チーム天狼院

ヴィジュアル系、進撃厨、ハルキスト。「迷惑」「うざい」という印象はどの瞬間に決まるのか《円の内側と外側の話・川代ノート》


地球

二年前の夏に九州に旅行したときのことである。夜、食事をすませた後に繁華街を歩いていた私の目に、大きな声で騒ぎ立てている派手な集団がうつった。

とげとげした装飾がたくさんついた黒いジャケットに、ズボンの間がひもでつながっているボンテージ・パンツに、同じく黒の、踏まれたら痛そうな皮のブーツ。金や赤のカラフルなメッシュをいれた髪をスプレーでがちがちに固めた頭はまるでヘルメットをかぶっているかのように巨大である。そして示し合わせたようにM字の前髪の間から、細くそり落とした灰色のつりあがり眉毛がのぞいている。男性だがメイクもしているみたいだ。顔になんかたくさんピアスもついている。痛そう。

よくわからないけれど、これまでの記憶と照合して、いわゆる「ヴィジュアル系」の集団であるらしいということはわかった。彼らは繁華街の中心で堂々と車を横付けし、ギターケースなどの大きな荷物を車に積み込んでいた。その間、ずっと大勢で騒ぎ立てている。周囲の人間も白い目で彼らをちらりと見る。

邪魔だなあ。

ヴィジュアル系の彼ら以外のその場にいた皆が、そう思っているであろうことがわかった。うわ、「迷惑」を絵に描いたみたいだな、と私は思った。

ついでにこうも思った。
はー、やっぱりヴィジュアル系の人って怖いし迷惑だわ。なるべく関わらないでおこう。

***

別の日。なんでもない普通の日。

ニコニコ動画をぼーっと見ていたときのことである。

ニコニコ動画というのは、書いたコメントが動画にそのまま、書いた瞬間に流れる。だから動画を見ているときはひとりなのに、まるで大勢の仲間たちと一緒に動画を楽しんでいるような感覚を味わえるのだ。
「www」なんかも今でこそ普通にラインで使う人が増えたけれど、もともとはニコニコ動画でよく使われる笑いを表す表現だ。

流れるコメントを見つつ、動画を楽しんでいると、突然こんな言葉が流れてきた。

「エレンwwww」
「進撃のぱくりじゃん」
「兵長っぽい」

次々と画面上を流れる「進撃」を擁護し、当の動画と比べて「進撃のぱくりはやめろ」「進撃の方が面白い」などと批判しまくるコメントが流れる。

当然コメントは荒れまくり、
「進撃厨うぜえ」
「これ完全に進撃wwwww」
「だまれよ 関係ない動画で進撃だすな」
と論争が始まった。途中「頼むからニコニコしようぜ」と両者をなだめるようなコメントも入る。

何じゃこりゃ?と私は思った。

コメント上の多くの人が言う「進撃」というのは当然、今一大ブームとなっている「進撃の巨人」のことであり、「エレン」というのは進撃の巨人の主人公の少年のことであり、「兵長」というのは進撃の巨人のなかでも人気ナンバーワンのキャラ・リヴァイ兵長のことである。

しかし不思議なことに、私が見ていたのはまったく関係のないゲームの実況動画で、それも別に「巨人のドシン」とか「ワンダと巨像」とかじゃなく普通のRPGで、巨人なんて影もかけらも出てこないようなストーリーだったのだ。

にもかかわらず「進撃のぱくりだー!!」と動画では荒れまくったコメントが流れ、そんなコメントにイライラした人たちが「進撃厨死ねよまじで」と痛烈に批判するコメントも流れ、動画は動画主の意図とは全然関係のないところで炎上していた。

どうやら「進撃の巨人」の強烈なオタクたちは、少しでも進撃の巨人と関連のあるワード・要素が出てくると、それを「進撃!」「進撃!」と口に出さずにはいられない性分であるらしい。

気になったのでネットで「進撃厨」と調べると、予測変換には

「進撃厨 うざい」
「進撃厨 キモい」
「進撃厨 マナー」
「進撃厨 死ね」

と「進撃厨」と呼ばれる「進撃の巨人中毒者」、つまり熱狂的なファンにいらいらし、死んでほしいとまで思っているユーザーが検索したであろうワードが次々と出てくるので、実際に私は進撃の巨人の超大ファンには会ったことはないけれど、よっぽど迷惑なことをしでかしているらしい、と私は認識した。

ファンもここまでくると怖いもんだなあ、と。

***

さて、先日天狼院のファナティック読書会でのことである。

ある参加してくださったお客さんのひとりが、こんなことを言った。

「いやあ、村上春樹が好きっていうのはね、あんまり言いづらいんですよ」

「え、どうしてですか?」

「だって村上春樹が嫌いというよりも、村上春樹ファンが嫌い、って言う人がいるから」

それをきいて、はあ、なるほど、と膝を打ちたくなってしまった。長年もやもやしていたものがはっと晴れたような気分。

そして、以前ヴィジュアル系の人たちや進撃の巨人ファンを怖い、迷惑と認識したことを思い出し、自分のあまりの安直さを恥じた。

彼の言うことがひっかかっていたので、「進撃厨」のときと同じく、「ハルキスト」で検索すると、一番上に出てくるのは「ハルキスト キモい」という予測変換だった。

「ハルキスト」というのは言わずもがな村上春樹ファンのことである。もともとは単純に村上春樹のファンの通称であったらしいが、今では村上春樹の作品をファッションとして楽しんでいるファンのことをバカにしてそう呼ぶ人が多いらしい。

簡単に言ってしまうと、「やれやれ」「あるいはそうかもしれない」「これはメタファーなんだ」などのセリフを私生活でもよく使い、お昼にはビールとともにトマト・スパゲッティとザワー・クラウトを食べ、新作の発売日前にはカウントダウンパーティーに参加して語り合うような、そんな村上作品をコミュニケーションのツール、あるいは自分をよく見せるためのツールとして使うようなキャッキャした人間が嫌いだ、ということらしいのだ。

爆笑問題の太田光も、ラジオで「村上作品を支えているのは、ファッションとして読む人たち」と批判し、それに対してハルキストは「お前の書いた小説よりマシ」「見る目がない」などと大ブーイングだった。けれど太田の意見に賛同する、ハルキストが嫌いでうざいと思っていた人たちもたしかに一定数存在し、一時ネット上では「村上作品は名作か否か」論争が起こったという。

村上春樹の作品はほぼすべて読んでいるし、彼に影響されて早起きにも挑戦したし、ビールもよく飲むようになったし、文章を書くときも彼の文体を真似したくなるときがけっこうある。だからこうして客観的に見ると自分はハルキストと呼ぶべきなのかもしれないけれど、もちろんファッションとして村上春樹を好きというわけではないし、本当に好きだから好きなのである。

ぶっちゃけ私はどこがどうだから名作、とか中身があるとかないとか、レトリックがどうのとか文章がうまいとか下手とかまったく考えず、直感で「好き!」「面白い!」と決めてしまって、どうして好きかとかどうしていいと思うかとかあまり考えないので、「村上春樹は名作か否か論争」もあまりよくわからないというか、興味が無い。これはファナティック読書会でもよく出る意見だけれど、自分が名作だと思えば名作なのだし、自分が好きだと思うならそれでいいのだ。

人の好みなんてそれぞれだから、「村上春樹の作品なんてカスだー!」と思う人がいるのもわかる。その人が、ノルウェイの森はカスで、つまらなくて、中身が無いと思ったのなら、そうなのだろうし、でも私にとっては面白くて、わくわくして、感動する作品なのだ。普遍的な事実なんてない、と私は思う。他人がどう思おうがなんと言おうが、私は村上春樹の小説が好きだ。直感的に、本能的に。

でももちろん、村上春樹ファンをよく知らない外側の人たちは、そんなこと知らんこっちゃない。村上春樹に憧れ、真似し、ファン同士で集まってキャーキャー盛り上がっていればみんなハルキストなのである。その個人個人がファッション的に好きなのか、本当に作品自体が好きなのか、とりあえず村上春樹好きって言っとけばいいっしょ的に好きなのかなんて見分けようがない。

だからこそ、読書会に参加してくださったお客さんは、「村上春樹好きとは言いづらい。彼自身ではなくてファンが嫌い、と思っている人がいるから」と言ったのだ。

私が読書会で彼の言うことをきいてはっとしたのは、私たちは知らず知らずのうちに、どこかの顔もわからない他人に迷惑をかけているのかもしれないのだと気が付いたからだった。
私たちは、個人でいるのと同時に、集団の一部でもあり、自分はこういう人間ですと宣言する場合には、他の誰かの責任も背負っているのかもしれない。

たとえば、私が九州で見たヴィジュアル系の人たち。夜に大声で騒いで迷惑をかけている彼らに、私は内心「やっぱりヴィジュアル系は怖い、関わりたくない」と思ってしまった。

たとえば、ニコニコ動画で流れる「進撃厨」のコメント。まったく関係のない動画で進撃の巨人の話を始めるファンの人たちを、私は「進撃厨って異常だなー、マナー悪いなあ」と思ってしまった。

そして、やたらと批判されるハルキスト。私は世間から見ればハルキストと分類されるらしく、実際に自分がバッシングされる立場になってみて、私はある集団の一部の過ちが、ずっと遠くの知らない誰かにまで迷惑をかけるのだと痛感した。

ヴィジュアル系の人たちだって、みんながみんな、大声で騒いで迷惑をかけるわけではない。私の友人のヴィジュアル系の子でもとても明るく、良識があり、誠実な子はいたし、ヴィジュアル系の人が必ずしも分別がないなんてことはないのだ。人間はそれぞれ違う。同じものを好きだとしても、同じ価値観や感覚を持っているとは限らないのだ。

そう、そんなことはわかっている。とっくのとうにわかっている。

けれどそれでも、印象というのは瞬間的に、直感的にインプットされてしまうものだ。目の前でヴィジュアル系の人たちのひどい悪行を見たら、彼らの所属する「ヴィジュアル系」そのものを嫌悪する気持ちがうまれることもある。

進撃の巨人ファンの一部がニコニコ動画で暴走していたら、全体のファンがマナーが悪いと思われる。「進撃の巨人が大好き」という言葉が、たったそれだけで相手を遠のける呪文になってしまうかもしれない。

ハルキストにしたって、異常なくらいに他の作品と比べて批判したり、何かにつけ「村上春樹が一番!」と大声でわめく一部の「痛い」ファンの行動が、他の人からすればものすごく目立つおかげで、純粋に彼が好きだから他の人と語り合いたいという気持ちでいる人が、「私は村上春樹の小説が好きです」と言ったとしても、「ああ、ハルキストね、かかわらんとこ」と思われてしまうことがあるのである。

印象というのは思っているよりもずっと根深く自分の無意識下にまで潜り込んで価値観を左右してしまうもので、偏見を持たないようにしよう、と強く思っていなければ簡単に刷り込まれてしまう。

 

人はみんな小さな円や中くらいの円や大きな円のなかにいくつも所属していて、その円の外側の人達から見られるときは、個人単体としてではなく円全体として見られてしまうことがある。

たとえば私が電車の中で他の人を押しのけて椅子に座ったら「最近の若者は、老人を敬わないなんてけしからん」と若者全体の印象を左右してしまうし、天狼院にいるときに感じの悪い態度をとれば「天狼院のスタッフの接客はひどい」と天狼院全体の印象を下げることになるし、外国人と待ち合わせをしていて遅刻したら「日本人は意外と時間にルーズだ」と思われてしまうかもしれない。

自分ひとりの行動だと思っていても、実際には他の不特定多数の人の責任を、たったひとりの自分が負ってしまうかもしれないということを、忘れてはならないのだ。一を見て十を知ったと思い込んでしまうことは、あまりに多い。

だからこそ、円の外側にいるときは、その個人を見て円全体を知れたと思い込んではいけないし、それによって偏見を持ってもいけない。ヴィジュアル系だから、進撃厨だから、ハルキストだから。それだけで、「円」だけで判断するのは、あほらしすぎる。
円の内側にいるときは、自分が円としての責任も持っているのだということを忘れてはいけない。

自分のためと思うよりも他人のためと思った方が頑張れる私は、そう思うともっと精進して、成長して、凛として生きれるような気がする。

最終的には、一番大きな円、地球のために頑張ろうと思えるほど、俯瞰した視点を持てるようになりたいなあ、そうなれば本当の意味で「個人」として生きれる気がするなあ、なんて思う、2014年最後の日である。

 

 

 

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2014-12-31 | Posted in チーム天狼院, 記事

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