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【大学生ってやつ】「意識高い系」「スイーツ(笑)」・・・他人を分類したおかげで痛い目を見た話《川代ノート》


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自信が全然なかった私が、自信満々になったのは、大学に入ってからである。もっと正確に言えば、一番行きたかった大学に入ることを許されてからである。

死に物狂いで勉強をして、ひたすらに机にかじりついてペンを走らせ、マークシートを動かし、暗記マーカーを引いた。休んでいる暇なんてなかった。とにかく大学に合格するためだけに、必死だった。辛くて苦しくて、不安と期待のはざまで、とにかく私は必死だった。あの時間は本当に、充実していた。

自信が持てるようになった。今大ヒット中の「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」(KADOKAWA)じゃないが、学年ビリレベルの成績だった私が、難関と呼ばれる大学に現役で合格出来たのは、奇跡としか言いようがなかったし、おかげで家族にも親戚にももてはやされた。

自分はなんて取り柄がないんだろう。頭もよくない、運動も出来ない、人気者になれるようなカリスマ性もない。才能もない。人に優しくすることもできない。わがまま。鈍臭い。
ぼんやりといつも感じていた。「私はとりえのない人間だ」、と。

やっとの思いで第一志望の大学に合格出来たというのは、私の人生においてはじめての成功体験だったし、最高の幸せを実感した瞬間でもあった。これだけの奇跡を起こせるのならなんでもできるような気がした。あのときの苦労に比べたら、どんなことだって乗り越えられるだろう、と思った。一気に自信がついた。

楽しいサークルに入って。勉強もがんばって、成績はAばかりとって。彼氏も作って、ちゃんと恋愛もして。本をたくさん読んで、映画をたくさん見て。あ、卒業する頃には、英語ペラペラになってるんだろうな。ぼんやりと憧れのキャンパスライフを妄想した。街を歩くきらきらした女子大生のように、自分自身もなれるものだと思い込んでいた。自分にはそんな未来を実現するだけの力があるのだと思っていた。

けれどもちろん、現実はそんなに甘くはなかった。私が必死の思いで入った大学には当然、私と同じくらいがんばって勉強した人も、私よりも賢い人も、いろんな経験を積んできた人もたくさんいた。でも私はその事実を受け入れたくなかった。また落ちこぼれのビリに逆戻りなんて嫌だった。
だから目をつぶった。そんなの見ないことにした。私よりもずっと魅力的で努力家で自分のやりたいことを貫き通している同年代の青年たちを見たくなかった。

彼らを「意識高い系」と呼び、バカにするようになったのは、そんな自己保身のためにすぎなかったのかもしれない。

大学では簡単に「落ちこぼれ」の烙印を押されることがないのが、救いだった。中学や高校までは、みんなが同じ科目を受け、同じ形式の成績表をもらう。ときにはお互いに見せ合う。自分が何番目くらいに勉強ができる人間かということを明確に図ることができた。自分が落ちこぼれになったときは、自覚せざるを得なかった。
でも大学では、みんなに共通の指標なんかない。留年してようやく、あいつはだらしないやつだなと思われる程度だし、仮に留年しても他にサークルやインターンや留学など、努力している対象があれば「それなら仕方ないね」、と一目置かれることもある。言いわけができる。とにかく自由なのだ。自分が思い込んだ世界がすべてだ。どんなに成績が悪くても、最低限の項目を満たしていれば、単位をもらうことができるし、単位さえとっていれば、自分は落ちこぼれだと思うこともない。

そんな「自由」な環境は、私をどんどん堕落させた。ぼんやりと過ごした。何を頑張るでもなく、目指すでもなく。でも周りには優秀な人たちがたくさんいたから、自分も頑張っているような気分に浸っていた。

頭がよくて、やる気に満ち溢れていて、自分が面白いと思ったことをとことん熱く語る。そんな本当に優秀な、「意識の高い」学生を眩しいと感じたのは、自分がなりたかった、憧れた想像そのものが具現化したようだったからかもしれない。羨ましい、とも、ああなりたい、とも思った。でもそう思ってしまう事実を認めてしまえば、私はビリ学生であり、とりえのない人間だということがまたばれてしまう。自分自身に、ばれてしまう。そんなのは絶対にいやだった。もう一度自分を落ちぶれさせるわけにはいかない。

だから私は、私を騙し続けなければならない。

そんな潜在意識が、私の心を支配していた。本当の自分の姿を見ないように、目をつぶって必死になって手で覆うのだけれど、それでも指の隙間から入り込んでくる。まぶしい。私に現実をつきつけようとしてくる。怖かった。自信がない自分に戻るのが。自分の弱さを直視するのが。

そんなときに私が見つけた方法がこれだった。憧れる人たちを、「意識高い系」と呼ぶこと。それは美容に気を使い、女子力に磨きをかけ、恋愛に全力投球するかわいい女の子たちを、「スイーツ(笑)」と呼ぶのに似ていた。幸か不幸か、大学生のあいだで流行っている言葉の中には、便利な言葉がたくさんあった。でもそんな分類の言葉がある環境は、私にとっては居心地がよかった。というよりも、都合がよかった。だってそんな言葉のほとんどにはうしろに(笑)がついていたからだ。

他人を分類して、便利な(笑)をくっつけて馬鹿にすることによって、自分を守ることが出来た。他人を見下していれば、自分は彼らよりも「価値のある」人間だと一時的に錯覚することができる。私は(笑)という分類によって、頑丈な目隠しを手に入れたのだ。これで私が、見たくないものを見ることはなくなった。ああ、よかった、とほっとした。もう嫌な自分と向き合わなくてもいい。

私は分類が好きになった。人間観察をするついでに、あの人はこういう人間だとか、こういうところが悪いとか、面倒とか、とにかく上から目線に馬鹿にした。見下した。人の悪いところばかり見つけようとした。そんなくだらないことに時間をさき、偉そうに人間観察した結果を語る私こそが、滑稽な、口先だけの「意識高い系(笑)」になっていると気がつきもしなかった。

そうやって他人を分類しているうちに、本当に自分は優秀なのだと思い込むようになった。分類することで勝手に自分はそこに所属しない人間なのだと勘違いした。だから自信満々だった。きっと将来活躍できる大人になるだろうと信じ込んでいた。

 

 

自信に満ち溢れていた私が、一気に自信を失ったのは、就職活動のときである。

あれ?おかしいなあ、うまくいかない。そもそも、やりたいことがわからない。私は本当に働きたいんだろうか?どうやって働きたいんだろうか?世界に貢献できる人物になる予定では、なかったか。

抱いていたのは、勝手なイメージだったと気がついた。国際社会で活躍するとか、バリバリのキャリアウーマンとか、そういうの全部、単なるイメージだ。私は「かっこいい」と思われるイメージを追いかけていたにすぎない。
私は何がしたいんだろう、と思った。大学に通って、何をしてきたんだろうか。将来の自分が行くべき道を見つけるはずじゃなかったのか。ちゃんと自分と向き合ってきたんじゃなかったのか。

「自分のことがわからない?当たり前でしょ?だってずっと逃げてきたんだもの、自分と向き合うことから。他人のことにばっかりかまけてさ。今さら気が付いたって、遅いよ」

猛烈に私を批難する、誰かの声がきこえてきたような気がした。

 

現実を見るのは、辛かった。

私が「意識高い系」と馬鹿にしていた人たちが、次々に、内定を手に入れて行く。自分の行きたい道を見つけて、輝く。夢を語る。社会を語る。自分を語る。

 

ああ、またこんな熱く、語っちゃって。
世界を変えられるって本気で思ってるんだろうなあ。
ひとりの人間に、何ができるって言うの?
まだ社会にも出てない、たかが大学生の分際で。
口先だけじゃん、こんなの。

・・・いや。

ハッとした。

ここまできて、私は逃げるのか。
ずっとずっと、自分の愚かさに目をつぶって、手で覆い隠して、頑丈な目隠しまで手に入れて。
でも結局それじゃあちっとも、歩けてないじゃないか。
前が見えない。
真っ暗だった。
自らの手で強く、強く目を覆い隠していたせいで、私は前へも後ろへも、歩けなくなっていた。

明るく前を向く彼らを、どうしてこんな馬鹿な女が、見下すことができるというのだろう。
一番口先だけの人間は、私だ。

私は、全然、価値のある人間なんかじゃない。

 

 

これを、挫折と呼んでいいのかはわからないけれど、私のこれまで築きあげてきたアイデンティティやら信条やらが、一気に崩壊した瞬間だった。
そんなものは勝手に頭のなかで作り上げてきたイメージにすぎなくて、本当の私自身はイメージとは真逆の人間なのだと気が付いたからだ。

そして私は今この瞬間も、自分を見失っている。自信を失っている。どうしていいかわからず、途方にくれている。

 

でも不思議なことに、私は、こうなるべくしてこうなったような気がしている。

もっとああすればよかった、もっとこの道を選んでいれば。
そう思うことはあっても、でもやっぱりこの道を選ぶべきだったように思う。そう思いたいだけかもしれないけれど。
もしも目隠しをしたままでいれば、私は幸せだったかもしれない。気が付きたくないことに気が付かないまま、都合のいい現実だけを見ていられたかもしれない。

そうやって遠回りして、自分のことが嫌いになって、これまでの自分像が全部、崩壊して。周りの人間を羨ましく思って、ときには恨めしく思って。

でもこうやって、今までの自分をぶち壊したことで、私は今、まっさらな状態になることが出来た。それから、とことん自分を嫌いになったおかげで、気が付いたことがある。

 

他人をむやみに分類しないこと。
他人を馬鹿にしないこと。
他人を心から信頼すること。
偏見を持たないこと。

そして、自分の欠点から、逃げないこと。
言い訳しないで、真正面から自分を見ること。
自分は他人がいるからこそ存在できるのだと、自覚すること。

謙虚でいること。
素直でいること。
感謝を忘れないこと。

 

こうやって、もがいて、もがいて、もがいて。
自分をぶち壊して、殻をやぶって。
青臭くて恥ずかしいし、傍から見れば、くだらないことだ。お金にもならない。誰の役に立つわけでもない。

でもこれがある意味、青春ってやつか、と思うと、ほんの少し、自信がわいてくるような気がした。
 

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2014-11-21 | Posted in チーム天狼院, 記事

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