【占いジプシー】電話占いに1回1万円かけて、なぜ自分が成功できないのか気づいた《川代ノート》
記事:川代紗生(天狼院書店スタッフ)
今だからこそ白状できることだが、占いにどハマりしていたことがあった。
占い、といってもしいたけ占いみたいな可愛らしいやつではない。ガチのやつである。
水晶玉とかタロットとか使うような、「は〜いじゃあ今からあなたの魂さんにアクセスしていきますからね」といったような、もうガチでマジのバッチバチの占い師さんに見てもらうやつであった。
一応ことわっておくと、私は元来占いやスピリチュアルの類を信じるようなタイプではない。
めざましテレビでやる星座占いだって「ふーん」としか思わないし、元旦に引いたおみくじが吉だったのか凶だったのかすらも全く覚えていない。
むしろ、「占いに頼るなんて心が弱いのね」と、バカにしているくらいだったのだ。
なのに、その当時、私は占いをやめることができなかった。
きっかけは、アラサーと呼ばれる年齢に差し掛かったことだった。仕事や恋愛で色々と悩むことがあり、将来どんな方向に向かっていけばいいのか迷っていたのだ。
そこで、「運勢を見てもらったら、何かヒントになるかも」くらいのつもりで、対面式で20分くらいの占いに行くことにしたのである。
ためしに、のつもりだった。
ハマるはずじゃなかった。
一回で終わらせるはずだった。
ところが、である。
さすが長年色々な人と話してきただけあって、占い師さん、人の話を聞くのがものすごく上手なのだ。
当たる当たらないはともかく、「人に自分の悩みを聞いてもらえる」「悩みに対してアドバイスをもらえる」ということ自体が、私の心を癒してくれたのである。
それからだった。
私はことあるごとに、占い師に相談をしはじめた。
内容は多岐にわたり、仕事、恋愛、人間関係、自分の方向性などなど、ありとあらゆることについて相談した。対面もあったし、電話もあった。まさに「占いジプシー」になってしまっていた。一人の人に相談し、納得できる答えが出なかったらまた別の人に相談し、電話がうまくいかなかったら今度は対面で、対面の予約がとれなかったら今度は電話で……というふうに、まるで麻薬のように占いにのめり込んでいったのである。
うっかり時間が延長していることに気がつかなくて、1回で1万円近くも料金を払わなければならなくなったこともあった。
自分でも不思議だった。
なんでやめられないんだろう。
もうこんなことやめたいと思いながらも、不安になっては占い師に相談するというサイクルが続いていたとき、ふと、占いをやめられない理由を冷静に考えたことがあった。
だって、別に占いで出た結果なんて覚えちゃいないのである。その瞬間は占い師が言うことがすべてのように思えるのに、3日も経ったらすっぽり頭から抜けていて、「〇〇な行動をしろ」とアドバイスももらったはずなのに、何も覚えていない。覚えていないから、当たったのか当たっていないのかもわからない。そうして不安になって次に何をするべきかわからなくて、結局また別の占い師のところに行ってしまう。
「この人は」という占い師一人に絞って、定期的にアドバイスをもらい、それを実生活で活かせているのなら何の問題もない。
でも、私の場合は、行くだけ行って、全く有効活用できていないのである。
こんなこと、不毛ってわかっているのに、どうしてやめられないんだろう。
そもそも、私は何が知りたくて占いに行っていたのだろうか。
私はあらためて、自分がどんな相談を占い師にしていたのか、思い起こしてみた。
「今将来のことで悩んでるんですけど、どうしたらいいと思いますか」
「仕事で困っていることがあって。どっちを選んだらいいのか占ってほしい」
「これをやろうと思ってるんですけど、本当にやって大丈夫でしょうか。あと、タイミングをいつにすればいいでしょうか」
……
……
……
ああ、もしかして、これって……。
そこまで考えて、私は何を求めて占いに行っていたのか、ようやく気がついた。
私は、「決断」を求めていたのである。
自分で決めたくないから、決められないから、だから、占い師に「決めて」もらおうと思っていた。決めてくれる人を求めていた。
たとえば、何かをやろうと思うとき、「決断」した人間には責任が伴う。
仕事で考えるとわかりやすいと思うけれど、「このプランで行きましょう!」と最終的な決断を下した人間にはどうしても、責任がふりかかる。
たとえみんなで話し合って決めたことだったとしても、その道を選んで問題が起きたとき、最終的に対処法を考えなければならないのは、「決断」をした人だ。「あなたが決めたから、あなたのせいで、問題が起きた」と言われてもしかたがない。だからこそ、最終的な決断を自分でせずに、他の人に「決めてください」と「相談」する、という状況はよくあるだろうと思う。
私はそれと同じことをしていたんだ、とようやく気が付いた。
私は自分の人生に対して、責任を取りたくなかったのだ。後悔したくなかったのだ。失敗したと思いたくなかったのだ。「まだやり直せる」と思える余地がある場所にいたかった。だからこそ占い師に決断してもらおうとした。
「私が決めたことじゃない。占い師が決めたことだから」と言い訳をしていれば、居心地の良い場所に居続けることができた。だって自分のせいじゃないんだもん。決めたのは私じゃないんだもん。私の判断ミスじゃなくて、占い師の判断ミスだよ、それは。だから失敗してもしょうがない。あーあ、下手な占い師に当たっちゃったよね、最悪。もっとちゃんと見える人のところに行けばよかった。
違うよ。
そうじゃないんだよ。
占いっていうのは、最終的な決断を下してくれる、私の人生の責任を「代行」してくれる人じゃなくて、あくまでもヒントをくれる存在にすぎない。占い師じゃなくても同じだ。友達だって親だって恋人だって同僚だって同じだ。「相談する」ということは、「決めてもらう」ことじゃないのだ。「決めるための手助けをしてもらう」ためのものなのだ。みんながみんな、「誰か決めてよ」と言い続けていたら、永遠に何も進まない世の中になってしまう。
あくまでも、最終的にどの道を選ぶか決めるのは自分自身であって、他人じゃない。どこにどう向かうかという責任をとるのは、自分自身がやるべきことなのだ。
だって私は占い師の人生を生きてるんじゃない。
私は私の人生を生きてるんだもん。
「決める勇気」を、持たなくちゃ。
それから私は、占いに行くのをやめた。びっくりするほどスパッとやめることができた。今でもときどき不安になると、占いの館の扉を開けたくなるけれど、やっぱり踏みとどまる。「相談できるほど、私は自分の力できちんと考え抜いたのか?」と自問自答する。そうすると答えが出てくる。「いや、まだ全然考えてない。私の中に答えがあるはず」と。
私の上司・天狼院書店店主の三浦が、昔から口癖のように言う言葉がある。
「最善解を出せ」ということだ。
かつて、天狼院書店も東京と福岡の2店舗しかなかったころ、私があまりに三浦に相談しすぎるので、ひどく怒られたことがあった。
「上司に相談するのなら、自分で十分に最善解を出した上で、あとは承認を得るだけ、という状態まで持っていかないと。きみがしているのは『相談』ですらない」
その当時送られてきたメッセージを、私はいつでも見られるように、いまだにスマホのメモ帳に記録してある。
僕ならどう考えるか、考えに考え抜け、そして、動け。
稚拙な会議を繰り返すくらいなら、一人で集中して考えろ。
成果を残さなければ、それは仕事ではない。
もし全力で取り組んで、結果、失敗してそれが未来に確実に活きるのであればそれは立派な成果であり、その失敗も仕事だ。失敗した時、自然と泣くくらいじゃなければ、本気でやったことにはならない。
時間は費やせばいいものではなく、集中して取り組め。
仕事をしているつもりになるな。
その日、自分が本当に何を生み出したのかを省みて、悔し涙を流せ。
繰り返せば、間違いなく、成長する。できるようになる。
妥協するな。
野球において置きに行ったボールは痛打させる。
毎回、渾身で投げ抜け。
あの言葉の意味が、ある程度の時間がたって、やっとわかったような気がしていたけれど、私はまだ、全然理解できていなかったのだ。
結局まだ、「誰かに決めてもらいたい」という他力本願な弱さが残っていて、自分で決断する強さが身についていなかった。
私の人生にはいつだって両親がいてくれて、この学校がいいよ、この習い事をやるといいよと導いてくれて、親元を離れたら就職先があって、上司がいて、上司がこれをこうやれと指示してくれたことをやっていれば、自分の人生はうまいこと進んでいくような気がしていた。
でも、そうじゃなかった。
私の人生をうまい方向に持って行ってくれていたのは私じゃなくて、私の周りの人たちだったのだ。
まだ怖かったのだ。自分で何かを決めるのが。自分の責任で何かを決めて、失敗して、その責任をとるのが。誰かに責任を押し付けることができないひとりぼっちの状態で、何かを決めるのが恐ろしかった。
だからこそ、占い師に決めて欲しかった。
「どうしたらいいと思いますか」という聞き方をした。
でも、それじゃダメなのだ。
いつまでたっても最善解を他人に求めているようじゃ、私はきっと一生、このままだ。ずっと誰かに何かを決めてもらい、誰かに決めてもらったことをやり続け、成功したら「自分がやった」と言い張るのに、失敗したら「あいつがちゃんとやってくれなかったせいで」と他の人を責める。
もう嫌なんだ。そんなダサい生き方を続けるのは。
私は自分で決める、自分の人生を歩けるようになりたい。
妥協したくない。
渾身で投げ続けたい。
ボールを置きに行って、痛打されたくなんかない。
あの占いジプシーだった期間から、しばらく時間が経った。
まだまだだけれど、でも少しずつ「自分で決めて、自分で責任をとる」という人生に慣れつつあるような気がしている。
まだ、足が止まりそうになることもある。
失敗したらどうしようと思うこともある。
自分のプライドがズタズタになるんじゃないかと、不安になることもたくさんある。
でも、それでもいいと思っている。
「もし全力で取り組んで、結果、失敗してそれが未来に確実に活きるのであればそれは立派な成果だ」
自分の人生の最善解は、私しか知らないんだから。
❏プロフィール
川代紗生(Kawashiro Saki)
ライター。 天狼院書店スタッフ。ライティング・ゼミ講師。東京都生まれ。早稲田大学卒。WEB記事「親にまったく反抗したことのない私が、22歳で反抗期になって学んだこと」(累計35万PV)「国際教養学部という階級社会で生きるということ」(累計12万PV)等、2014年からWEB天狼院書店で連載中のブログ「川代ノート」が人気を得る。天狼院書店で働く傍ら、ライターとしても活動中。
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