チーム天狼院

【京都天狼院通信Vol21:本との出会いは一期一会】


*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。

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記事:池田瑠里子(チーム天狼院)

先日、社長の三浦が、「今日はこれだけしか本を買わなかった」と、Facebookに写真をあげていた。

2万円くらいの書籍の山。

さすが、社長……。そう思いながら、自分の家を見渡した時に、積み上げれらた本たちが目に入り、私は、思わずため息をついてしまった。

最近、そういえば、思い返してみたら、私は本を読んでいない。

私はもともと、すごく本が好きだ。ずっと本は友達だと思ってきたし、私の財産のひとつである。そうずっと信じて、本を買って、読んできた。

親が読書家だったのが、大きな理由の一つだろう。私にとって、本は、難しいものではなく、楽しい娯楽の一つだった。

いつでも私に本は違う世界を見せてくれる、どこでもドアだったのだ。

物心ついた時に、一番うれしかったプレゼントは、人形でもゲームでもなく、なんだかんだ本だったし、

中学受験の時も、高校時代、学生時代も、ずっと様々な本たちに接して、今まで生きてきた。

大人になっていくにあたり、「本は財産だ」という認識が子供の頃より増し、

意識的にも、なるべく読書のジャンルが偏らないように、哲学書から小説、ビジネス書から、ラノベまで、幅広く読もうとしてきたと思う。

私の周りの友人たちの中では飛び抜けて本を読んできた方だし、実際に持っている本の数も、一般的な一人暮らしの人からしたら、びっくりするくらいの量を所持している。

時間が有り余っていた大学時代とは違い、逆に時間がまったくないように感じるくらい忙しい社会人になっても、私にとって読書はストレス発散の一つのツールには変わりがなかった。

前職は体力的にもきついことが多くて、家に帰ったらぐったり。もう眠りたい……。

そう思うことも多かったが、

一方で体がそれだけしんどかったとしても、本を読むことで自分の精神のバランスを保っている部分も多々。

逆に、本を読まないことで、体調を崩してしまうこともしばしばあるくらいだった。

だから、わざわざ「トイレ用の本」「お風呂用の本」と分けて用意していた時期もあったっけ……。

そう、私にとって、読書は、毎日食事をすることとか、毎日服を選んで着て出かけることと同じように、

日常において、当たり前のことの一つだったのだ。

それが、ここ数ヶ月、思い返したらまともに本を読んでいない。

本の感想も書いたのも、もう何ヶ月も前のことである。

本屋の店長なのに。由々しき事態だ。

ということで、久々に休みを使って、本棚の整理をしがてら、今まで読んでいなかった本を読もう!

そう思い、いろいろ自宅にある山積みの本たちを見ているのだが、

「え、こんな本買っていたっけ??」

そう思う本たちが、あっちからもこっちからも出てくるから不思議である。

一体どういう状況で、この本を手にとって、買おうと思ったのだろうか??

(と思って思い返すとじわじわと状況が思い出されてきたり)

あれ、こんな本、あったっけ??

(買ったことを忘れていてごめんなさい!)

ぱっと見て出会いを思い出せない、でも今見返して「確かに面白そう」「あーこういうの私好きだよな」「あーこれあそこで買ったんだ!」と思う本たちに囲まれていると、

本当に本との出会いは、一期一会だなと強く思うのだ。

自分が今、お店で店長をしていると、世の中には、重版未定になってしまう、そういう本たちがたくさん溢れていることを、間近に感じている。

それは本屋で働くまで、知らなかった事実のひとつだ。

あまりにもたくさん本がこの世の中に溢れていて、当たり前のように本を読むことができているから、

「もう2度と会えないかもしれない」「棚にささっているこの1冊を見逃したら最後、もう出会えないかもしれない」ということを、肌で感じたことは少なかった。

でも、本当に多いのだ。重版未定で、この世から消えていこうとしている本たち。

発注をしていると、そのことがよくわかる。

お客様が買っていかれて、面白そうだから、また後日、私も買おう……!
そう思って、多めに発注をかけようと思ったら、無情にも、重版未定……。

そんな場面に、この2年、よく直面してきた。

もちろん、雑誌もそうである。むしろ雑誌の方がシビアかもしれない。

面白そうな特集だ、いつか買おう……そう思っていたら、気がついたらバックナンバーもすべて売り切れていて、手に入らない。そんなこともザラである。

よくよく考えてみたら、当たり前の話である。毎月毎月、恐ろしいくらい、書籍は出版されている。どんどん新しいものが出てきている。

それなのに、古いものもどんどん出されていくわけはない。淘汰されていってしまう書籍だってたくさんあるのだ。

そんな実情を知った今だからこそ、「見て、いいなと思ったら、すぐに買う」という習慣が私にはできてしまったのだなと思う。

おかげで我が家は現在、本だらけで大変なことになってはいるが、

それが紙の本の楽しみだとも、強く思うのだ。

私は電子書籍が嫌いなわけではない。最近、アプリで漫画を読んだりすることもある。

正直、電子書籍は便利だと思う。我が家には一人暮らしでは異常なくらい本があるが、はっきり言って、本のせいで部屋が片付かない状況になっている。

(もう本棚にも入りきらないし)

それでも、紙の本を買ってしまう大きな理由は、

物体として自分の前にあることにより、その本の重みも感じ、そこから買った時のことを思い出すことができ、いつでもその背表紙を見た時に、そばにいてくれるような、あたたかい気持ちになれるから、だと思うのだ。

今日も片付けをしながら、私は自分の本棚の本たちを見返してみているが、一冊一冊の背表紙を見ていると、その奥に広がる世界が、パッと見えてくるようで、

本当に愛おしくなってしまう。

あーこれは失恋したあの時、読んでいた本だな。

これをくれたあの人は、今、元気かな。

そういったことは、もしかしたら、電子書籍の表紙たちを見ても、想像できるのかもしれない。

私がずっと紙の本に慣れてきているから、そうやって思い出しているだけなのかもしれない。

1冊1冊の重み、匂い、思い出も紙の本には詰まっているように感じてしまうのは、贔屓目かもしれないけれど、でもやっぱり、紙の本だからこそ、だと思ってしまうのだ。

私は、これからもまだ当分、天狼院書店で働くだろう。

これからも、様々な本との出会いが待っている。

どれだけの本と出会って、その本との関係性が生まれてくるか、わからないけれど、

これからも私は、本というものを大切にしたいなと、そう思うのだ。

さて、そんなこんなで、私は本棚の片付けをしているのだが、一向に終わりそうにない。

我が家にはあっちもこっちも面白そうな本ばかり。そして積読はもはや50冊以上。

結局今日も本を1冊も読みきれず仕舞いである。

社長の三浦の読書の域に到達するまでは、まだまだになりそうだ。


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