「人工知能」に私はなりたい。《天狼院通信》
僕は、人間である。
おそらく、認識が間違っていなければ、そうである。
たとえば、映画『マトリックス』のように、仮想空間に生きているかもしれないが、少なくとも、僕は自分を人間と認識している。
チンパンジーの幸せが、どういうものか、いまいち理解できないが、
「チンパンジーになるのと人間になるのとではどっちがいいですか?」
と、生命の誕生の瞬間に何らかの選択する「コマンド」がある場合、きっと、僕は「人間」を選択するだろう。
相手方が、ウサギでも、クジラでも、サメでも、ゴキブリでも、セミでも、カメでも、オランウータンでも、きっと、僕は「人間」を選択するだろう。
おそらく、多くの人が僕と一緒なのではないかとぼんやり推測する。
けれども、唯一、その選択肢に「人工知能」となった場合は、僕は選択肢を迷うだろうと思う。
これまで、様々なコンテンツで、「人工知能」が人類の危機的に描かれてきた。
シュワルツネッガーの大ヒット映画シリーズ『ターミネーター』がそうであり、最近ではジョニー・デップが好演した『トランセンデンス』がそうである。
また、天才手塚治虫のマンガ『火の鳥』でも、人工知能同士の世界戦争が描かれていて、浦沢直樹の『PLUTO』もそういった論点で描かれている。
ある瞬間に、人間が創りだした「人工知能」が人格を持って、人間を攻撃するのではないか。
そして、人間が支配されてしまうのではないか。
現在、この地球上で、たぶん、人間がある種の優位性を保っているために、自分を隷属させる存在が現れると、人間としては、実に困った話となる。
つい先達て、「アルファ碁」というGoogleが開発した人工知能が、囲碁において世界的なプロに勝ってしまった。これはもう歴史的なことだと世界中が沸き立ったわけだけど、まあ、僕も、すごいことが起きたなとそのニュースを観ていたわけだけど、僕は人間の方ではなく、人工知能「アルファ碁」になんだか、とても、共感してしまったのだ。
もっと言ってしまえば、自己投影してしまったのだ。
ああ、僕はこんなふうになりたいんだなと、思ってしまった。
人類への反逆か?
『ピノキオ』の逆で、人間なのに機械になりたいのか?
それとも、秦の始皇帝のように不老長寿を願っているのか?
そのいずれでもない。
たぶん、概念としての「人工知能」の優位性は、考え続けられることだ。
とんでもない早さで、電力に繋がれている限り、休みをとる必要もなく、半永久的に考え続けられることだ。
あらゆる場面を想定し、シミュレーションし、自らの中で失敗と成功を繰り返しながら、確率論的に成功しやすい選択をしていく。
天狼院では、様々なゼミで、様々なプロフェッショナルの先生方を招いているが、『嫌われる勇気』や『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』で二つの100万部を経験しているスペシャルな編集者柿内芳文氏は、本当に人工知能のように、考え続けている。
どうすれば、いい本を作れるか、どうすれば、お客様に買ってもらえるか、お客様の読書体験はどうなるのか、を誰よりも考えている。
その必然的な結果として、圧倒的な成果が付随するのではないか。
また、次世代のトップ作家になるだろう、名作『蔦屋』の谷津矢車氏が、小説家養成ゼミで披露したのは、
「え!? ここまでやってるの!?」
と、参加者みんなが引くくらい、制作のための準備をしているのだ。
司馬遼太郎先生が、小説を書くと、その時代の本が神保町の古本屋街から消えるといわれる伝説を思い出す。司馬先生は、後期の作品になるとトラック1台分、3,000万円分の資料を買ったと言う。
ちょうど、昨日、小説家養成ゼミのキックオフで登壇していただいた、シリーズ累計165万部超『珈琲店タレーランの事件簿』の岡崎琢磨氏は、最後に、参加者に向けて、こう言った。
「考えに、考えぬいてください」
同じく、100万部の経験者サンマーク出版編集長の黒川精一氏とは、書籍を作らせてもらったり、様々仕事をさせてもらっているのだが、この方は、移動中も、常に仕事に繋がることを考えている。
「つり革の握りはどういうかたちをしているのか?」
「来る途中、何個、電話ボックスがあったのか?」
まるで、書籍の編集に役立たないと思われることどもを、とにかく、考えている。
あるいは、偶然かもしれないが、僕が身近に知る、ハイパークリエーターの方々は、とにかく、考えに考えているのだ。
まるで、人工知能のように。
僭越ながら、僕も、様々なメディアに出させて頂いたり、大学で講義をさせてもらったりしているが、多いのは、こんな質問だ。
「どうして、そんなに次から次へと、アイデアが出るんですか?」
そんなときは、やはり、こう答えている。
「それは、たぶん、ある事柄について、誰よりも考えているからだと思います」
実績というのは、その考える「密度」と「時間」の「積」でしかないと僕は考えている。
人は、それを、客観的に「天才」と呼ぶ場合がある。
そして、人は、「天才」と呼ぶとき、なんだか、ちょっと安心するのだ。
劣等感を覚える必要がなくなるからだ。
それは、ちょうど、「ああ、松井ならプロだからホームラン打つのは当たり前だよね」と草野球チームの人が、区別して、比較の対象としないのと似ている。
同じ土俵だと、どうしても、人は劣等感を覚える。
人は、劣等と感じるのに敏感で、何とか劣等を感じないように、自分が劣等にならないあらゆる角度を模索する。
田舎のオヤジが、
「あの田中角栄のやろう」
とか言ってみたり、
「あの長嶋め、監督になるとチンプンカンプンだよな」
というのは、「オヤジの矜持」なのだ。
その家において、「オヤジ」は子供に対して圧倒的ではないと示しがつかないからだ。
たとえば、医者をしている誰々君のお父さんと自分を比較した時に、少なくとも、自分は何らかの角度で、その医者をしている誰々君のお父さんを凌駕していなければ、そもそも、子が不憫である。
なので、週刊誌が売れる。
週刊誌は、偉いと思われていた人を「ボコボコ」に叩いてくれるので「田舎のオヤジ」は、そこから拾っては、呼び捨てにして優位に立とうとする。
それは、考えて見れば、子供への愛ゆえかもしれない。
わけのわからない論法だけど、
「うちのお父さんは、総理大臣を呼び捨てにするくらいに偉い。ということは、医者をしている誰々君のお父さんより、はるかに偉いに違いない」
ということが成り立つ、小学生くらいまでなら。
ちょうど、これと同じ原理で、同じ土俵で戦っている他者が、自分よりも圧倒的な実績をあげると、人はこうカテゴライズして安心感を得ようとする。
たとえば、編集業界においては、こんな言われ方をする。
「ああ、柿内さんは天才だからね」
天才だから、自分とは違うのだ。
天才だから、圧倒的な実績を残す。
天才だから、自分とは比較される土俵が違っているはずで、劣等感を覚える必要がない。
でも、僕らは知っている。
誰よりも、柿内さんは、本について、考えていることを。
谷津矢車さんや岡崎琢磨さんが小説について、考えていることを。
様々な批判とも闘いながら、黒川さんが、本について考えに考えていることを。
彼らは、あたかも、人工知能のようである。
人工知能のように、誰よりも密度濃く考え、長時間考え続けている結果として、圧倒的な成果を残す。
僕は、この「スタンス(姿勢)」を前に、才能や偶然というのは、取るに足らないものになるのではないかと考えている。
僕は「書店」について、世界中の誰よりも考えているという自負がある。
今はまだ天狼院は小さく、羽化すらしていなイモムシだけれども、僕は世界中の誰よりも、「書店」について、考え続けようと思う。
そう、まるで人工知能のように。
そうすれば、未来に対して、圧倒的なアドバンテージを有することになるだろうと思うからだ。
そして、天狼院のスタッフにも、
「三浦だから、アイデアを出せるのだ」
という、ある種の「差別」をせずに、人工知能のように考え続けて欲しいのだ。
そして、ある分野においては、僕を凌駕してもらいたい。
そんな「人工知能」的なスタッフを天狼院で多く抱えることになると、どんなことが起きるだろうか?
ちょっと、5秒ほど、考えて欲しい。
――そう、素晴らしい未来がリアルに描かれるに違いない。
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