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チーム天狼院

たったひとりの、お父さんへ。≪三宅のはんなり京だより≫


 

「どうやら、私も娘に嫌われるような歳になってしまったようです」
そのお客様は、少し寂しげに微笑みました。

それは、春がはじまったばかりの、暖かい日のこと。平日なのでそんなに人はいない、おだやかな京都天狼院内で、私は本の整理をしていました。
すると、一人お客様がいらっしゃいました。

その方は、ちりんと鐘を鳴らして入ってきた後、ぐるりと首を回して店内を見て、私に
「いつも娘がお世話になっております」
とゆっくりお辞儀をなさいました。

私が「娘?」ときょとんとすると、
「京都天狼院の店長さんですよね?
娘がよくこちらにやって来て、本を読ませて頂いてるみたいで」
と、その男性は言います。
あ、もしかして。
「みなこちゃんの、お父様ですか?」
私が聞くと、男性は頭をかいて、はい、と笑いました。
みなこちゃんと、そっくりの笑顔で。

 

みなこちゃんは、京都天狼院の常連さんで、小学四年生の女の子です。
京都天狼院のすぐ近くに塾があり、お母様のお迎えの待ち時間に、よく本を読みにやって来ます。どうやらアガサ・クリスティや江戸川乱歩といったミステリが好きみたいで、謎解きの場面でしょうか、興奮したときはその二つくくりの髪がゆれるのです。
いつもお母様とはやり取りをしますが、お父様が店舗にやって来たのは初めてで。

「みなこから、いつも話は伺っているのですが……やっとご挨拶しに来れました」
と照れながら笑うお父様は、四十代くらいでしょうか。お腹はわりと貫禄がございますが、シワの刻まれた焼けた肌に、少年のような笑顔が若々しい印象的。ポロシャツと汚れたスニーカーが似合っていて、京都天狼院によくいらっしゃるサラリーマンさんとはまた違った風貌です。

「いえいえ。みなこちゃん、私とよくミステリの話で盛り上がるんですよ。聡明で、素敵なお嬢さんですね」
私が笑いながらそう言うと、へえ、とお父様は目を見開きました。
「本が好きなのは知っていましたが、みなこは……ミステリなんて読むんですね」

私が児童文学の棚を指差して、「みなこちゃん、あのへんの棚をよく見てますよ」と言うと、お父様は、たたっとその棚の方に駆け寄ります。なぜか四十代とは思えない、軽快な動きです。

「ああ! このシリーズ」
お父様は、そう言って、悪戯っ子のような顔をしました。
「……このシリーズを好きな子は、すぐ分かります」
お父様は人差し指を立て、こちらに向き直ります。そして、
「さて―――でしょ?」
と、にやり、と笑いました。

 

――お父様が手にとった本のシリーズとは、児童文学ミステリの傑作『名探偵夢水清志郎事件ノート』シリーズ。
はやみねかおるさん著で、講談社の青い鳥文庫から出ているのですが、もう、私たちの世代でこの本に影響を受けていない本好きを探すのが難しい! というくらい、たくさんの子どもの心を掴んで離さない物語です。この歳になって分かりますが、子どもの時に読んだこの本から生まれた「熱狂」が、どれほど強く、大きかったことか。私ももちろん、ずっとずっとずーっと、大好きな作品です。

そしてそのシリーズの探偵が、謎解きをするときには必ず「さて」から始めるんですね。
私も、お父様の言葉に「そうですそうです」と笑ってしまいました。
「よくご存知ですね! みなこちゃんも、このシリーズ大好きなんですよ」
私が言うと、
「そうですか……このシリーズは、大人の私が読んでも、心底没頭できる面白さがあり、深さがある。とってもいい物語です……みなこは、このシリーズを好きになれて幸せですね」
お父様は、愛おしそうに本の表紙を撫でます。
そこで私は「このシリーズをお読みになってるなら、こちらの本は、いかがでしょう?」と、一冊の本を棚から取り出しました。

 

淡い緑に、教室のイラストが描かれ、真っ黄色の元気な文字が踊る表紙。
『名探偵夢水清志郎事件ノート』シリーズの作者さん・はやみねかおる先生が書かれた、『ぼくらの先生!』という本です。

 

「はやみねかおる先生の、短編連作集です。
先生を定年退職した男性が主人公なのですが、じんわりと、あったかいものが嬉しく広がるような本ですよ。
お父様のような歳の方にこそ、伝わるものがあると思います」
私がそう言うと、お父様は、目を細めて、その表紙を眺めます。

そして、お父様は顔を上げ、なぜか寂しげな顔で言いました。
「実はね……この本、こないだまで読んでたんですよ」
私が、そうなんですか、と驚くと、またお父様は目線を下げられます。
「でも、最後まで読めなかった」

 

お父様は、もう一度、にこり、と寂しげに微笑まれました。
「どうやら、私も娘に嫌われるような歳になってしまったようです」

 

私は、驚きました。もちろん家庭内では何があるか分からないものですが、どうも反抗期特有のぎすぎすと軋む雰囲気を、みなこちゃんからもお父様からも、感じなかったからです。
「その本が、みなこちゃんの反抗期と……関係あるんですか?」
不躾な質問と分かりながらも、ぽろりとそんな質問が口を出てしまいました。

お父様は、「ええ……」と、こくりと頷きます。
そして、「お仕事に差し障りがなければ、聞いてくださいますか?」と申し訳なさそうに、話し始められました。

「みなこももう小学四年生ですからね、年頃かなぁ、と思うのですけれど。

たとえば、私は酒が好きなんですが……みなこは昔からよく『お父さん、ついたげる』ってビールを注いでくれてたんですよ。
娘から注いでもらったビールなんて、たとえ発泡酒でも世界一おいしいんですよねぇ。

だけど、最近になって、急に、注いでくれなくなって。
『お父さんがお酒のむの、きらい』って言うんですよ……!
たしかに酔っ払って帰ったときに、あんまりいい顔されなかったことがありますが……やっぱりさみしいもんですねぇ。

それから、少し恥ずかしいんですけど、よくみなこは私の白髪を抜いてくれてたんですよ。
お父さんの白髪抜くの、やりませんでした?
そうなんです、みなこもやってくれてて。やっぱりそうやってコミュニケーションとるのがすごく楽しかったんですが、それも最近、してくれなくなってね。

あとね、娘にも学校で好きな男の子ができたらしくて。
微笑ましいじゃないですか。
だけど妻にはそういう話するのに、私には全くしてくれなくて。
聞いてもね、『お父さん、うざい!』って言われちゃったんですよ!
男親には、話したくないもんなんでしょうが……。

やっぱり反抗期になって、父親とは話したくなくなるのかな、って思うんです」

背中をどんどん丸めながら寂しげに、お父様は語ります。

「そしてね、こないだ、家でこの本を読んでいたんです」

そう言いながら、『ぼくらの先生!』の本の表紙を、ゆっくり撫でます。

「すごく共感できつつ、じんわり泣けて笑えて、生きてることが嬉しくなるような、ああいい物語だなぁって思って……ゆっくり味わっていたんですが」

リビングのダイニングテーブルで読んでいたら、みなこが、リビングにやって来て。

――みなこ、この本すごく面白いぞ。
そう、言っただけなのに。

「みなこが、突然目を潤ませて、『その本面白いだなんて、お父さん、嫌い!』っていきなり言ったんです」

 

「こっちはね、ええっなんだそりゃって、訳も分からないですが、理由を聞いても黙りっぱなしですし、言葉の意味がわからないまま、この本をそれ以上読めなくなっちゃったんです。読んだら、そのことを思い出して悲しいですからねぇ。本も、古本屋に売っちゃって」

うーん、とお父様は唸られました。

「……いつのまにか、ずいぶん嫌われたようです」

そう言って、顔をあげられます。

「長々とスミマセン」と言いながら、お父様は頭をかきます。苦笑しながらも、みなこちゃんの言葉に傷ついたことがはっきり分かる顔。

 

でも―――。
私が、思ったことを伝えるために、口をひらいた時のことでした。

 

ちりん。
玄関の、ドアが開きました。

「あれ」

その小さなお客様が、店内に入ってきた途端、目をぱちくりと開きました。
二つくくりが、揺れます。

「お父さん!?」

みなこちゃんが、塾のロゴが入ったショルダーバックをさげ、店に入ってきました。

「みなこ、今日塾だったんか! 父さんが送って帰ろうか?」
電車だけどな父さん、とお父様が頭をかいて笑います。
するとみなこちゃんは、顔をカッと赤らめ、
「お父さんは……電車で帰ってていいよ」
と小声で言いました。

お父様はしょんぼりして、
「じゃあ、すいません。みなこがお世話になります。これ買いますね」と、『はやみねかおる公式ファンブック』をレジに出されました。
私は少しだけ苦笑しながら、お会計をします。
また来てくださいね、としっかりお父様を見つめて言いましたが、お父様は、はぁ、と会釈してくださるだけです。

 

そして、お父様は店を出てゆきました。
みなこちゃんは、いつものようにオレンジジュースを頼み、勝手知ったる風で、棚をじっと見つめます。今日読む本を、探しているのでしょうか。

「―――この本、いいですよ」
私がみなこちゃんの背後にすっと近寄ったことに驚いたのか、みなこちゃんはびくっと振り向いて、私を見上げます。
私は本棚から取り出し、みなこちゃんの手に、本を渡します。

本は――『ぼくらの先生!』です。

「お父さん、みなこちゃんが自分のこと嫌いだって思ってらっしゃいますよ」

みなこちゃんは、はっと眉をひそめ、「嫌い?」と、聞き返します。

「あなたがお酒を注がなくなったこと、白髪を抜かなくなったこと、好きな男の子のことを話さないこと、……『ぼくらの先生!』を嫌いなこと、ぜんぶ、お父様に対する反抗からだっておっしゃってました」

そんなになんでも話したの、と呟き、みなこちゃんは口をとがらせました。

「けれど、きっと、みなこちゃんの場合、『嫌い』とはちょっとちがいますよね」

私は微笑みました。
みなこちゃんが、黙って、私のことをじっと見ます。

「――謎解き、しましょっか」
私は笑いながら、椅子に座りました。
みなこちゃんと同じ目線で、みなこちゃんをまっすぐ見ることができるように。

すると彼女が、何も言わず、大きな目でこちらをじっと見つめます。
聡明な子です。謎解き、という言葉にも茶化されず、私の言うことに、真剣に耳を傾けてるのが分かります。

 

私は息を吸い、人差し指を立て、言いました。

「さて―――――」

 

みなこちゃんは、『さて』という言葉に反応したように、姿勢をただして、私を見つめました。

「まずお酒の件ですが、小学四年生くらいになると、女の子のあいだで急に流行る物がありますよね」

彼女は、こくんと頷きます。

「ずばり、『恋愛』と『ダイエット』」

小学校高学年くらいから、見た目を気にして、好きな男の子のことを気にし始めるのは普通のことです。
でも自分で服を買ってるわけではないですし、お洒落するというよりも、「ダイエット」という方向に行く子が多いこと多いこと。最近ではわざと給食を残す子もいたりして、困ってる先生もいるのだとか。

そして、お父様が大好きなビール。お父様の、でっぷりしたお腹。

「あなたは、お父様にダイエットが必要なこと、そのためにはお酒をやめるのが大切なことが、分かってたんですよね」

彼女は、こくん、と頷き、言います。
「お母さんがビール注ぐのやめて……最初はお母さんがいじわるしてるって思ってたけど、そうじゃないことが、わかって」

私はそうですよね、お父様のためを思うからこそ注がないんですよね、と思わず笑ってしまいました。

 

「では次。白髪の件」

ぷつん。私が、髪を抜きました。

「今、私が髪を抜いて頭皮を痛めたダメージと、白髪を抜いて頭皮に与えるダメージって、実は変わらないんですよね。昔はそんなことわかってなかったけど、お父様がハゲないためには白髪は抜かないほうがいいって、最近になって、あなたは知ったんですよね」

彼女は、「お母さんから言われたの。お父さんの髪抜いたらだめよ、ハゲるよって」と、やれやれとでも言いたげに肩をすくめました。
お母様の言葉は、見た目を気にし始めた彼女の心に届いたのでしょう。こんなところでも女同士の根回しって始まってるんですねぇ、と私は苦笑しました。

 

「それから好きな男の子ですが……お父さんに言わないのは、単に『お父さんウザイ』だけの感情じゃありませんよね。
やっぱり、そういうことを知られるのが、恥ずかしいからです」

彼女は急に下を向いて、耳を赤くします。

「恥ずかしいというのは、『この人によく見られたい』という感情があるからです。
あなたは、お父様に、好きな人がいるということを知られたくなかっただけなんですよね」

このあたりは、異性親に対する、大変矛盾した感情だと思うのですが。うざいから言いたくないとか、そういうことよりももっと「知られたくない」「大人になったって思われたくない」という気恥ずかしい感情ってあるんです。

 

「そして、この本」

私は、机の上の『ぼくらの先生!』を持ち上げます。

「みなこちゃん、あなたのお父様って、おそらく、小学生の先生をされてますよね?」

彼女は今日一番驚いた顔で、「言ってないのに、なんでわかったんですか」と言います。

「忙しいけれど、春の、平日の昼間に来れる職業。日に焼けてて、ポロシャツやスニーカーが汚れる職業。児童文学に詳しい職業。――これらを全部満たすのは、春休みがあって、子どもたちと一緒に遊んだり本を読んだりする、小学校の先生しかないでしょう」
私がそう笑うと、彼女は納得したような顔で「たしかに……」と言いました。

 

「そして、この『ぼくらの先生!』という本は、元教師の物語で、生徒との思い出をひたすら語るお話です。この元教師の主人公というのが、子どもも持たず、家庭もほとんど顧みず、先生という職業に没頭していた方なんですよね。

……ここからは完全に憶測ですが、
あなたは、家庭を顧みずに先生としての職ばかり全うしてきた主人公と、仕事ばかりになってお忙しいお父様を、重ねて読んでしまったんじゃないでしょうか」

みなこちゃんは、私から、目を離しません。

「生徒さんの好きな児童文学なら知ってるのに、あなたの好きな児童文学は知らないんですもんね。
それは……さびしいですよね」

彼女の目が、きゅううっと赤く染まってゆきました。

「それなのに、子どもがいなくて生徒の話ばっかりしてる主人公が好きだなんて……お父さんってやっぱり生徒さんのほうがだいじなんだ、って思っちゃったんですよね」

わたしなんか、だいじじゃないんだ―――。
どんどん、そんな想いが、その表紙に刻まれてゆく。

……ほんとはそんなこと、ないのにね。
私は心の中で、そう言います。

彼女は、唇をぎゅっと噛み締めます。

「お父さんを、生徒さんにとられる気がして、『この本を好きなんて嫌い』って思っちゃったんですよね」

彼女の目から、ぽろっと大粒の涙がこぼれました。

私は、思わず、てのひらを彼女の頭の上にのせます。二つくくりにしばった髪が、つやつやと光っています。

「だけどね……、みなこちゃん、思ってることは、言わないと伝わらないんですよ」

私がそう言うと、彼女は、ふわっと顔をあげ、「え?」とつぶやきます。

「むずかしいけれど、
『お父さんは私のことなんて仕事よりだいじじゃないんだ』なんて意地張って思わないで、
『さびしいからもっと話そう』って言わないと、お父さんはわからないんです」

彼女の大きく見開いた目から、ぽろ、ぽろ、と涙が溢れ出します。

「ヘンな話ですが、伝えずにいると、『誤解』ってものが、うまれるんですよ、わたしたちには」

そしてそれは、大人になればなるほど、大きくこじれるから。

大人になって、言わずに伝えずに、過ぎ去ることが、どんなに多いことか。

誤解がほどかれないまま、大切にされない関係が、どれほどこぼれ落ちてることか。

「今ならまだ間に合いますからね。
はやく家に帰って、お父さんに言ったほうがいいです」

――ごめんね、ちがうの。
みなこちゃんの口から、小さく小さく、そんな言葉がこぼれました。

私は、ゆっくりと頷きます。

 

みなこちゃんは、目の前の『ぼくらの先生!』を、ぎゅっと胸に抱きます。
小学四年生の小さい体で、精一杯、自分の意地ともつれを、乗り越えようとしている。
―――春のやわらかい光の中で、その姿は、きゅうっと胸が痛むほどやさしかったのです。

 

涙をぎゅっとふき、みなこちゃんは、ぐいっとオレンジジュースを飲み干しました。
「店長さん、この本ください」
そう言って、レジに本を持ってきました。
私はお会計をした後、みなこちゃんに、「がんばってね」と、本を手渡しました。
みなこちゃんの受け取った『ぼくらの先生!』の緑の表紙が、ふしぎに、あざやかに光っているようにみえます。

「うん」
みなこちゃんが、口をぎゅっと結び、頷きます。

 

決意をして、それを実行するのは、また違った勇気がいることでしょう。
心臓は鳴るし、本人を目の前にすると絶対恥ずかしい。
だけど、それでも。
どうか、彼女が、自分をほどくことのできるように。

 

すると、ちりん、と鐘が鳴りました。
「いらっしゃいませ」私が言います。
みなこちゃんが、扉の方に、振り返ります。

汚れたスニーカーで現れたその人は、頭をかきながら、言いました。

「あの……さっきの『ぼくらの先生!』、まだ、ありますか?」

さあ、物語のはじまりです。


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