お金が「鋳造された自由」だとすれば「お金=自由=時間」という方程式が成り立つ《天狼院通信》
ドストエフスキーは自らの作品において、こう表現したという。
「お金は鋳造された自由である」
友人のK氏よりこの話を聞かされたとき、僕は衝撃を受けた。
すべての本質が、この一文に集約されているように、直感的に思えたからだ。
書店で雇われ店長(契約社員)をして、こつこつと貯めたなけなしの100万円を抱えて、僕は池袋で起業した。
正直告白すると、30歳当時の僕の給与は、手取りで20万円程度だったと思う。
当時の家賃は、43,000円だった。
月に5万円ずつ、20ヶ月かけて貯めたお金だった。
もし、お金が「鋳造された自由」だとすれば、20ヶ月かけてそのほかのあらゆる自由を我慢して、100万円分の「自由」をそのとき僕は手にしたことになる。
当時の労働時間は、残業も入れて、200時間だったと思う。
それでも、勉強に費やす時間は1日5時間ほどあって、実際にその全ての時間を僕は勉強に費やした。
時は金なり(Time Is Money)
が正しいのであれば、連立方程式的にこんな方程式が成り立つのではないだろうか。
(お金)=(自由)=(時間)
つまり、僕が投じていたのは、「自由」であって、それは「時間」であって、「お金」に換算できる概念ということになる。
100万円のなけなしの「自由」を元手に、僕は池袋で起業したわけだが、創業資金として、国民生活金融公庫(現在の日本政策金融公庫)から、200万円の融資を受けた。
これは、将来的に見込める収益の可能性から、200万円分の「時間」を前借りしたことになる。
もちろん、それを200万円分の「自由」といってもさしつかえない。
この合わせて300万円分の「自由」があれば、僕はほとんど「無限」の成果をあげられるだろうと楽観した。
そして、瞬く間に、「自由」とも「時間」とも言える貴重なものを尽くなくしたときに、その当時はまだきれいな方程式としては理解できていなかったけれども、直感的に物事の本質を理解することができた。
つまり、「時間」は有限であり、できることは限られていることを、まさに痛感したのだ。
毎月25日になっても、銀行口座にはおおよそ20万円が振り込まれることがない。
なくなって初めて、わずかと思っていたその20万円という月給の価値を知った。ありがたさを知った。
それは20万円分の「自由」であって「時間」であった。
その範囲内で合ったら、どう使おうと、どう投じようと構わないという、まさに小さな「自由」であった。
その当時のことを、僕は銀行の法人担当のソファーに腰掛けながら、思い出していた。
決算書が出たので、それを見せに行くのと、法人の登記が変わったので、謄本や印鑑証明書などを提出するためだった。
そのときに、ふとした会話から、話がするすると進んだ。
あ、そういえば、と話のついでに僕は言った。
「今度、9月に福岡天狼院オープンするんですよ。その他にも秋にもう一店舗オープンさせるかもしれません」
すると、担当者の眼の色が変わった。
「社長、ちょっとこのあとお時間いいですか」
起業して、6年以上が経っていた。
つまり、僕は社長7年生である。
その間に、様々な失敗を繰り返して、様々な成功を―いや、ほとんど失敗の繰り返しでしかなかった。
でも、最も重要なことは、僕はこうして生きているということだ。
社長として、なんとか生き延びているということだ。
相変わらず、僕の銀行通帳には、ほとんどお金が残されていなかった。
会社の口座にだってそうである。毎月、ほとんどとんとんで切り抜けてきた。
それでも、会社も、そして1年9ヶ月前にオープンした天狼院書店「東京天狼院」も、今こうして元気に営業を続けている。
お金がないだけではない。
時間も、僕にはなかった。
僕は、月に520時間ほど働いている。
この4年間で休みをとったのはたった1日である。
寝ている時間以外のほとんどの時間を、仕事に費やしていることになる。
もし、「お金が鋳造された自由」だとすれば、そして、「時は金なり」だとすれば、今の僕には、「お金」も「自由」も「時間」もないことになる。
この6年間で、僕が得たものはなんだったのだろうかと不思議になる。
そう考えると、なんだか、可笑しくなってくる。
「社長、手元に少し、置いておきませんか」
と、その担当者の方は言った。
不思議に思った。
「お金」も「自由」も「時間」もないことは、すでに僕は正直に告げていた。
決算書も渡しているので、そのことはわかっているだろうとも思う。
けれども、担当者の方はさらにこう言った。
「事業が、着実に伸びている。売上が伸びてますからね。オープンさせるときとは大違いですよ」
と、笑った。
「やっぱり、あれは奇跡的でしたよね」
と僕は苦笑した。
薄々は勘づいていた。
ほとんど売上も担保もない、当時の僕に、天狼院書店のオープン資金を融資するのは、至難の業だったろうと思う。それに当時は今ほど景気もよくなかった。
本一冊分にもおよぶ「狂」が込められた事業計画書を手に、僕は当時、毎日のように金融機関を渡り歩いていた。
これから興す、天狼院というものは、新しい業態なのだ。様々な分野に革命を起こすのだと情熱だけで説いて回っていた。
「でも、こうして着実に伸びている。今回はあの時とは比べものになりませんよ」
そういうものかと僕は思った。
他にも、良い条件での投資の話も来ていた。
また、別の大手銀行さんから、新店舗に関しての融資の話も熱心に頂いていた。
どういうことかと、僕は不思議に思った。
何度も言うが、僕には「お金」も「時間」も「自由」もないのだ。
けれども、「お金」のプロたちが、僕を高く評価していた。
僕と僕の会社、そして、天狼院書店の将来を評価してくれているのだ。
そして、提示してもらった金利に、また驚いた。
「こんなに低いんですか?」
思わず、大きな声になった。
通常、融資を受ける際には、金利の問題が出てくる。
年利3%とか5%とか、様々なタイプの融資があるだろう。
もちろん、まとまった額になれば、利子を払うだけでも大変なことになる。
けれども、金利が極めて低いとすれば、どういうことになるだろうか。
「お金」=「自由」=「時間」の方程式が正しいとするならば、「融資」と「利子」とは、こう解釈もできるのではないだろうか。
「とんとん」というのは、まったく余裕のない状態である。
「お金」がないということは、すなわち、「自由」と「時間」もないということだ。
そこで、「自由」と「時間」を確保するために、「お金」を投入したらどうなるだろうか。
その資金分だけ「自由」を投じる余地が生まれるのだ。
それは「時間」と置き換えて考えてもさしつかえない。
今、天狼院は可能性に満ちている。
まさに今の天狼院に不足しているのは、可能性ではなく、その可能性を処理するための「時間」であり、「労働生産性」なのである。
つまり、ここに「自由」が確保されたとすれば、事業はさらに伸びる可能性がある。
「利子」とは、それを確保するための「料金」のようなものだ。
そう、「融資」とは、「お金」の話ではない。
「自由」の話だったのだ。
「融資」を受けることによって、「可能性」を潰さないために「時間」を投入することができる。
その「時間」は、何も、僕の「時間」だけのことを言っているのではない。
経営者だけが人の「時間」を買うことができる。
すなわち、「雇用」である。
「採用」とは、言い換えれば、うちの会社に満ちている「可能性」を、あなたの「自由」を投じて広げてみませんかという誘いのことなのだ。
もし、その会社の「可能性」と、その人の「夢」の志向性が合致したとき、もはや働くことは「時間」の切り売りではなくなる。自分の「自由」を一緒に実現するための行為に昇華されることになる。
たとえば、その「融資」における「利子」がほとんど無視できるほどに小さいものだとすれば―
経営者として、「資金を手元に置かない」理由はない。
それは、すなわち、「自由」を手にすることと同義であるからだ。
これは「自由」の話である。
「自由」をどう分配して、未来を切り開くのかという話なのだ。
それができるのは、経営者だけである。
7年生になって、いよいよ、社長の面白さを知ることになった。
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