『わからない』と諦めるところから始めたい
記事:永井聖司(チーム天狼院)
そもそもは絵やアートに、全く興味がない子どもだった。
美術に関係や興味のある家庭でも無かったし、図画工作の成績表はいつも2か3だった。絵を描けば描いたで、自他ともに認める『下手』だった。
なにかの拍子に、デパートでやっている展覧会だったりに迷い込んだ時も、早歩きでグルッと会場内を一周してそれで終わっていた。滞在時間、3分足らず。
そんな僕が、ひょんなことから大学で日本美術史という学問を習い始め、平安や江戸の作品などについては徐々に見る回数が増え、見ることにも慣れてきた後も唯一、苦手なジャンルがあった。
『現代アート』だ。
会場の一角に花が置かれているだけだったり、絵画にしたってなにが書かれているかわからない作品だったり、ただただロボットが動く映像を見せられたり。何を見ればよいのか、全くわからなかった。
平安や江戸の作品ならばまだ、見方がある。色の塗り方や顔や髪の描き方を見たり、当時の時代状況を踏まえながら制作過程について考えたり、考え方の基礎みたいなものが出来ていたが、現代アートにはまるで歯が立たなかった。
そもそも何が描かれているのか、何をどう読み取れば良いのか、そもそも読み取るための手がかりは何なのか。何一つとしてわからなかった。
『わからない』
そこで諦めていた。
『どうせわからないから』
と、しっかりと見ようともしていなかった。
現代アートを見る知識がないから。バカだから。様々理由をつけて、美術に全く興味がなかった頃と同じように、早歩きで会場を回ってそれで終わることもしばしばあった。
そんな時に、1つの作品に出会った。
『なんじゃこりゃ』と思った。
何のことか、まるでわからなかった。何が起きているのか、どういう意味なのか、どんなメッセージがあるのか。何一つわからなかったけれど、なぜか足止まり、吸い寄せられた。
派手なピンク色の画面に料理か何かがぶちまけられている。吐瀉物のようにすら見える。
汚らしい、とさえ一瞬思った。
何故か、吸い寄せられた。
その場から動けなくなり、考えた。作品をよく見た。どんなものが置かれているか、キャンバスの上で何が起こっているか、何があるか、どんな意味か。
多分、5分ぐらいはその場にいただろう。
いつもは、展覧会全体を3分足らずで走り去っていた自分が、1つの作品の前に立ち、見続けていた。考え続けていた。
そして離れる時に1つの考えにたどり着いた。
『わからないや』
説明書きも何もない作品では、やっぱりどうしたってわからなかった。
でもそれは、白旗ではなかった。いつものように、『わからないから』と諦めるのとは違った。不思議とずっと頭に残って、考えている。7年ほどだった今でも、忘れずに頭の中に残っている。そして考えている、
『わからない』と諦めることが終わりではないのだと思った。『わからない』と諦めることが始まりだと思ったのだ。
それからは、現代アートを見るのが楽しくなった。
『わからない』と、諦めることから始めるからだ。
一つひとつの作品の前に立った時、大体5秒ぐらい全体を見た後に、諦める。『ああ、やっぱりわからない』と。
そしてそこから、よく見はじめる。考えはじめる。
作品の細部を分解して見始めて、何があるかを確認する。どんな素材が使われているか、どんな色か。何を表しているのか。
そしてそこにどんな意味があるのかを『想像』する。あくまで『想像』だ。
だってそこに、答え合わせをしてくれる人もモノもないのだから。
そして自分の中で、こういう意味なのかな? や、こんなメッセージが込められているんじゃないだろうか? と考えて、終わる。
その間、作品によっては20分ぐらい見続ける時もある。
そしてそんな風に現代アートを見続けていたら、実生活にも影響が出てきた。
『わからない』
と、諦めるのが、早くなったのだ。
取引先や同僚や友人や、様々な理不尽に出会った時、理解できない行動や感情に出会った時、すぐに『諦める』ようになった。
そして、気持ちの上でとても楽になったのだ。
『わからない』からどうしよう? と考えるようになった。
『わからない』から、別の考え方や伝え方をしなければいけないと思うようになった。
『わからない』から、自分が変わらなければいけないと思うようになった。
『わからない』ことが当然なのだと、思うようになった。
わかり合おうとすることを、諦めたわけではない。
ただ、わかり合おうとするためのスタートラインを、変えただけだ。
『わからない』ことを前提に、全てを進める。
それだけで、イライラすることも、だいぶ少なくなった。何かが起きても、気持ちの切り替えが早くなった。
だって、『わからない』から。悩んでも仕方がないのだ。
悩むのではなく、『わからない』状態からどうすれば抜け出せるか、考え、行動するしかない。
そういう結論に、結局たどり着くのだ。
その上で、『キライ』なものは『キライ』のまま、『苦手』も『苦手』のまま、『わかりあえない』としても、それはそれとして受け入れる。
わかりあえたなら幸運だと、思えば良い。
『わからない』ことが『わかる』ことでこんなにも楽になるのだと、気づくことが出来て、本当に幸せだったと思う。
『わからない』
現代アートと是非、向き合ってみてほしい。しっかりと。
なにかが変わるはずだと、僕は確信している。