

「死にたいって夜中にほっつき歩いて、ここに辿りつく女子高生なんていっぱいいますから」

 

え。酒で湿った俺の唇が、勝手に、ひらく。

彼女は、続ける。

 

「女子高生はもちろん格別においしいんですけどね、なんせ栄養量が足りてない子が多くて。だからここで、死ぬ前に栄養を摂ってもらうんです。おいしい和菓子とか、すてきな本とか、しあわせな日本酒とか、私が栄養になるって思うもの。なんだかんだ直前に摂った栄養が一番、その食材のおいしさを決めますから」

 

そして俺の、目を見る。

 

「あなたみたいなくたびれた中年男性でも、いい栄養を摂ったら、意外と味のある食材になるものですよ」

 

俺が食材? なんで。俺は、彼女から目を逸らせずに、かろうじてそう問う。

彼女は、席を立つ。

 

「本は、人の一番の栄養って聞いたことありませんか?」

 

俺はこくんと頷く。

 

「でも、誤解しないでくださいね、本にとっても、人って一番の栄養なんですよ」

 

彼女は身を乗り出して、俺の顔の近くに顔を寄せる。そして囁く。

 

「本は、人を食べて、生きてるんです」

 

私は書店員ですから、ちょっとだけ、どっちのおこぼれもあずかってますけど。

 

「ねえ?」

 

彼女の舌が、彼女の唇を舐めて、濡らす。

俺は死にたいんだ、死にたいんだ、死にたいんだ。最初から言ってた、自分の言葉がリフレインする。

死にたい―――――――うそだ、こんなにも、恐怖を、いま、感じている―――のに、

 

「無駄死になんてさせません」

 

最後に、もう一杯。

日本酒で、禊ぎをはじめましょ。

 

「人は、本の一番の栄養」

 

―――ここは夜の、京都天狼院。

死にたいと呟くあなたのそばに、ふっとその路地裏に、横断歩道の渡った先に。

もしも、あなたが死にたくなったら、京都天狼院へ、ぜひおいでください。

きっと、あなたに、いい栄養を。

 

 

引用元:

『恋文の技術』(森見登美彦/ポプラ文庫)

『眠れる美女』(川端康成/プチグラパブリッシング)

『すてきなひとりぼっち』(谷川俊太郎/童話屋)

 

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2015-06-26 | Posted in チーム天狼院, 京都天狼院, 記事

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