叫んで泣き喚くほど、スカートを履くのが大嫌いな女の子だった。
記事:山本海鈴(チーム天狼院)
「絶対、嫌だ!!!!!」
泣き叫びながら、ぶんぶん首を振っていた。
こうなったら、もう何を言っても聞かない。
見事な駄々のこねっぷりだ。
どうしてそんなにまで意地になって、NOを出していたのか分からない。
だってまだまだ小さな、幼稚園のころのことだ。
だけど、小さな私の中には、確固たる「これは嫌だ」という信念があった。
それは……「スカートを履く」こと。
私は、スカートを履くことが大嫌いな子だったのである。
母親にしてみたら、そうとう寂しかろう。
似合うかな? と思ってこしらえたスカートを、
「絶対、嫌だ!!!!!」
と一刀両断される悲しさたるや……
その後、何度かスカートを履かされそうになるも、
どの角度からアプローチしても、断固拒否の姿勢は、崩さなかった。
髪の毛はショートヘア。
長く伸ばすのは、どうしても嫌。
スカートは嫌いなので、常時、ズボンが当たり前。
友達の家に行くと大抵あったリカちゃん人形や、シルバニアファミリーなどの可愛いお人形遊びにも、1ミリも興味がなかった。
1回だけ、しぶしぶスカートを履いたことは覚えている。
「どうしても、今回だけだから」「せっかくの晴れ舞台だから」との念押しに負け、チェックのスカートで上がったピアノの発表会だった。
せっかく買ってもらったのに、帰ってきてすぐ脱いだ。
結局、そのスカート嫌いは、幼稚園では少しも直らなかった。
だから、幼少期に撮られた写真で残っているものは、ズボンしかない。
不思議なのは、どこで、そんな「スカート嫌い」な自我が芽生えたのか、まったく分からないことだ。
みんながみんな、そうだった訳ではない。
ちゃんと周りに、スカートを履いていた子はたくさんいた。
明確な理由はなかった。
ただひたすらに、「スカートが嫌い」。
その一点張りだった。
その影響で、小学校に上がってからも、基本的にスカートは自ら選ばなかった。
中学生になって「制服」として強制されて初めて、やっと、履くようになったのだった。
ガタン、ゴトン。
電車の窓から見える、公園で遊ぶ親子連れを見て、なぜだか、そんな幼少期の強い主張を、ふと思い出した。
あれは一体、なんだったのだろう?
どうして、あそこまで泣き喚いて拒否するほど、嫌いだったのだろうか?
今考えれば、「女の子女の子することへの恥ずかしさ」の気持ちがあったのかもしれない。
だって、あんなに、
「一生スカートなんて履くもんか」
と心に誓っていたのだから。
幼いながらに、繊細な気持ちを感じていたのだ。
そんな誓いも、時間が経ってしまえば分からない。
ふと、自分の足元に目をおろす。
夏を目前に、ひらひらと、ゆらめく布生地が見える。
大人になった今、その考えは、180度ひっくり返った。
いま現在はむしろ、逆になっている。
ほぼ毎日、スカートを履いているのだ。
パンツスタイルの日の方が圧倒的に少ない。
あんなに、泣き喚きながら拒否するほど、スカートが嫌いだった女の子が、である。
小さい頃の経験が、今の自分を形づくっている。
そう言われることも多い。
でも、案外、そうでもないのかもしれない。
同じ人間、されど、どう考えが変わるかなんて分からないのだ。
ガタン、ゴトン。
散歩中の親子が、電窓の風景とともに流れていく。
でも、こうも思う。
あんなに強く拒否できるほど、今の私は主張を持っているだろうか?
「スカート、断固拒否」
その意志が外れるにつれて、色んなことが受け容れられるようになった。
あんなに泣いて喚いて、エネルギーを使って。
そんなことに、力を発散しなくても、よくなった。
本当に?
「そんなこと」なのだろうか?
何か、自分の強い意志のために、死ぬほどエネルギーを使って主張する機会が、今の自分にあるのだろうか?
そもそも「主張」は、あるのだろうか?
スカートは、確かに、楽だ。
それに気づいてしまったら、戻るのには勇気がいる。
でも、本当にそれで、いいのだろうか?
ガタン、ゴトン。
もう、外に親子の姿は見えなくなっていた。
減速する。駅に着くようだ。
……次の休みには、ボトムを買いに行こうか。
心に決めて、私はゆっくりと、電車を降りた。
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