まさかあの日、本屋で「私を殴れ!」という怒号が響くことになろうとは。
記事:山本海鈴(チーム天狼院)
「私を殴れ!」
店内に、男の怒号が響いた。
そこにいた者はみな、振り返り、声の主を見つめる。
男は繰り返す。
「私を殴れ! 力いっぱいに頬を殴れ!」
ここは、本屋だ。
普段、ゆるやかな時間が流れているこの場所に、決して似つかわしくない声だった。
お客さん同士のトラブル?
まさか、ここで暴動が起きているのだろうか?
途中から、声だけ聞いていた人は、そう思うかもしれない。
だがこれは、れっきとした、天狼院でおこなわれているイベントだ。
殴り合うイベントなんかやっていて大丈夫なのだろうか?
大丈夫大丈夫、治安の悪いことは何一つ起きていないので安心していただきたい。
「私を殴れ!」
先の一節は、れっきとした文学の一節だ。
メロスは激怒した。
ーーーそんな冒頭で始まる文学を、覚えているだろうか?
そう、『走れメロス』である。
誰しも、一度は読んだことがあるのではないだろうか。
中学生のとき、私が使っていた教科書にも載っていた。
「丸読み」と言って、クラスの席順にそって一人ずつ句点まで声に出して読んでいく、回し読みもしたものだった。
先の、本屋に響いた怒号の正体は、『走れメロス』の読書会をおこなった際、参加したお客さんが発したセリフだったのだ。
その日おこなわれていたのは、『走れメロス』を久々に読んでみる読書会だった。
参加者が順番に、冒頭から、丸読みをしていった。
ところが、まずいことが起きた。
中学校の教科書に載っている文学と、あなどることなかれ。
声に出して読み始めると、メロスが、その場に降臨しはじめるのである。
太宰治は、確信犯に違いない。
一語一句、計画されていないところがないというくらい、言葉のつなぎ方や単語の選び方が考え尽くされているものだということを、声に出して読んでみて、ひしひしと感じた。
メロスの感情に合わせて、単語の使い方を、太宰は、おそらく変えている。
たとえば、軽快に走みを進めていくシーンでは、四字熟語をふんだんに使用し、文章の中にリズムを作り上げていた。
走るスピードが上がり、メロスの息遣いもあがっていくと、短い文章で切り取られていく。メロスの呼吸を表現しているかのようだった。
「はーい、よろしくおねがいしまーす」
なんて、最初はゆるやかなテンションだった参加者も、太宰の魔法にかかってしまった。
いい大人が、どんどん、メロス化していくのである。
声に出して読んでいくうちに、自然と、セリフに、感情が入ってくるのだ。
途中、メロスの全身の力が抜け、歩みを進めるのを諦めそうになる場面がある。
そこから持ち直した際の、独白の熱さといったら、なかった。
私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。
聞いたとき、喉のところまで、熱い何かが込み上げてくるのが分かった。
それを、ぐっと、押し殺した。
私だけではない、その場にいる誰もが、何かをこらえているのが感じられた。
そして、ラストシーン。
メロスが無事、セリヌンティウスのもとにたどり着く場面だ。
「私を殴れ!」
メロスが高らかに叫ぶ。
ここまで来ると、序盤、まだそこまでのめり込んでいなかった参加者も、心も体も、もはやメロスだった。
それくらい、読んでいて軽快で、自然と感情移入させてしまう名作こそが、『走れメロス』なのだ。
「勇者は、ひどく赤面した。」
ゆっくりと、最後の一文を読み終える。
ふうー、と、誰もが長い溜息をついた。
読み終えた後も、みな、しばらく、余韻が冷め切らないようだった。
そわそわして、次々に感想を語り出した。
ああ、なんてことだ。
どうして今まで、知らなかったのだろう。
『走れメロス』、果たして、こんなに熱い物語だっただろうかーーー?
おそらく、まじまじと読んでみたのは十数年ぶりだったと思う。
中学生で読んだときには、最後、メロスが真っ裸のままで、少女が赤面するシーンばかりを記憶していたように思う。正直、こうして久々に読んでみるまで、ほとんど内容を思い出せなかった。
しかし、改めて読んでみると、これほどまでに込み上げるものがある文章だったとは!
太宰治は、確信犯的に、この文章のリズムを作り上げているのに違いなかった。
すべてが、計画されていた。
だからこそ、お手本の文学として、教科書に載っているのだろう。心から頷いた。
中学校の教科書の文学と、あなどることなかれ。
教科書にこそ、お手本となるべき、名作の文学が揃っている。
むしろ、おとなになった今だからこそ、小学生の教科書の作品に遡ってもいいかもしれない。
そして、声に出して読んでみる。新しい発見がある。
読書というと、いつも目でだけ追って読んでしまいがちだ。
しかし、朗読してみることで、作者の言葉選びの息遣いが、ありありと感じられるようになるのだ。
次の読書は、朗読で。
今だからこそ心を突き刺す新しい発見が、きっとあるはずなのである。
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