チーム天狼院

お情けいいね!が怖くてたまらない《川代ノート》


こんなことを言うとどんだけ気にする性格なんだと言われそうだが、仕方がない。怖いのである。怖くて仕方ないのである。最近、いいね!が本当に怖いのである。

Facebookで、ツイッターで、いいね!がつくたびに、そのいいね!はどのいいね!なんだ!? と気にするようになってしまった。ああ、自分が憎い。こんな細かいことばっかり気にしている暇があったらもっと仕事しろよとか思う。でも仕方ないのである。私はそういう人間なのである。自分が周りにどう見られているか気になって仕方ない。怖くて仕方ない。どう見られていて、どんなイメージなのか、知りたいのと知りたくないの間をうろうろしている。

最近、ブログを平日毎日更新するようになって、いいね!をもらう回数が増えた。投稿回数が増えたので、必然的にいいね!を目にする機会が増えたのだ。

で、私は記事を更新するたびに、心臓が止まりそうになる。Facebookの「投稿する」ボタンを押す前、ツイッターの「ツイート」ボタンをえいやっと押す前、本当にドキドキする。自分の記事が周りの人に読まれた後のことを想像する。そして怖くなる。ああ、大丈夫だろうか? こんなことを言って「こいつマジ頭おかしい」と思われないだろうか?「変なこと発信しないでください、死ね!」とか言われたらどうしよう。「文章ヘタクソですね」「つまんない」とか言われたらもう立ち直れない……。みたいなことをぐるぐると考え続け、ドキドキし、お腹が痛くなり、そして一通りの逡巡を終えてから投稿している。そんな毎日だ。

で、投稿したあとはしたあとで気になる。そこからはまたFacebookとツイッターの通知をドキドキしながら待つのである。「シェアしました」ってならないかな。「リツイートしました」ってならないかな。悶々としながらスマホの画面とにらめっこして、気が済んだら一息つく。そんな感じ。

しかし、最近私の神経質さはぐんぐんと成長していて、ついにいいね!の裏まで想像するようになってしまった。いいね!を素直にいいね!だと受け取れない身体になってしまったのだ。

いや、いいね!はただいいなーと思ったから押してくれてるだけでしょ、と素直に思えればそれでよかったのだが、人の目を気にしすぎる私の性格はそれを許してはくれなかった。推理してしまうようになったのだ。なんだ。そのいいね!はなんだ? お前のいいね!はどのいいね!だ? どの意味を含んでいる? どうしていいね!したの? 本当にいいね!って思ってんの?

みたいな。
いやー、気にしすぎですね。アホですね。

でも仕方ないのである。だってわたしは本当に、いいね!にはたくさんの意味があると信じているからだ。

まずいいね!が記事を更新した直後についた場合。これは読んで「いいなぁこの記事」と思ったから押したのではないような気がする。たぶん「あとで読もう」のいいね!だろうと推測する。あるいは「川代さん見てますよ」のいいね!である。あるいは習慣である。挨拶である。人の投稿全部に「いいね!」をする習慣がある人はときどきいる。なのでそういういいね!は真のいいね!にはカウントできないのではないか、とまずここで悶々としてしまう。

だって私もいいね!をするときには色々なことを考えていいね!しているのだ。ただいいなーこれ、と思っていいね!することもあれば、「これについてはあとでちゃんと考えよう」と記録するためにいいね!することもあるし、本当になんとなくでいいね!をすることもある。怖いのはこのいいね!を疑ってしまうことなのだ!

私は記事を書くとき、たいてい自分の私生活をさらけ出した記事を書いている。最近はもうさらけ出しすぎて感覚が麻痺してきているのだが、友人たちにはことごとく「あんたあんなに赤裸々で大丈夫なの?」と心配されるし、会社の上司である三浦さんにすら「自分はあんなの絶対書けない」とドン引きされた。先週にはついに母親から「じいちゃんがあんたのブログ読んで、赤裸々すぎるんじゃないのかって心配してたよ」と言われる始末。いやー、別に自分ではそんなにさらけ出しているつもりはないのだ。自分が感じたことを、感じたまま、素直に書いているだけなのだ。私は私生活を犠牲にしているとか、そんなつもりは一切なくて、小学校のときの作文を書いてるくらいの気持ちで書いている。けれどもここまで言われると、ちょっと不安になってきてしまう。

で、みんなに「さらけ出しすぎの人」と思われているのだということを認識して、ハッとした。とても怖くなった。ぶるり、と背筋が震えた。

あれ、もしかして、これまで私の記事読んでくれた人も、そんな風に思ってる!?
「うわーこいつ自分のこと出しすぎやろ!」とかちょっと引き気味になってたの!? と、急激に恐怖が私を襲うようになったのだ!

今まで自分が見えていた世界は、本当は全く違うものだったのかもしれない。
そのことに気がついてからは、もう、いいね!が違うものに見えるようになってしまったのだ。今までのいいね!のイメージが、「いいねー! いいじゃんいいじゃんめっちゃ面白いねー!」と笑顔でパチパチ拍手しながら言ってくれる神木隆之介だとすれば、その事実に気がついてからのいいね!は「うわー、こいつやべえwwww 頭おかしいwww かわいそうだからいいねしといてやるかwww」と嘲笑しながら言っている菅田将暉みたいな感じになってしまったのだ!
いや、どっちにしろイケメンなら素直に褒めてくれるのでも見下してくるのでもありがとうございますご褒美でございますなのだが、いや、実際には怖い。怖くて仕方ない。「お情けいいね!」が怖くてたまらない……!

このいいね!はお情けで押してくれたいいね!なのでは? と思うと、もうマイナス思考が止まるところを知らないのである。私の投稿を本当にいいね!と思ってる人ってどれくらいいるんだろう。「かわいそうだから押してあげよう」じゃない、素直ないいね!はどれくらいあるんだろうと、そう考えると本当に怖くなる。

いやー、バカだ。バカだよな。自分でもそう思う。なんでここまで神経質になってしまうんだろうと。はたしてここまで人の目を気にして文章を書くことに、意味があるのだろうか、と。

ふと、心の中の細い線が、プツンと途切れそうになる感覚を覚える。あと少しで切れちゃいそう。心臓がキリキリして、痛い。私はなんのために書いてるんだろう。クリエイティブってもっと、自分との対話みたいな感じじゃないの。自分が書きたいものを発信することがクリエイターのすることじゃないの。周りの目ばっかり気にして、周りにウケるものをつくろうとするのって、それって、なんか、違くない? つまんなくない? そんなことしたくて私、作家目指してるんだっけ?

そんな風に、不安になることがある。急激に。

一本一本、プツン、プツンと、糸の繊維が切れていって、そしてもうあと少しで完全に切れてしまいそう。

でも、そうなるたびに、心が折れそうになるたびに私は、最初に記事を更新したときのことを思い出す。

大学生だった私には、やりたいことがなかった。何もなかった。就職するのも嫌だったし、働きたくなかった。でも、かっこいいクリエイターとか、そういうのにはとても憧れた。自分もそうなりたいと思っていた。
文章を書くのは好きだったから、一人でこっそり、よく書いていた。とりとめもない文章だ。作文みたいな、日記みたいな。自分のための文章。でも私は自分が書くものが好きだった。自分の文章を自分で読んだとき、面白いと思った。でもそれを発信しようという発想すらなかったから、とくに行動を起こそうなんて思わなかった。

そんなときだった。天狼院に出会ったのは。
文章を書きたいな、とぼんやり思っていたときに、本当に偶然、三浦さんから「文章書いてみて」と言われたのだ。私はびっくりした。でもせっかくのチャンスだと思った。今回だけは、「三浦さんに書けって言われたから書いた」と言い訳ができる。自分から書いたということにはならない。都合が良かった。これで失敗しても、怖くない。そう思って、書いた。

自分の思っていることを書いて発信するなんて、はじめてのことだった。私はもともと恥ずかしがり屋だし、プライドも高い。自分の内面を他人にさらすなんて絶対に嫌だと思っていた。

でも、えいやっと発信してみると、思いのほか反応があった。いいね!があった。「わかるわかる」「私もそう思ってた」というコメントが、あった。

あのときの、感動。
胸が震えるような、究極の興奮状態みたいな、そんな感じ。
自分が書いたものを、「読んでよかった」と言ってもらえる面白さは、自分勝手に好き放題に書いたときの面白さなんかより、圧倒的に大きかったのだ。

そのとき私ははじめて、文章はコミュニケーションなのだと知った。
書くことというのは自分との対話であって、自分が書きたいものを発信するものであって、人にどうウケるかを気にしてたら、それは高尚な「文章」とは呼べないような気がしていた。

でもそれがとんだ勘違いだったとそのとき気がついたのだ。
文章だって、言葉と言葉のやりとりだ。相手に伝わらなければ意味がないのだ。

書いていると、書いたことがとても面白く思えるとどうしても、それを思いついた自分がすごいとか、えらいと思ったりしてしまうけれど。それを理解できないと言われると、「何もわかってねーな」とすごく頭に来たりするけれど、そうじゃない。

言葉とは、それを受け止めてくれる人がいてはじめて成立するものなのだ。

ただ言って終わりなら、それは独り言にすぎない。ちゃんと言ったことが伝わってはじめて、コミュニケーションとして成立してはじめて、きちんとした作品と言えるんじゃないかと、そう思ったのだ。

だから私はあのとき、最初に文章を書いたとき、決めたのだ。

人を喜ばせるために文章を書こう、と。
自分が満足するためじゃなく、自分が気持ちよくなるためじゃなく、人に面白がってもらうために、人に「いいね!」と言ってもらうために文章を書こうと。

みんながすごくいいね、と言ってくれる文章こそが、自分が目指すべきものなのだと。

それが書くということなのだ。少なくとも、私にとっては。

承認欲求が強すぎると言われても構わない。
そんなのクリエイターじゃないとか、そんなのアートじゃないとか、媚びてるとか、そう言われても構わない。

私は、人のために文章を書く。
そうやって書くことこそが、結局は自分のためになるのだと、私は知っているからだ。

だから、怖いけど。
まだまだ投稿するのは怖いけど、発信し続けることは怖いけど、いいね!の裏を読んでしまうけど。

でも、このビクビクと人の目を気にする感性は、せっかくだから取っておきたいと、そう思う。
失わずに、自分の武器として使っておきたいし、失ってはいけないものなのだ、おそらく。
そんな気がする。直感的に。

ビビってもいい。
怖がってもいい。

むしろそれくらいじゃないと、やっていけない。

たぶん、そこまで気を使って気を使って、気を使いまくった先に、心の底から自信を持って「面白い」と思えるものが書けるんじゃないかと、そんな気がしている。

めんどくさいけどさ、書くのって。
でも、だからこそ、楽しいんだ。

 

 

 

 

 

*この記事は、人生を変える「ライティング・ゼミ《ライトコース》」講師でもあるライターの川代が書いたものです。
「ライティング・ゼミ」のメンバーになると、一般の方でも記事を寄稿していただき、編集部のOKが出ればWEB天狼院書店の記事として掲載することができます。

http://tenro-in.com/zemi/47103

 

❏ライタープロフィール
川代紗生(Kawashiro Saki)
東京都生まれ。早稲田大学卒。
天狼院書店 池袋駅前店店長。ライター。雑誌『READING LIFE』副編集長。WEB記事「国際教養学部という階級社会で生きるということ」をはじめ、大学時代からWEB天狼院書店で連載中のブログ「川代ノート」が人気を得る。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、ブックライター・WEBライターとしても活動中。
メディア出演:雑誌『Hanako』/雑誌『日経おとなのOFF』/2017年1月、福岡天狼院店長時代にNHK Eテレ『人生デザインU-29』に、「書店店長・ライター」の主人公として出演。
川代ノートは月〜金の22時更新!

 

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2018-02-19 | Posted in チーム天狼院, 川代ノート, 記事

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