【白昼夢】体育館の窓を見て、救われたある日《こじなつのキャンパスライフ》
早稲田大学の早稲田キャンパスには、3つ最寄り駅がある。東西線の早稲田駅、都電の早稲田駅、それから山手線の高田馬場。とはいっても高田馬場駅から大学までは歩いて20分かかるので、高田馬場までしか定期を持っていない学生はそんなに多くない。そして我らが野呂のような物好きを除いて、通学に都電を使う学生もあまりいない。経由駅が大塚になるので、遠回りになってしまう人も多いからだ。したがって、大学近辺に住む一部の学生と、「馬場歩き」を励行する堅実学生、超マイノリティ都電ユーザーを除くマンモス大学の全学生を、東西線の早稲田駅が裁くことになる。
早稲田駅はたくさんの学生を処理できるようなキャパを持っていないから、各時限が始まる直前のホームはそれこそ人が線路にあふれ出そうな勢いである。そして駅の出口を出ても大学の門に向かうルートは2本しかない。早稲田中学・高校の体育館脇、2人並んで歩くのが精いっぱいな細い歩道を通っていくか、早稲田キャンパスへ向かう文学部生が合流してごったがえす馬場下町の交差点を経由するか。私は早稲田中高の体育館脇を通っていくのだけど、通常だったら3分でさくさくと歩いていける道のりが、ひどい時には10分かかる。渋滞して人の流れが止まるときすらあるのだ。そのせいで授業に遅刻したことも、私に限らずみんな経験があるはず。
授業が始まる前はいつもそんなだから、今まで2年と半年以上早稲田に通っていたにも関わらず、その存在に全く気付かなかった。どうして発見するに至ったかというと、私がその時授業に遅刻して学校に向かっていたので道路が空いていて、視界が下の方まで開けていた、というのがひとつ。そして、そこから人の腕みたいなものがにゅっと突き出ているのが視界の隅に入って、ぎょっとしたのだ。
猟奇的な光景を見てしまったと思ったが、視界の真ん中に収めてみると、それは窓だった。今どきの新しいデザインの校舎には、もうついていないところもあるのかもしれない。でも多くの方が、言われてみれば簡単に思い出せるはず。体育館の壁の下に風通しを良くするためについている、軽い力で開け閉めできるアルミ製の灰色の引き戸。室内球技部のボールが外に飛び出していかないように、格子がはめられている。その格子のあいだから、窓のそばで涼んでいるのであろう生徒の腕が飛び出しているだけだった。その腕が引っこんだかと思うと、眼鏡をかけたいたずらっぽい瞳がのぞく。
そういうことか、と安堵しつつ、なんだか強烈な既視感に襲われて頭をひねった。頭の中のダムの堤防が、ガンガン叩かれているような感覚になったのだ。今の光景の中に、昔なじみのあったものが隠れていた気がする。それから長く時間が経って、降り積もった記憶に覆い隠されて取り出せなくなりかけていたものが、今になって主張を始めたようだった。
あ、そうか、と思った瞬間に、私は母校の中学校の体育館に寝転がっていた。例の、アルミの小窓のそばに。ひたすらスパイクを打ちまくって熱っぽい腕に、そよそよと流れてくる風がちょうどよかった。体育館の四隅にある大きな引き戸のそばで休憩してもいいんだけど、直射日光がじかに当たってしまうのでクールダウンにならない。その点小さな窓のそばならば、日を浴びずに風に当たることができた。窓の外にはベランダがあって、女子のにぎやかなおしゃべりの声が近づいてきたかと思うと、目の前をカラフルなバスケットシューズが横切っていく。そのあとに続くのは、後輩たちのバレーボールシューズ。一度寝転がってしまうと体が重い、寝そう……
はっと我に返って、こっちを見ている眼鏡の彼に会釈すると、授業に向かう足を速めた。なんということだと呆然としながら。私は今まであったことをこんなにも忘れてしまっているのかと残念に思った。バレーボールに6年間取り組み続けてきた思い出はかけがえのないものなのに、私が思い返す景色の一枚一枚の中に「灰色の引き戸」は描かれていなかった。当時は鮮明だった景色が、時が経つにつれてだんだんと画質を下げていき、その写真の中に写りこんでいたものが一つ一つ姿を消していき、当時のままの景色を再現することが二度とできなくなる。こういう偶然に頼るしか、正確に記憶を再現する手立てがないなんて、なんともどかしいことなんだろう。
ただ、そんなことを私は、笑いながら考えていた。
だってやっぱり、当時のことを思い出すと楽しかったなあと思うし、懐かしいのだ。
他の人の経験を、うらやましがる余地もないくらい。
もう大学生にもなると、若くして大きな結果を出している同世代を見つけるのなんて簡単だ。例えばスポーツの場面でも、21歳という年齢はむしろ若いほうではない。活躍しているスポーツ選手に、自分より年下の選手は決して少なくない。20代前半にして起業をし、社会に貢献する学生の話はテレビでよく聞いて知っている。10代で文学賞をとった小説家とか、19歳の映画監督とか、もう枚挙にいとまがない。
それに、自分の周りでもそうだ。海外経験が豊富でいろいろなものを見てきて、もはや人間の格が違うと思う友人もいるし、大学3年生で国家総合職試験にパスするとか、中高とダンスで全国優勝を経験しているとか。
そういう人を見ているとどうしても、私は今までぼけっと何をしてたんだろうなあ、と思ってしまう節がある。そんな人たちのような経験を積めたなら、私もぱっとしないやつじゃなかったのかなあと、自分が歩いてきた道を、否定したくなるときもある。
でも、こうやって昔あったことを振り返って、どうしてしっかりと覚えていなかったんだろうと地団駄踏んで悔やむくらいには、その当時が楽しかったということだ。ほかの人の経験と同じものさしではかるものではない。経験に勝ち負けを付けるような尺度は本当はなくて、自分が忘れたくないと思う景色が存在するだけで幸せだったし、笑顔になれた。それだけで十分だった。
昔のことをより鮮明に思い出そうとしたら、それはもう今回のような偶然に頼っていくしかない。それはいつ起こるかわからないし、やっぱり忘れていくのは寂しい。でもこれからも、忘れたくないと思う景色に出会えていけるはずなのだ。ほかの誰のものでもない、自分だけの景色が。そいつは、ぱっと見そんな顔はしていないかもしれなくて、後からよく考えたらやっぱりそうだった、なんてこともあるかもしれない。だからそいつがやってきたのを見過ごさないように、丁寧に過ごしていけたらいいと思う。
そしてそれを忘れないように残しておくために、私にできるのは文章しかないと思って今回これを書いていますけど、やっぱりリアルに再現できる写真もいいなと思い始める今日この頃。フォト部顧問の榊先生がカメラ買ってくれると言ってたし、写真始めようかなあ……なんて。
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