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チーム天狼院

最低かよ、私。最高かよ、福岡。《深夜3時の処方箋#6》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」で「読まれる文章のコツ」を学んだスタッフが書いたものです。

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鼻の奥にこびりついた甘辛く煮た肉の匂いを思い出したのは、美容室の待ち時間でのことだった。
最後に食べたのはいつのことだっただろう。あの人と別れたからというもの、黒い看板の前を見て見ぬふりで通り過ぎる、そんな日々が続いていた。
食べたい。
いかにも人間的なその欲求にさえ私の脳がストップをかけていたのは、まだあの人のことを引きずっているからかもしれない。

それは、私と彼が付き合い始める前のことだった。少し離れたところに住んでいた彼を車で送る途中、その黒い看板の店に立ち寄った。博多では知らない人がいないほど有名なその店は、外まで人が並んでいた。確か11月のことだったと思う。寒い中で順番待ちをする私たちは自然と身を寄せ、距離が近いことにまだ恥じらいを覚えるくらいの間柄だった。

店に入ると、彼は慣れた様子で名物のうどんと唐揚げ定食を注文した。初めての私は言われるがまま、ごぼう天うどんを注文した。テーブルが6つと座敷が3つ、それにカウンター5席の店内はどこも黒い丼が置かれ、そこからは白い湯気が立ち上っていた。

「すみません、替え玉。あ、そばで」

うどんで替え玉? しかも、「そばで」ってどういうこと?
背後から聞こえてきたその声に目を丸くする私を、彼は面白そうに見つめていた。
ほどなくして、私たちにもうどんが運ばれてきた。彼の勧めで頼んだごぼう天うどんには、割り箸の3倍はあろうかという太さのごぼう天が4本も刺さっていた。
「好きやろ?」
いや、好きさ。好きだけど、まさかこんなに大きいなんて。
驚く私を尻目に、自分は唐揚げをパクパクと食べ始めた。
「いやぁ、やっぱうまいなぁ」
なんて言いながら、ご飯にもうどんにも手をつけず唐揚げ“だけ”を食べていた。
「ご飯食べないの?」
「チッチッチッ! 今食べたらもったいないの!」
全くお前は素人だな、とでも言いたげな顔だった。そして唐揚げを食べ終わると、今度はうどんの麺だけを食べ始めた。
ここのうどんは、すりおろしの生姜がたっぷりと乗っており、その量を選べることも魅力のようだった。初心者の私は「普通」にしたが、彼は「多め」にしていた。ちなみに普通は大さじ1杯、多めだと2杯に相当する、「普通」でも割と多めではある。
その生姜の山を崩さないように、彼は麺だけをすすり続けた。黒い汁の中から白いうどんを丁寧に引っ張り出して、まるで他の具を残すように食べている。
かなり太めのごぼう天と格闘している私のどんぶりは、生姜もネギもぐちゃぐちゃになっていた。甘辛く煮付けられた肉も底に沈んでしまって、仕方なくレンゲですくいながら食べていた。

「よし、やっと食える」
うどんの麺を食べ終えた彼は、これからがメインディッシュと言わんばかりの顔でそう言った。どんぶりに残しておいた生姜・ネギ・肉をご飯の上に丁寧に乗せると、うどんのかけ汁をレンゲですくってその上にかけた。
「特製牛丼、いただきます!」
そう言って勢いよく口の中にかきこむ彼の顔は、幸せに満ちていた。
「ちょ、ちょ!」
思わずその手を制す。
「一口だけ、いただけないでしょうか?」
「仕方ないなぁ」
彼から茶碗を受け取り、レンゲですくって口に放り込む。
甘辛く煮付けられた肉の匂いが鼻の奥にこびりついた。同じうどんを食べたはずなのに、こんなにもその存在を濃く感じられるなんて。確かにこれは、ご飯を先に食べてしまってはもったいない。白米の存在が、この肉の旨みをより引き立たせているように感じた。
そして生姜の辛味が後からやってくる。でもそれはとても優しい刺激で、体が喜んでいるような気がした。
以前テレビで「体調が悪い時ほど美味しく感じる」なんて紹介のされ方をしていたことを思い出した。

「私も定食にすれば良かった」
会計をして店を出るとき、私はそう言った。
「でも、ごぼう天も美味かったやろ?」
確かに。太かったけど、大きかったけど、今まで食べたごぼう天の中でも断トツに美味かった。もう他のごぼう天には戻れないかもしれない。でもやっぱり、私も『特製牛丼』が食べたかった。

彼と付き合うようになってからも、何度もその店には通った。私も定食を注文して特製牛丼を食べると、彼は私が食べ終えたのを見計らって、自分の牛丼に唐辛子を乗せた。猛烈に辛いので注意するよう書かれたその唐辛子はテーブルに備え付けてあるのだが、これを牛丼にかけるとまた一段と旨みが増すのである。
またもや彼にねだって一口分けてもらい、「なんで早く言ってくれなかったの!」と言って笑った。

一緒に暮らすようになり、二人ともお金がないような時でもその店には通った。定食を注文できるような余裕がなくとも、替え玉のシステムがあったのでありがたかった。うどんの後にそばの替え玉というのは異様な気がしていたが、実際にやってみると、これが実に美味かった。

そんな彼との生活は、あっけなく終わりを迎えた。
別れた理由が思い出せないほど、ありふれた幕切れだった気がする。
しかしそれから、付き合っていた時に二人で通いつめたうどん屋から足は遠のいていた。残念ながら味覚と嗅覚の記憶は、思い出との親和性が高いらしい。あの甘辛く煮付けられた肉を口に入れたなら、それは何の関所を通ることもなく彼の記憶に直結する。果たして私に耐えうるだろうか、と自問自答し、結果あのうどん屋には行けずにいたのだ。

しかし今、どうしても食べたい。
白飯の上に肉と生姜とネギをかけた、特製牛丼が猛烈に食べたい。
美容室でカラーを待っている私は、その数時間すらも耐え難いほど、あのうどん、いや特製牛丼を欲していた。

今日こそ食べに行こう。
特製牛丼の美味しさは、ついに私の失恋に打ち勝った。
私の食への欲求は、思い出を凌駕した。
残念ながら、福岡には美味しいものが多すぎる。いくら失恋を重ねてツラい傷を負ったとしても、その「美味しかった」という記憶には勝てずに、また食べに言ってしまうのだろう。

最低かよ、私。
最高かよ、福岡。

この街に来たことを後悔した日もあった。
でも、「福岡に来て良かったでしょ?」と私の味覚と嗅覚が笑いかけてくる。

記事:永井里枝
(この記事は一部フィクションを含みます)

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