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ぼっち誕生日って、何するのが正解ですか?≪弥咲のむしめがね≫


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誕生日を一人で過ごすことになったとき、ふと、同じような状況の人ってどれくらいいるのかなあ、と思った。

 

いままでの誕生日は誰かが何かしらの形で祝ってくれた。両親だったり恋人だったり友人だったりが、私のためにお祝いをしてくれた。でも、両親とは離れて暮らしているし、恋人はいないし、友人は皆忙しそうだった。

はあ、今年は一人なのか……。そう思うと、胸の底からさみしさがこみあげてきた。知らぬ間に下を向いていた。

私がお一人様アピールをしていたら、友人の中には空気を読んで誕生日会的な何かを開いてくれたかもしれない。けど、そんなの、友人からしたら絶対にめんどくせぇやろなー、と思って私はなんにも言えなかった。人を誘って、お店を予約して、プレゼントとケーキを用意して……。そのお返しが、私の喜ぶ顔だけだなんて! むりむりむりむり! ブスの笑顔をみて喜ぶ奴なんてこの世にいるわけない。誕生日会をやってもいいのは、人気者が美人だけなのだ。私が誕生日会を開いてもらうなんて、どこからどう見ても時間と金の無駄だ。自分が祝われているのを想像するだけで吐き気がした。

状況的に一人で過ごすことになるのだけど、それを受け止めるには時間がかかった。目の前にイケメンが現れて連れ去ってくれないかなあ、とか、友人が実は誕生日会を準備していてサプライズで祝ってくれないかなあ、とか誕生日を迎えるまで、そういう子供っぽいことばっかり布団の中で妄想していた。

 

SNSを眺めていると、「誕生日を迎えました! こんなふうに祝ってもらえました!」なんていう、友人の投稿をよく見かける。ご丁寧にその投稿には、名前入りの誕生日ケーキと、プレゼントでもらったのであろうアクセサリーの画像が添えられている。

日頃は「ああ、みんなは楽しそうに誕生日を迎えられていいなあ」とぼんやり思いつつ、「誕生日おめでとう」の意を込めて、いいねボタンを押していた。でも、自分が誕生日を一人で過ごすという現実が迫ってくると、「うわあ、なんで誕生日アピールしてるのーっ」と心で叫びつつも、「羨ましいなあ」と心から思うという、なんとも幼稚な妬みを抱えていた。

 

「誕生日なんて戯言だ」と、ばっさり斬れたら、どんなに幸せな人生だろう。

私だって、誕生日を一人で過ごすのが嫌とかで、うじうじ悩みたくない。明日は映画を観るか読書をするかどっちにしようとか、ネットで見たあの記事の真意はどういうことだろうとか、もっと建設的な迷いをしたい。そう、もっと前向きに生きたい。

 

私は、誕生日という言葉が頭をかすめるたび、何度も誕生日を忘れようと努力した。

「毎日一人で過ごしてても、楽しいやん。誕生日だって一緒」

「別に何か生活が変わるわけじゃないし、歳が一つ増えるだけ。そういえばこの前、歳が増えるのが嫌だ、って言ってたやん。むしろ誕生日なんて気にするだけ損や」

そう自分に言い聞かせて、一人で誕生日を過ごすという事実を正当化しようとした。

でも、そう念じるたびに、さみしい気持ちになるのだ。無理して受け入れようとしている感が浮き出てしまって、どうしても胸が苦しくなるのだ。家族も友人もいるはずなのに、自分は孤独だ、とはっきりと認識させられるのだ。

 

 

私にとって、誕生日は特別な日だった。

誕生日は、誰でも主役になれる日だと思う。

私は小学校の頃から、わりと地味で大人しい性格で、周りの人を笑わせるというよりも、「あ、こんなところにいたの」と気づかれないときのほうが多いような人間だった。人と話して自分が傷つきたくないがゆえに、教室の端のほうで本を読んでいるような人間だった。

そんな私でも、誕生日だけは特別だった。ほんとうにこれだけは確か。なぜなら、その日に会った人は誰でも「おめでとう」と言ってくれるし、たまにプレゼントを持って来てくれる心優しい友人もいる。人気者じゃなくても、誕生日という事実さえ身にまとっていれば、その日ばかりは無条件に慕われた。しかも、家に帰ったら、美味しいご飯やケーキが用意されている。食卓に並ぶのは、から揚げにハンバーグにコーンスープにと、自分が好きな食べ物ばっかり!  しまいには、ケーキまで食べられる! 子どもにとってこんなに嬉しい日は間違いなくない。誕生日ばかりは王様になった気分で、自分を中心に物事が動いていき、なんだか鼻が高くなる日。

小学生の私にとって誕生日は、ただの24時間じゃなくて、自分が一年のうちに唯一輝けるような一日だ。教室の影でポツンと過ごしている私にとって、こんな素敵な日ってない。前を向いて「私を見て!」と言える、唯一の日なのだから。

 

中学生になっても高校生になっても大学生になっても、誕生日というキラーカードを振りかざすことはないにしろ、誕生日は嬉しくて背筋が伸びるような日だったのは間違いない。

知らず知らずのうちに、「誕生日は主役になれる日」だと思い込んでいたのだ。

 

 

今年の誕生日は、朝からバイトに行って、それが終わると学校に行き、研究に勤しんだ。他の日と変わらなかった。特別なプレゼントも、名前の書かれたケーキも、賑やかな食卓もなんにもない、無味乾燥な日常。私が誕生日だとはこの世の誰も気づいていない、と思いこんでしまうほど、いつもとなんにも変わらなかった。予想通りのぼっち誕生日だった。

そんな中でも、私を祝ってくれる人がいた。バイト先の人は「誕生日おめでとう~」と言ってくれた。何人かの友人はお祝いのメッセージをくれた。家族は、年齢と同じ数だけのケーキ画像を送るという、プレゼントなのか嫌がらせなのか分からない高度な愛情表現をしてきた(このあと猛烈にお腹が空いたのは言うまでもない!)。

私はそれぞれにお礼を言い、「歳取っちゃいました~」なんて嘆いてみたり、「今年も元気に頑張ります!」と意気込みを宣言したりしていた。そして、私の誕生日を覚えていてくれてありがとうございます、と土下座したい気持ちだった。

でも、なぜか、私は「おめでとう」と言われても嬉しくなかった。その日贈られた「おめでとう」の数々は、なんだかちっぽけだった。

私にとって、感謝と嬉しいは違ったのだ。挨拶のついで、話のついでに「おめでとう」と言われても、それを素直に受け入れられなかったのだ。

 

 

ねぇ、なんで嬉しくないの?

誕生日だから祝われてるやん。それを求めてたんちゃうん?

祝われるって、主役っていう意味やろ?

 

自分にそう問いかけていた。この複雑な感情の理由を探していた。

なんでやろう。ずっと考えていた。

 

小学生の時は、大勢の人に祝ってもらえて嬉しかった。

その後も、いろんな人がいろいろんな方法で祝ってくれて、愛されている気がした。

でも、その観点からすると、今年だって、いろんな人が祝ってくれて、わざわざ声を掛けてくれたりメッセージを送ってくれたりして、変わらない。特別なイベントはないかもしれないけど、祝われているのには変わりない。

なんでや、なんでや、なんでや……。

 

 

 

 

 

あ、見つけた。

学校から下宿に帰って独りになったとき、ふいに分かった。

 

私は、祝われている姿を誰かに見てほしかったんだ、って。

たくさんの人に祝福されて、あの人は人望があるんだなあ、とか、慕われているんだなあ、とか、愛されているアピールを誰かにしたいだけなんだ、と思った。

だから、大々的に祝われないと嬉しくなくて、「おめでとう」の言葉を素直に喜べなかった。レストランで誕生日会をしている他人を疎ましく思ったり、SNSに誕生日の様子をあげる人に嫉妬したり、誕生日が近くなるとそれを話し出す人に違和感を覚えたりするのって、私がそれを気にしているからだ。

私が誕生日にしたかったことって、誰かに誕生日に祝ってもらうんじゃなくて、その場を写真に撮ることだったり、貰ったプレゼントを後日に人前で使うことだったんだと思う。こうやって書くと、すんごい性格が曲がっているけれど、事実なのだから仕方ない。間違いなく、私は愛されている確認として、誕生日という場を利用していた。だから、ふとした瞬間に言われる「おめでとう」が全然心に響かなかったのだ。

 

誕生日は主役になれる日、なんてのは嘘だ。

あなたの誕生日だから主役なんじゃない。あなたは人生の主役だ。

誕生日に王様気分になっても、人生はなんにも変わらない。むしろ滑稽だ。それよりも、毎日が主役になれるように、毎日が誕生日になるように過ごすほうが、よっぽど幸せなんじゃないか?

私は誕生日に「おめでとう」と言われても、あんまり嬉しくなかった。でも、志望大学に合格して「おめでとう」と言われたときは、飛び上がってしまうほど嬉しかった。なにかを努力して成果が出たときに言ってもらえる「おめでとう」のほうがよっぽど嬉しい。生理になったからと赤飯を炊かれても嬉しくなかったように、生得的な条件で祝福されても嬉しいと思う年齢はとっくの昔に過ぎてしまったのだなあ、と思う。

 

一人で誕生日を過ごすことなんて、全く恥ずかしいことじゃない。っていうか、「ああ、誕生日ね。そんなものもあったかなあ」くらいの気持ちで受け止めるほうが良い。誕生日というイベントに時間をかけるくらいなら、毎日を一生懸命生きるほうが、私にはあっている。誕生日を気にしない人って、カッコイイ。

 

夕食を作って食べて、お風呂に入り、本を読んで。ああ、気になっているアーティストの曲でも聞こうかなあ。思いついたことを次々やっていたら、いつの間にか誕生日が終わっていた。

誕生日を一人で過ごしても、意外と楽しいことに気づいた。

明日も明後日もその次も、なんだか楽しくなる予感がした。

 

記事:弥咲(京都天狼院スタッフ)

 

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