即断即決できません!
*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:須田浩一郎(ライティング・ゼミ平日コース)
「なんで今決められないんですか!?」
スーツ姿の若い男の荒々しい声が響き渡った。
「だから僕は即断即決はしないって何度も言ってるでしょう?」
私たちはもう三十分近くもすったもんだをしていた。
大学生の頃の話だ。電話に出ると、「英会話教材のご紹介なんですけど」と玉を転がすような、素敵な女性の声が聞こえてきた。
多くの人と同様に私も、流暢な英語を操る華やかな未来の自分を夢見ていた。もちろんこの話を頭から信用していたわけではない。だが怖いもの見たさ、あるいは冷やかしにも似た好奇心と、もしイヤなら断ればいいくらいの軽い考えもあって、わざわざ大阪まで足を運んだのだった。今思えば愚かだが、若気のなんとかだったのだろう。
即席感漂うオフィスの応接スペースに案内された私は、さほど年齢が違わないと思しき若い男性営業員と対面した。彼はひとしきり説明を終えると「どうですか」と訊き、私は半ばお世辞で「いいですね」と応じた。
事は順調と踏んだのか、彼は教材費を提示した。その瞬間、私は「なんじゃこりゃあ!」と心の中で叫んだ。左様ですかと団扇を扇ぎながら言えるような金額ではない。まさかのうん十万円……。
割賦払いも出来るので会社員やOLさんはもちろん、普通の主婦や学生さんまで幅広く購入されていますとさらりと言われ、一瞬「そうかも」と思ったが、やはりノコノコやって来たのは間違いだったという考えが勝った。うーん、この状況をどう切り抜けよう。
「いいなとは思いますけど、すぐには決められませんね」
「決められないって、どうしてですか?」
「僕は即断即決はしないことにしてます。前に後悔したことがありますから」
「絶対後悔なんてしませんよ。自信があります。むしろこの機会を逃す方が絶対後悔します!」
「でも学生ですし、そんなにお金無いし、よく考えんと」
「皆さん最初はそう思うんですよ。でも分割で払えば大したことないです。みんな結構余裕で払ってますから」
「とにかく家に帰って検討します」
「帰ってどうするんですか? もう大人ですよね。自分のことですよね。まさか親に相談しないと決められないとか情けないこと言いませんよね?」
「そういうことじゃなくて、僕はただ即断即決はしないって決めてるんですよ」
こうして私たちの会話は、決定打どころか有効打さえ与えられない攻撃側と、城壁の石をただ積み増すしか能のない守備側という、なんとも不毛な戦いに成り下がってしまった。互いの顔は引き攣り、言葉の棘は鋭くなるばかりで、同じ説明と同じ問答が延々と繰り返された末に、私は音をあげた。
「どうしても今すぐにと言われるんでしたら、お断りします」
私に音をあげさせるのには成功したものの、私の言葉は彼の狙いとは真逆のそれだった。みるみるうちに彼の表情は変わり、それならお前のために費やした時間を返せと言わんばかりのことを口にして、あんな風にブチ切れたのだ。
その声がオフィス内に響くと、先ほどからその辺をうろうろしていた年配のおじさんが「どうした?」と言いながら寄ってきて、興奮冷めやらぬ若手君の隣に腰をかけた。
二対一は不利だなと思っていると、事の次第を聞いたおじさんが口を開いた。
「君は即断即決しないっちゅうことやけど、何か事情があるんかな?差し支えなかったら聞かせてもらえへんか?」
まるで子供のケンカの仲裁にきた近所のおっちゃんのような口調に、私はちょっとムカッとした。だがそれはおじさんの作戦だったかもしれない。
私は、以前キャッチセールスに引っかかり、その場で映画観賞会のチケットを買わされて後悔したのだと説明した。おじさんは「なるほど」と頷き、もう一つ私に質問した。
「○○が説明したと思うけど、うちの教材は会社員やOLさんに、主婦の方や学生さんまで幅広くご満足頂いてますねん。値段以上に素晴らしいってね。でも君の場合、お金に関しても何かあるんちゃうかなと、ちょっと思ってんけど。どうなんやろ?」
私は躊躇したが、開き直って話す方がよいと思った。知人から購入した車代や事故を起こした際の修理費、大学のサークルの預かり金を盗まれ、その返済のための借金……。私が訥々と喋るのを、おじさんは腕組みをしながら辛抱強く聞いた。○○は時折苦々しげな表情を浮かべながらも、概ね神妙な面持ちで黙って聞いていた。
話が終わるとおじさんは組んだ腕を解き、膝をポンと叩いた。
「よーく分かりました。○○君、これは無理やで。この人にうちのモン買う余裕はないわ。よし、これでこの話は終わり! 学生さんも、わざわざご苦労さん。借金返済とか大変やろうけど頑張りや」
そう言っておじさんは去った。私は屈辱にまみれていた。なんでこんな恥をこの人たちの前で曝け出してしまったのかと悔しくて涙が出そうになった。渋々見送りに来た○○君を見ると、彼も私と同様の顔をしていた。
彼らが悪徳かどうかはさておく。即断即決の良し悪しも置いておく。
おじさんはやはり偉大だ。私たちの不毛なやり取りはまさに子供のケンカだった。きっと後で、○○君はおじさんからこっぴどく説教されたことだろう。お前はアホか! あんなケツの青いのに手こずって! 見込みのある客かどうかくらい、ちゃんと見抜けんでどないすんねんとでも言われたかもしれない。
そしておじさんは私に同情などしてはいない。私は、やはりケツの青い○○君のために教材として扱われたに過ぎない。だが○○君の失敗は、私の失敗でもある。自分の望むように運ばなかった事例は枚挙に尽きない。
自分の言いたいことばかり言っても相手には響かない。相手がうんと言わないのにはそれなりの理由があるのだから、その根っこにこびりつくものに辿り着き、まずは理解を示さなければ溝は深まるばかりだ。
どういうわけか、客先で相手の愚痴を聞き適当に相槌を打っているだけなのに、こんなこと出来ませんかと相談をされる事がある。私は営業ではないのであまり具体的な話をされても困るのだが、知らないうちに相手の懐に潜り込んでいるのかもしれない。そしてそれを若い営業担当者が、ものの見事にブチ壊していくのもお約束のようなものである。
厳しいノルマを課せられていたであろう○○氏の苦労は計り知れない。きっと数々の失敗を重ねたことだろう。願わくば悪徳ではない凄腕営業マンであってくれと思う。
さて、近頃つとに頑固さと偏屈さを増した実家の父親が、日頃から一生懸命に面倒を見てくれているケアマネージャーを交代させてやる! と息巻いている。厄介でしぶといこの牙城をどうやって崩せばいいかなあ。悩む。
***
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