イギリスとフランスの国境で昔愛した男に出会った話《茜のつれづれ》
記事:山口茜(ライティング・ゼミ)
それは、たった一瞬。
聞いた瞬間に彼の声だとわかった。
その声はまるで夜を引き裂く朝日のように、不安に満ちていた私の心を瞬く間に明るく照らした。
まさか、まさか、まさか。
彼の声をこんなところで聞けるなんて。
……大丈夫。もう大丈夫だ。
怖いものは、何もない。
それは、さかのぼること1年前。
諸事情により、大学を卒業してから働いていた職場を3月いっぱいで辞めた私は、イギリス、フランス、イタリアを回る3週間の一人旅にでかけていた。
初めての海外旅行なうえに、一人旅。しかも英語は中学生レベル。
今考えると、我ながらよく行ったなと思う。
初日に泊まったホテルではうまく英語が伝わらなくて、「寂しい! もう無理! 早く帰りたい!」と涙で枕を濡らしていた。
しかし、2日目にロンドンの名所、ビッグベンを見た瞬間に自分の中の何かがはじけ、アドレナリン大放出。
それからは何を見てもどこに行っても「ひゃっほー! たのしー! もう帰りたくなーい!」てな感じで、一人だとか英語が話せないとかは完全に忘れていた。
最初の滞在国がイギリスであったことも良かったのだと思う。
街は整備されていて過ごしやすいし、人も親切だ。
ホテルやカフェではフリーWiFiがとんでいるので、前日に次の日の予定をだいたい決めておけば、私の拙い英語でもそこまで困ることはなかった。
そんな感じで一人旅も慣れてきた6日目。
イギリスからフランスへと移動する日だ。
イギリスからフランスへの移動は、ドーバー海峡の海底トンネルを通る、ユーロスターとい高速鉄道を利用した。ロンドンからパリまでは2時間ほどで着くことができる。
検問を越えて待合スペースに行くと、大勢の人々が電車の出発を待っていた。
日本人らしき人たちもチラホラいるが、だいたいが新婚旅行らしきカップルだ。軽率に声をかけることはできない。
広いスペースにたくさんの人。しかし私は一人。
急に孤独と不安が襲ってくる。
イギリスは英語圏だったから何とかなった。
でもフランスでは、現地の人はフランス語しか話さないと聞く。
スリやひったくりも多いらしい。
果たして、無事に過ごせるのだろうか。
電車到着のアナウンスがなり、待合室からホームへと向かう。
最新技術のつまった黄色い電車に乗り込む。
もう引き返せない。あと2時間もすればパリだ。
不安は徐々に増大していった。
海外に行こうと決めた時に、最初に思い浮かべたのはフランスだった。
エッフェル塔、凱旋門、ヴェルサイユ宮殿にルーブル美術館。
一番楽しみにしていた憧れのパリの街。
なのに、今はこんなにも行くのが怖い。
お願い。
誰でもいいからこの不安をどうにかして!!!
その時、誰かの携帯電話の着信音がなった。
さわやかなイントロに合わせて流れてきたその声を聞いた瞬間、まるで時が止まったように感じた。
あ
あ
あ
跡部様!?
※説明しよう!
『跡部様』とは週刊少年ジャンプに連載されていた「テニスの王子様」(通称テニプリ)に登場するキャラクター、跡部景吾のことである! バレンタインには全国の「王国民(跡部ファンの総称)」から数千個のチョコレートが届き、誕生日の10月4日には「跡部景吾生誕祭」として、一般のファンだけでなく企業の公式ツイッターアカウントからもお祝いされ、さらにそのニュースがNHKで放送されるという怪物的人気キャラクターなのだ! そして私自身、中学時代にどハマりしていたのだ!
えええええああああああ跡部様?
跡部様のキャラソン? (※キャラクターソングの略。担当の声優さんが歌っているのだ!)
久々に聞く日本語が跡部様の声? っていうか、え? 今の誰が? 誰がならしたの?
座席は日本の新幹線と同じような並び方なので、前後の席の確認は難しい。
日本人? いやでも乗るときに近くに日本人らしき人はいなかった。
ていうことは外国人? 外国人のテニプリファン?
イギリスに、いやフランスにかな、そういや今どの辺? いやそんなのどうでもいいんだけど!
海外にテニプリファンがいて跡部様のキャラクターソングを携帯の着信にしてるの?
イギリスとフランスの間で
大好きなテニスの王子様の
その中でも一番大好きなキャラクターの
跡部様の歌声が流れてくるなんて、
それ、なんてミラクル?
ふ、と息がもれた。
あー、あ。
なんか、もう。
大丈夫だ。
言葉がわからないとか、治安が悪いとか。
多分大丈夫。どうにかなる。
だって世界中にテニプリファンがいるんだもの。
大好きなものをわかりあえる人がいるんだもの。
不思議なくらいにさっきまでの不安がどこかに行ってしまった。
それどころか先ほどの出来事を思い出すと、ついつい口元には笑みが浮かんでしまう。
隣の人が訝しげにチラリとこちらを見ている。
ふふ。変なアジア人だと思われてるかな。
でもどうでもいいや。
逆にちょっと話しかけてみる?
意外と話があっちゃったりしてね。
そうこうしているうちに、車内に間もなく到着のアナウンスが響く。
さあ、ついに着いてしまった。
憧れの街、パリ。
空は晴天。
気候も良好。
めいっぱい、楽しみましょうかね。
***
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