チーム天狼院

【京都天狼院通信Vol5:ドクダミと魔女〜私の思う美しさについて〜】


記事:池田瑠里子(チーム天狼院)

人の記憶の扉は、思いもよらないもので簡単に開くことがある。きっかけは、何かの匂いだったり、音楽だったり、食べ物だったり。その記憶の扉が開かれると、タイムマシンに乗ったかのように、その時の光景や、自分の感情が戻ってくる。

私にとって、そのきっかけの一つが、ドクダミの花だ。ドクダミの花を見るたび、毎回、私は小学5年生の頃の自分に逆戻りをする。そして、忘れられない1人の「魔女」を鮮明に思い出す。

そう、その先生は、私たち生徒から、「魔女」と呼ばれていた。

小学5年生の新学期、クラス替えもあって騒がしい教室に入ってきた転任のその先生に会った時の衝撃は忘れられない。真っ黒いマキシ丈のワンピース、長く伸ばして先がゆるくカールした黒い髪、そして、少し切れ長の瞳。まるで、オズの魔法使いの絵本から出てきたかのような、どこかの魔女のような見た目。

見ようによっては40代にも60代にも見えるその容姿だけでも衝撃的だったのに、挨拶もそこそこに、「みなさんは、つるつるの飴玉みたいな人ではなく、ごつごつした金平糖みたいな、短所があっても長所もたくさんあるような、楽しい人になるように心がけなさい」なんて言ったもんだから、この先生は言うこともかなり変わっている、と子供心に初日から思ったことをはっきり覚えている。

「魔女」と呼ばれる所以は、その最初の挨拶どおり、見た目だけではなかった。授業も大変、変わっていた。ちょうど中学受験が世間的に流行り始めていた時期で、学校の授業も、中学受験に合わせた受験勉強のようなカリキュラムが始まった頃だった。それにも関わらず、「魔女」はそんな中学受験とは全く関係のない、受験勉強からは無縁で無駄と思われるものに時間をかけることが多かった。そしてその時間は、大切なことを教えてくれる「魔法」に溢れていた。

たとえば、自分の好きな絵を、模写する授業。私は大好きなゴッホの糸杉を模写したし、モネを模写する人、ルノワール、ピカソ、ムンク……教室にはそれぞれが好きな有名な作品たちが溢れかえった。小学生だから、油絵絵の具ではなくクレヨンや水彩絵の具を使って絵を描いたが、想像以上に楽しかったのを覚えている。ゴッホのタッチを真似するために、クレヨンとアクリル絵の具を駆使して試行錯誤しながら、必死に絵に向き合った時間。そうやって絵と向き合うと、ゴッホもピカソも、まるで友達のように身近に感じることができることを教えてくれた時間だった。

たとえば、誕生日のクラスメイトに、一人1枚A5の用紙に手紙を書き、それを貼り合わせた本をプレゼントする授業。誰か誕生日が近い人がいるたびに、毎回授業時間1時間を使ってその本の作成をした。手紙をじっくり誰かに書くことなんて現代ではあまりない。ましてやあまり話さないクラスメイトならば特に。でもそうやって誕生日を祝うために、贈る言葉を探していると、クラスメイトの普段は気がつかないいい部分に目がいくから不思議だ。私はその手紙を書く時間が、すっかり好きになっていった。

そして、たとえば、季節の花を写生する授業。スケッチブック片手に、教室から飛び出し、近くの公園にみんなで行き、テーマの花をスケッチする、という時間。

ある時、そのテーマの花が、ドクダミの花だったのだ。

私は、ドクダミの花が、嫌いだった。きつい、お世辞にもいい匂いとは言えない、独特の匂い。一つだけでも結構なかおりにも関わらず、群生するために道路いっぱいに、そのちょっと不快なかおりが漂う。そして、踏みつけても踏みつけても全く折れない強い茎。茎の色も少し赤みを帯びていて、なんだか気持ち悪く思う。好きなところなんか一つもない花だった。

だから、その時、写生のテーマがドクダミだと聞いて、最初私は嫌だなと思った。なんでドクダミなんて美しくもない雑草のような花を、描かなければいけないんだ、と。

それでも、写生の時間は、スケッチブックに向かわなければいけない。渋々スケッチブックに向き合い、ドクダミの花を描き始める。そして描き始めてよく観察する中で、ドクダミってこんな花だったんだと、初めて気がついた。

白い花弁、黄色い雄しべと雌しべ、花の割に大きな葉っぱ、まるでトトロが持っていそうな……。意外と可憐なその花を、描けば描くだけ少しずつ好きになっていき、授業が終わる頃にはすっかりドクダミの花に親近感を抱いている自分がいた。あの、嫌だと思っていた匂いも気にならない。まるで魔法みたいだと思った。嫌いなものを、1時間足らずでちょっと好きにしてしまうのだから。

教室に戻った私たちの表情を見ながら、「先生はドクダミの花が好きです」と魔女は切り出し、そしてこう続けた。

「ドクダミの花は、匂いがあまりいい香りじゃないから、みんな嫌ってあまりよく見ないでしょう。でも今日写生をしてもしかしたら、意外と綺麗だ、と思った人もいるかもしれません。これは、花だけではなく、いろんなことにも言えます。絵も、小説も、人間もそうです。もしみなさんが、何かを嫌いだと思った時には、ぜひ、今日のドクダミの花を思い出して欲しいなと、そう先生は思います」

あれから15年近く経った今でも、ドクダミを見るたび、私はあの時ドクダミを綺麗だと言った先生を思い出す。

その言葉は、私の中で未だに消えない魔法である。

_______________________________

この文章は、私がライティング・ゼミ受講生時代に課題として書いた文章です。

(当時、掲載OKと言われたにもかかわらず、恥ずかしいと、一度もHPにアップしなかった掘り出し物の一つであります)

読み返してみて、懐かしいなと思うと同時に、私にとっての、「美」に対する価値観は、この小学生の時の経験に遡るんだなと改めて思います。

私が美しいと思うもの。

四条大橋と空。色とりどりの花。きらきらしたネックレスやピアス。真っ赤な口紅。ぴちっとそろった本の背表紙たち。

そういったものだけではないのです。

盛りを過ぎて落ちて誰かに踏まれて汚くなった、椿の花とか。

片耳しかなくなってしまった、壊れたイヤリング とか。

読み込み過ぎて、さらに日に焼けて、色あせたぼろぼろの本とか。

一見したら、だれも見向きもしないような、そんなものたちにも、「美しさ」を感じようとして、そして感じる自分がいます。

きっと私の中で、あの時の先生の言葉がずっと残っていて、

私自身の物差しの美しさの基準が、できているんだなと思います。

誰かが決めた美しさではない、自分にとっての「美しさ」。

もしかしたら私の思うその美しさは、誰にも理解されないのかもしれないけれど、

そうだとしても、そんなふうに、世界を切り取ることができる自分が、ちょっとだけ誇らしく、そしてちょっとだけ好きです。

これからも私は、日常生活に落ちている、たくさんのものを美しいと思って、生きていくんだと思います。

明日は、どんなきらきらした「美しさ」が私を待っているのだろう。

魔法が消えないように、いつでも心にしまっておきながら、

私の目の前で美しく輝く世界を、明日も生きていきたいと思います。

***

天狼院書店の文章教室「ライティング・ゼミ」にご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

http://tenro-in.com/event/103274


関連記事