【女性客に告ぐ】雑司ヶ谷の「スカートめくり」《海鈴のアイデアクリップ》
「じゃあ、また後ほど!」
その日、「天狼院STYLE表参道」でのお手伝いを終えたのち、私は表参道の大通りを歩いていた。
さわやかな秋晴れの休日の表参道には、たくさんの人が行き交う。
つややかなロングヘアーを風になびかせ歩く、赤のスカートを身にまとった痩身な女性。
アップルの最新機種を片手に電話をする、やり手そうなビジネスマン。
モノクロで全身をまとめたおそろいのコーディネイトで、仲良く歩いているカップル。
ここに来ると、目の筋肉がちょっと痛くなる。
色とりどりの街の風景に目を奪われて、あちこち目線が飛んでしまうのだ。
万華鏡みたいだなと思う。
街のひとつひとつがカラフルな模様をつくるモチーフになっていて、二度と同じ配列がそろうことはない。
人の波に逆らうようにして、私は東京メトロ・明治神宮前駅の階段を下っていく。
履いているスカートを少し押さえながら、転んでしまわないよう一歩ずつ足を踏み出す。
改札をくぐると、ホーム内に「STYLE from TOKYO」の看板が大きく貼りだされているのが見えた。
なんてすてきなイラスト。惚れ惚れしながら、横切っていく。
灰色のやじるしが指す方向へ向かっていくと、「副都心線 池袋方面」という、よく見知った表示が見えた。
下りのエスカレーターに乗りこむ。
副都心線のホームがつづく先は、はるか遠くに見えた。ほかのどの路線よりも、深く深く地下へと潜っていくのが、この副都心線だった。
すこしずつ高度を下げながら、なにか私は不吉な気配を感じていた。
根拠があるわけではない。
ただ、じんわりと、どこか良くないことが起きそうな予感がしていた。
いちど乗ってしまったら、もう戻れない。エスカレーターは底なし沼への入り口に続いていて、私の目の前で大きく口を開けているようだった。
足の重みを振り払うようにして、エスカレーターからホームに踏み出す。
ちょうどよく「池袋方面」の電車がホームへと滑りこんできた。
はやく帰らなければ。
電車が停止し、ドアが開くまでのわずかな時間さえももどかしく感じられた。ただ立っていることもわずらわしく、体重をかける脚を2、3回、変えた。
やっと乗り込めたというのに、電車の中は混み合っていた。座る場所もない。
舌打ちをしそうになる気持ちをこらえて、ドア脇のスペースに体を収める。
気を紛らわせようと、カバンからプレーヤーをひっぱりだし、音楽の世界に潜り込んだ。
北参道、新宿三丁目、西早稲田・・・
時間調整なのか、ときどき、途中の駅で電車は停車した。
そのたびに、私はイヤホンから流す音楽を変えた。
停車時間はそんなに長くないはずなのに、もう何十分も止まったままのような気がした。
「お待たせしました、発車いたします」
アナウンスが忘れたころに聞こえてきて、電車はがたんという音を立てひどく億劫そうに動き出した。
電車の揺れに身をゆだねながら、私はまぶたを閉じた。
もしも、と私は思う。
たとえば、ほんの少しでもタイミングや巡りあわせが違っていたら、自分の運命はまったく違ったものになっていた、なんていうことは、意外とよくあったりするのではないか。
もし、私の留学先が別の学校だったら、私は天狼院で働くことはなかったかもしれない。
もし、「天狼院STYLE表参道」店長である草さんが、あの日あの場所で、店主の三浦さんとすれ違わなかったら、こんなすてきな出会いはなかったかもしれない。
もし、私が自転車で転んだとき、少しでも打ち所が悪かったら、いまこんなふうに立って歩くこともできなかったかもしれない。
もしも、もしも、もしも・・・。
今となっては起こりもしないような「もしも」のことを考えると、おもわず身ぶるいしてしまう。
今の自分の運命とまったく違う運命なんて、怖くて考えられない。
「・・・がやー、ぞうしがやー」
どこか聞き覚えのある名称が、耳に入ってきた。
そうだ、ここが私の降りる駅だ。
思考を一気に現実へと戻していく。降りる人は、私のほかにはいないようだった。ドアからするりと抜け出し、閑散とした「雑司ヶ谷駅」のホームに降り立った。
やはり、いつも使う馴染みの駅は、どこか落ち着く。
ほっと肩をなで下ろして、私は地上へとつづくエスカレーターへと向かっていった。
雑司ヶ谷駅のエスカレーターは、黒っぽいモダンな壁に挟まれていて、いかにも新しくできた駅、という感じがする。
はるか見上げる先には、地上へとつづく道が見えた。表参道で感じていた予感は、どこにもなくなっていた。
ああ、もう少しだ。
何事もなく、早く家に着けばいい。
エスカレーターの登り坂も、ちょうど真ん中を通り過ぎたところに来ていた。
その時だった。
下のほうから、何かが低い音を立てながら上がってきているのが分かった。
瞬間的に、私は察した。
これは、やばい。
表参道で感じた、あの言いようのない不安が蘇ってきた。私の勘は、やはり間違ってはいなかったのだ。
それは横をすり抜けていったかと思うと、一気に私の履いているスカートをめくり上げた。
声を出す間も、抗う間もなかった。
スカートをめくり上げた犯人は、そのまま何も言わず地上へと抜けていき、そして消えた。
もしも、と私は思う。
もし、私が今日、スカートを履いてこなかったら、こんなふうに狙われることはなかったかもしれない。
もし、私が今日、副都心線を使わなかったら、エスカレーターでこんな思いをすることはなかったかもしれない。
もし、私がもう一つ遅い電車に乗っていたら・・・。
今となってはどうすることもできない「もしも」が、エスカレーターを上る私の脳裏を埋めていった。
あとにはただ虚しさだけが残っていた。
そう、「雑司ヶ谷駅」には、いるのだ、スカートめくりの常習犯が。
それは、分かっていても、いつやって来るか分からない。本当に、突然の出来事なのだ。
「そんなこと、起こりっこないでしょ」と思っても、狙われてからでは遅い。
エスカレーターに乗り込んでからが、要注意である。乗ってからすぐは何ともないように思えたとしても、そこから一気に、やつはやってくる。
だから、できるだけ用心しなければならない。
その正体は、人間ではない。
「風」だ。
東京天狼院にいらっしゃる方々へ、私から注意を喚起しなければならない。
副都心線「雑司ヶ谷駅」を使って来る際には、ぜひとも気を付けていただきたい。
ほかの路線よりとびきり深いところに作られている副都心線は、電車のホームから地上までの高低差がかなりある。
そのせいで、エスカレーターを上がっているときの、地下から地上に吹く風の強さは、尋常ではないのだ。
押さえていないと、膝ちょっと上くらいのスカートであれば、瞬殺である。
私も、何度もヤツに技をお見舞いされてきた。
誰かといるときなら「きゃ~」とか「あれぇ~」とか言いながらふざけてごまかせる分まだ良いものの、一人でいるときにお見舞いされてしまえば、もうどうしようもない。ただひたすら一人で耐えるのみである。
その恥ずかしさは、一人で何もないところでコケてしまったときの、あの虚しさ・やるせなさと同等に匹敵するものだと私は思う。
東京天狼院へいらっしゃる方々、とくに女性の方々へ告ぐ。
「雑司ヶ谷駅」を利用するときには、スカートではないパンツスタイルをおすすめする。ただし、どうしてもスカートでないといけないときには、360°がっつりガードするか、あるいは潔く諦めて、見せてもいい下着をつけるしか方法はなさそうである。
なにとぞ、ご用心を。
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