私が就活をやめたのは、『ちはやふる』という一冊の漫画がきっかけだった。《リーディング・ハイ》
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
はやく―――――はやく、脱ぎたい。
私は思いっきり目の前の男を睨みつけてた。
―――私たちの横にある一冊の漫画は、『ちはやふる』。
はやく脱ぎたくてしょうがなかった、21歳、女子大生、初夏。
ちょうど一年前の、私の話である。
*
……一週間前は、桜の花びらが、まだ道に残ってたのになぁ。
「花の色は……」
東京のチェーン喫茶店のテーブルに突っ伏して、私は声に出して呟いてしまった。
だってそうでもしないと、ため息ばかり口から出る。
「どしたの」
向こうからやって来たのは、ここでお茶する約束をしていた、サークル仲間のコイズミ(断っておくともちろん仮名)だ。お水の入ったコップを二つ持ってきたので、「ありがと」と遠慮なくいただく。こういう気のきくやつなのだ。
「いや、すっかり花散っちゃって、葉桜になったなぁと思って」
ああ、とコイズミは頷く。
「それで、『花の色は』か」
『花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに』――桜の花はすっかり色あせてしまった。長雨で引きこもって物思いに沈んでいるうちに。そして、私の容姿も衰えてしまった。恋の物思いでむなしく人生を過ごしているうちに……そんな意味の、小野小町の和歌だ。
しかし、コイズミが『花の色は』という言葉だけで、桜が終わる季節の和歌だと分かるとは、意外だった。
「なにあんた、和歌とか知ってるタイプだったっけ」
思わず突っ伏していた身を起こす。
私は文学部で専門が和歌なので、まぁ知ってるのは当然だ。が、コイズミは経済学部。国際情勢や経済のことには詳しいけれど、和歌に興味があるとは思えない。
「お前なぁ、俺だって和歌の教養くらい……と、言いたいけどまぁ、種明かしすると、漫画で読んだ」
「漫画?」
和歌を題材にした漫画なんてあんの!? と私が身を乗り出すと、うーん、とコイズミは首をひねった。
「和歌ってか……かるた」
かるた? かるたが題材って何? と私は笑う。
「けっこう有名な漫画だけどな。
――『ちはやふる』って漫画」
以前、書道部の漫画があったけど、そんな感じだろうか。それとも平安時代が舞台とか?
私が怪訝な顔をしたのだろう、コイズミはちゃんと『ちはやふる』について語ってくれた。
「ただのかるたじゃなくて、競技かるた、ってやつ。
俺も漫画読むまで知らんかったけど、ほんと少女漫画かよこれっていうくらいの青春スポ根漫画だよ! 主人公が競技かるた部に入ってて……」
とりあえず、少女漫画らしからぬスポ根漫画で、男子もハマる面白さ、ということは分かった。
私も読みたーい……と言ったあとで、現実を思い出し、机に突っ伏した。
「全部終わったら読むわ……今そういうスポ根とか元気な漫画読む気にならんし」
コイズミは窮屈そうな上着を脱ぎながら、そっか、と言った。
ああ、私も。
思わず窓の外の葉桜と、その隙間からこぼれる青空を見る。
私も上着だけじゃなくて、全部脱いでしまいたい。
――――この、真っ黒なリクルートスーツを。
桜の樹が緑の葉でおおわれた頃。
私は、就職活動真っ最中だった。
*
去年から始めた就活は、全敗していた。
大学での大好きな文学の勉強も、就活をはじめてからはなかなかできなくなった。こうやって私は文学から遠のいていくのかと、絶望的な気持ちになった。
親や色んな人に「就活しといた方がいいよ」って言われて、文学で食べてく自信もなかったから就活を始めたけれど、やっぱりそういう気持ちが見透かされたのか、全くうまくいかなかった。
まじめに、明るく、前向きに。
媚びても、自分を出しすぎても、だめで。
ひたすら向上心を持って、考えるだけ考え抜いて、やれることは全部やって。
――そうすれば、選ばれる。
何度この真っ黒なリクルートスーツに腕を通したか分からないのに、
これを脱ぐ時期は、一向に見当がつかない。
*
その日、偶然コイズミも東京にいるというので、待ち合わせしてお茶することになった。
ひたすら就活の愚痴を言い合う。というか、私の愚痴をコイズミが一方的に聞く形。
「みんなもう結構決まってるよね。なんで私たちだけ決まらないんだろね」
私がそう、うなだれた時だった。
コイズミは、私の頭に、ぽん、と手を置いた。
「よく頑張ってるよ」
……こいつ、友達に対して、こういうことフツーにするからなー。
私は天然タラシの男友達に向かって鋭意何も思わないよう努力しながら、はいありがと、とその手を払いのけつつ、話題を変えた。
「コイズミもまだ面接よね? 今、何次面接?」
コイズミは経済学部だし見た目も爽やかだし、なにより何でも器用にこなすタイプだ。私と違って、就活の才能があるんだろうなーと思っていた。
だけど、始まってみたら案外苦戦してるようで、あんまり私に報告をしてこなかった。
「……二次」
頬杖をつきながらコイズミは言う。それ以上何も言わないので、あんまり触れないほうがいいかな、と思い「まーお互い頑張ろうっ!」と、私はコイズミの肩をばしばし叩いた。コイズミが「いてーよ」と笑ったので、ほっとした。
コイズミは気も利くし人望もあるしいいやつだけど、あんまり自分のことを話さない所があった。
……けっこう弱味とか見せたくない、プライド高いタイプなのかなぁ、と私は思っている。
「はー、なんか元気出ることないかなぁ」
話題の隙間に、私は伸びをしながらそう言った。
「『ちはやふる』読めばいいじゃん。すげぇ元気出るよ、あの漫画読んでると」
背筋が伸びるっていうか! いいから読んでみろって! きっとお前も好きだって! と、コイズミが珍しく熱く勧める。
「コイズミがそんなに言うなら、読んでみようかなぁ」
私がそう言うと、おっ! 今から本屋行くか! とコイズミは嬉しそうに笑った。
そういえばコイズミは東京出身で、このあたりにも詳しいらしかった。
*
コイズミがここから近いから、と連れてってくれた本屋は、なんだか不思議な店だった。こんなとこ知ってんのか、と意外な気持ちになる。
狭いけど、漫画も本も無造作に置いてあった。なぜかこたつもある。店員のお姉さんもなんだかやたら若くて、同世代のアルバイトかな、と思った。
「あ、あった、『ちはやふる』!」
私が本棚を見てると、コイズミが探してきてくれた。ありがとーと受け取り、レジへ持ってゆく。
お会計をする時、レジのお姉さんが、「これいい漫画ですよね」と微笑んだ。
「彼が勧めてくれて」と私がコイズミの方に手のひらを向けると、
「あ、たしかに小泉くん『ちはやふる』大好きだもんねー」と店員さんが、後ろのコイズミに向かって笑う。
な、なんだコイズミくんって。そんなにここ来てんのか。そしてこの若いおねーさんと仲良くなってんのか。
……これだから天然タラシは、と私は内心悪態をついた。どうせ帰省のたびに来て、可愛がられてるのだろう。まぁ別にコイズミが誰と仲良くなろうがって話なんだけど!
すると、「仲良さそう。お二人は付き合ってるの?」と店員さんが笑いながら言った。
「「付き合ってません!!!」」
……二人でいらんユニゾンをしてしまった。
あらまぁ、と店員さんは微笑む。なんか思いっきり否定すればするほどあやしくて嫌だ。なんとかフォローを入れようとする。
「こいつはモテますけどねぇ、私はぜーんぜん。彼氏も内定もありません!」
ああ、言ってて自分で傷つく。店員さんも、そんな、と気を遣う。
うっ、なんか逆に気を遣わせて申し訳ない、と思いつつ、
「いやー企業にも男の子にも選んでもらえるといいですけどっ」
と私は苦笑する。コイズミが、俺も別にモテませんよ、と頭をかく。
店員さんが「選んでもらえるといい、かぁ」と呟きながら、はい、と袋を手渡した。
「大丈夫よ。二人なら、きっとしっかり選べる」
そう言って、店員さんは微笑んだ。
選ぶんじゃなくて、選んでもらうのが大事なんですけど。
私は、内心ため息をついた。
*
その夜ホテルで『ちはやふる』を読んでみると、たしかに、予想以上に面白かった。
翌日面接が終わった後、同じ本屋に行ってみると、店員さんは昨日のお姉さんじゃなかった。その本屋はカフェも併設されていて、ワンドリンク頼めば席で読んでもいい、という。私は一番安いアイスコーヒーを頼み、席に着く。
読み始めたら止まらなくなって、ひたすら『ちはやふる』を読んでいた。
今日中に京都へ帰らなくちゃならんのに、やばい、止まらんなぁ。いつ帰ろう。……そんなことを思いながらも、ページをめくり続けていた。
からん、と本屋のドアが開いた。
コイズミと、昨日の店員さんだった。
――なんで二人で来てんだ。
そう思いながらも、コイズミ、と私が声をかけようとした時だった。
店員さんは、笑ってコイズミに向かって言った。
「……でもすごいね、誰もが羨む大企業、二つも内定とって」
―――――――――え。
私は、振ろうとして上げた手を引っ込めた。
「小泉くんなら、どこ行っても、頑張れるよ」
店員さんはそう微笑んだ。
――――――『まだ二次』。
昨日そう言ってたコイズミの声が、
脳内でぐるぐる響いた。
内定。二つ。
すると、あら、と店員さんが私に気づく。
「あら、昨日の! 来てくれてたんですか」
はい、と私は呟く。胸の奥から真っ黒いものがぎすぎす軋んで、コイズミの、顔を、ちゃんと見れない。
「『ちはやふる』、面白いでしょう?」
店員さんは微笑んだ。
「面白かったです!」
私は、弾かれたように、いつものように笑った。就活で鍛えた笑顔だ。
「―――コイズミ、内定出たの!? おめでとう!」
コイズミは、ああ、とかなんとか声を上ずらせる。
ここで声を上ずらせるところがコイズミだなぁ、と私は思う。
私は、「これ買いますね」と、その時読んでいた『ちはやふる』の9巻を持って、レジに向かった。
コイズミは、何も言わない。
私はそのまま、新幹線に乗って、一人で京都に帰った。
*
――――うー、気まずい。コイズミも気ィ遣わず、言ってくれてればよかったのに。
私は目の前の川を見ながら、ぼんやりと思う。
いつも疲れた時は、川の近くに来たくなる。
京都駅から家に帰ったが、そのまま、着替えもせずに、鴨川までやって来てしまった。
コイズミともよく来たよなぁここ、としんみりしながら、川辺のベンチに座る。
今度コイズミに会ったら何て言おう……とかなんとか考えるのもめんどくさくなって、就活鞄に入っていた、『ちはやふる』の9巻をめくる。
『ちはやふる』は、主に高校の競技かるた部を舞台に物語が進む。
―――すごいなぁ、この子たち、嫉妬とかしないのかな。
美人で、かるたの才能あふれる主人公。前向きでひたむきで、見てる分にはいいけれど……、
そばにいたら、きっと苦しくなるだろうなぁ、と私は思った。
嫉妬なんて、しないほうがいいって分かってる。
向上心の裏返しだからうまく使えって言われるのも分かってる。
だけど、正しすぎる意見は、時々、何もすくわない。
胸の下でぐるぐると、とぐろを巻き続けるこの感情を、正しさは、何にも変えない。
――あんなに優しい、友達なのに。
器用で、なんでもできて、いいやつなのに。
『ちはやふる』を膝に置いて、ぼんやりと目の前の川を見つめる。
周りには誰もいない。
「あ~~~~~~~~~~~~~」
そんな呻き声が口から出る。そしてじんわりと涙がこみ上げる。
私も、夕方の川辺でひとり泣く、なんてベタなことする日が来たか。そう思うと、なんだか笑えてきてしまって、泣きたいんだか笑いたいんだか分からなかった。
―――すると背後から、
「どしたの」
と、声がした。
ああもう漫画かなんかか、コレは。
ベタなことした後でベタに友達がやって来る。
なんかもう恥ずかしくて、むくれた表情を自分がしてるのが分かる。
コイズミが、横に座る。
「内定もらったこと、言うタイミング、なくした」
うん、だろーなと思った。
「私もごめん。……コイズミに就活の愚痴言うばっかで、コイズミの話聞こうとしてなかった」
コイズミが内定のことを言えなかったのは、私がきっと傷つくだろうと知ってたからだ。
いらん気遣いだとも思うけど、実際私が傷つかない自信はない。
他の人にされたらむかつく行為でも、コイズミなら、優しさの上にあるんだって分かる。
思わず上を見上げると、
夕方の空に、桜の木の葉が、青々と茂っている。
「コイズミは、ちゃんとみんなから選ばれてんだね」
――ああ、やだ、なんか卑屈なこと言った。
言葉が口をついて出てから、後悔する。
コイズミは、何も言わない。
何も言わないから、私が何か言おうとして、口から、ぼろぼろ言葉がこぼれ落ちる。
「なんで私たちって、選ばれるために頑張ってんだろ」
「……選ばれる?」
コイズミはこっちを見る。
「就活でもレンアイでも、テレビのアイドルでも、なんでも。
若い女の子ってだけで、就活のオジさんとか、周りの男の子とか、色んな人に見定められる対象で、
そこで、選ばれるために、頑張っちゃうの」
だって――――、だってだって、選ばれたい。
私は、その感情が自分の中で渦巻いてることを知っている。
選ばれて、スポットライトの下でかわいく笑いたい。
褒められたい、認められたい、愛されたい、必要だって言われたい。
自分を押し殺してでも、選ばれたい。
――――ほんとはそんな欲求が何にもならないってことも知ってる。わかってる、わかってるけど、選ばれたい。
いつから私たちは、何に、こんなに、
飢えてるんだろう。
私たちの上で、緑の葉が揺れる。夕方の川の音が、聞こえる。
コイズミが、ぽつりと口をひらく。
「でも、俺だって、ほんとは選ばれてないよ」
え。私は思わずコイズミの方に顔を上げる。
「―――カッコ悪いから、言えんかった。
ずっと行きたかった本命の企業、落ちた」
横にいるコイズミが、見たことないような、目に力が入った表情をする。
「けっこういいとこ受かったし、就活もういいかなって思ったりもしたけど」
私の横にある『ちはやふる』に、コイズミは目線を落とす。
「『ちはやふる』9巻読んだか」
私は、こくんと頷く。
「これ読んだとき、覚悟きめた」
真っ黒なリクルートスーツに、ぎゅっと皺が入る。膝の上で、コイズミが手を握る。
「もう一年、就活する、俺」
器用で、優しくて、人当たりのいいコイズミ。
何でもソツなくこなして、いつもまっとうな選択をできて。
私と仲が良くて、いつも愚痴を聞いてくれる、男の子。
今は――――知らない男の子みたいな表情をした彼を、川から反射した、夕焼けが照らす。
「俺は、選ばれるんじゃない。俺が、選ぶんだ」
―――――――ああ。
私は、『ちはやふる』を読んでいて、一番、胸にきたシーンを思い出す。
主人公をずっと好きな、幼馴染みの男の子。
その男の子は、何でもできてイケメンでお金持ちの息子で、だけど、主人公にはずっと片思いで、かるたの才能だけが、ない。
彼を好きな後輩が言う。『先輩、モテるんだろうなぁ、彼女には困らないですね』
彼は呟く。
『男が女に選ばれてどうすんだって思う』
そして、言う。
『俺は、選んで、頑張るんだ』
かるたも、好きな女の子も、向こうからは、選んでくれやしないけど。だけどそれでも。自分が選んだものだから。たとえ結果にならなくても、たとえカッコ悪い自分になっても、それでも、選んだものを、俺は頑張るんだ。
だってそれが、自分が自分だってことだから。
私は、目にじんわりとあたたかさが広がってゆくのを感じる。
「コイズミは、選ばれるのを待つんじゃなくて、自分で選ぶんだね」
手で、目を拭いながら私は言う。
『ちはやふる』は、みんな、選ばれるのを待つんじゃなくて、自分から選んでゆく人たちがずっとずっと描かれる。自分から、かるたを「取りにゆく」。リスクをしょってでも、自分で選んでゆく人たちの物語。
――――だからあんたはこの漫画を私に勧めてくれたの。
コイズミは、これから色んなことを言われるかもしれない。適材適所。視野が狭い。何だって経験だ。親不孝だ。――――うるさいうるさいうるさい。頭の中の大人たちに、私は子どもみたいに叫び返す。
人が何かを選ぶのに、勇気が伴わないことなんて、ない。
何かを選ぶのには、いつだって、切り捨てる勇気と、信じる勇気がいるんだから。
「私は、コイズミを応援する」
横にいる、コイズミの顔を、私はぎゅって見る。
そしてふいに、胸からえぐられるような感情が湧いた。
「――――――嫌だ」
「え?」と、コイズミは戸惑った顔で聞き返す。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。
「嫌だ。私だって、選びたい」
私だって、選ぶんだ。
呪いのように繰り返す。
選ばれたいんじゃない。私が、選びたいんだ。
ほかならない、自分の進路を。
私は目の前の男の子を、ぎゅっと睨みつける。
早く、早く脱ぎたかった。
この真っ黒なリクルートスーツを、私は脱ぎたくてしょうがなかった。
だってこのスーツは、私が選んだものじゃない。
コイズミが、やさしい顔で、頷く。
私は、私が選ぶ。
選んで、大切なものを手放さないように必死に抱えながら、
私たちは頑張るんだ。
ふいに、コイズミの手が重なる。
横には、オレンジに照らされた『ちはやふる』が見える。
夕焼けが、川にうつる。
なんだか一気に照れくさくなって、私は、コイズミの顔を見れなかった。
―――私は結局、そのリクルートスーツを、脱ぐことに決めた。
文学の研究をするために、大学院に進むことを選んだからだ。
本棚には、今も『ちはやふる』がひっそりと全巻並ぶ。
元気がなくなった時、決意が揺らぎそうになったときは、いつもこの漫画を読むって決めているから。
あの日コイズミが教えてくれた本屋さんで、私が働くことになるのは、また、べつのお話だ。
季節は初夏。ずっと友達だった優しい男友達が、特別な男の子に変わった夏が、何かを選んだ夏が、はじまろうとしていた。