チーム天狼院

「名作」って何?みんなが「面白い」と思えば名作なのか?それとも専門家が「これは名作です」と言えば名作なのか?《川代ノート》


名作

たとえば、私は村上春樹が好きである。
長編はもちろん、短編も好きだ。高校の頃は図書館にこもって村上春樹全集を一から読み進めるのが放課後の楽しみだった。
大学に入り、村上春樹好きの友人に多く出会って嬉しかった一方、アンチ村上の人の意見も多くきくようになった。
インターネットで村上作品の感想を検索すると、「面白かった、最高!」という意見と「どこが面白いのかわからない、どうしてこんなのが売れてるんだ」という意見がまっぷたつに分かれる。半々くらいの割合である。

どの作品にも言えることだが、村上作品においてはとくに、ファンヴァーサスアンチの戦いはかなり白熱する。ファンは徹底的に村上作品のファンだし、アンチは徹底的に村上作品を叩く。ネット上だから匿名で書けることも影響してか、相当辛辣な批判も多々見られる。

「どこが面白いのかわからない」
「文体がかっこつけすぎてて虫ずが走る。読み進められない」
「知識のひけらかしばかりで結局何が言いたいのかわからない」

などなど。村上春樹の文章はたしかにくせが強いし、メタファーも多いし、ところどころジャズや映画のこじゃれた固有名詞が出てくる。ファンの私は新しく知識を吸収できるのが面白いし、彼の文体も好きなので鼻につくということもないのだが、彼の作品が「合わない」人からすれば本当に気にくわないんだろうなあということは想像がつく。
そして彼らのなかには、作品自体だけでなく村上ファン、いわゆる「ハルキスト」を批判する声も多い。何故ならそれはハルキストが「村上作品が至高でありこのよさがわからないやつは馬鹿」と他の作品を見下しているような発言をすることが多いからだと言う。だからその声に反抗するように、アンチ側も「村上春樹が好きなやつってたいてい本をたいして読まないやつだ」と批判するのである。

批判する彼らのなかには、「村上作品は運良く商売の波にのれたから売れただけ。名作ではない」と主張する。けれど私を含むファンの多くは、「村上作品は名作である」とかたく信じている。

どうしてこうも対立してしまうのだろう、と一部のファンの異常な村上崇拝や一部のアンチの痛烈な批判を見かける度に思う。人間誰として全く同じ意見を持っている人などいないし、合う合わないの問題なのだから、別にそこまで批判しなくてもいいのになー、と。

言いたいやつには言わせとけ、といわれてしまえばそれまでなんだけど、どうしても私ははてなマークを残したままではもやもやする。すっきりしないのである。

これは憶測でしかないが、ファンとアンチが重要視しているポイントは、きっと「村上春樹の作品は名作かどうか」ということなんだろう。自分の意見とあまりに違いすぎる人がいるので、無意識に「自分の感性の方が正しい」と主張しくなってしまうのではなかろうか。

誰しも好き嫌いはある。それは感覚の違いであり、「村上春樹が好きだなあ」と感じれば、同時に「村上春樹が好きな自分」にちゃんとした理由をつけなくてはならなくなる。村上作品が好きな自分の感覚は正しいと思いたくなるのは自然なことだろう。逆に言えば、村上作品をつまらないと思う感覚が正しいと思いたくなるのも普通だと思う。

「好き」というのはあくまでも感性や感情や本能の問題なのでコントロールすることはできないが、人は理性というある意味めんどくさいもんを持っているおかげで、その自分ではどうにもできない「感覚」に論理的な理由づけをして自分を正当化したくなってしまうんじゃないかという気がする。

本とか映画とか音楽とかの「文化」や「芸術」というのはどうしても好き嫌いだけではすまないところがあって、たとえば「甘エビが好きです」というのと「村上春樹が好きです」というのは、同じ「好き」の感覚でも扱いが違うように感じる。
食べ物なら何を好きだろうと批判されることはない。私が「甘エビ好きだわ」と言っても「甘エビが好きなやつってたいてい魚介類たいして食べてないよな」とか「甘エビのどこがうまいのかわからん。イカとかマグロの方がずっとうまいじゃん」と痛烈に批判してくる人はいない。私も「甘エビこそ至高。これのよさがわからないやつは馬鹿」とか言わないし。冗談で言うことはあっても、ネットで甘エビをこき下ろすなんてことはないのである。

でも「甘エビ」そのものではなく、「寿司屋」となると話は別である。「A寿司屋すごいおいしい。大好き」と私が言った場合、「A寿司屋が好きなんて、ふん、本物の寿司ってもんを知らないんだな」と馬鹿にされることは、私が「甘エビ好き」と言ったときよりも確立としては増えるだろう。「これ好きだな」「これ嫌いだな」と思う感情は同じなのに、「好き」の対象に人間の手が加わった途端、なにか人と人同士お互いを判断するある種の基準になりやすいようである。

「甘エビ」「トマト」「ステーキ」とか、人間の手が加わっていない素材としての食べ物に対してケチつける人はあまりいないのに、それが人が料理したものとなるとケチをつける人は結構いる。「食べ物」という抽象概念に対しては、「何故それが好きか」と理由づける必要はあまりないのに対し、人が手を加えるということは、その料理人の腕、センス、気合いなどによって質が変わってきて、一気に具体的になるから、自分の感覚を正当化する理由を探したくなってしまうのではなかろうか。

自分が嫌いな「セロリ」に文句をつけてもセロリは返事をしてくれないが、「自分の舌に合わなかった料理を出した料理人」に「何故それがよくないか」文句を言えば多少は気が済むし、「正しい感性の持ち主は自分である」ということをアピールすることも出来る。要は上に立った気になれるのだ。

話はそれたが、「村上春樹ファン・アンチ論争」も同じことなんじゃないかという気がする。本を読んで「ああ、よかったなあ。いい本だなあ」と思うのは感覚である。でも本として表現されたそのものは「村上春樹という人物の手が加わった作品」であり、ときには「村上春樹という人物そのもの」であり、ということはつまり、彼の文章の腕、センス、そして価値観や魂が注入されているものである。だとすればやっぱり「自分の感覚の方が正しい」と思いたくなるので、自分とは違う意見の相手に「これこれこうだから村上作品はいいんですよ」「正しい感覚なのはこちらですよ」とムキになって主張したくなってしまうのだ。

私は村上春樹が好きだし、好きだと思うことに誇りを持っても居るが、だからこそアンチの人に貶されるととても悲しくなってしまう。好きなものを否定されるだけで、自分自身をも否定されたような気がしてしまうのだ。これほどに好きだと感じるものに文句を言う人がいるということは、私の感覚は間違っているのだろうか、と不安になってしまうのである。人に嫌われるのが極端に怖い私にとっては、好きなものが否定されることすら苦痛。村上春樹でも、Mr.Childrenでも、赤毛のアンでも、ジブリでも、天狼院でも、早稲田でも。私が熱狂的に好きなものを「嫌い」と言われることは、自分が好きな人の悪口を聞いているのと同じ感覚なのだ。人それぞれ違う感覚を持っているとしても、私が好きなものは絶対に正しい、と信じたくなってしまう。だから私と違う感覚のひとをバッシングしたくなる(実際にすることはないが)。違う意見の人を認めてしまうことは、自分が正しくないと認めてしまうことに等しいと思ってしまうからだ。

でもよくよく考えてみれば、「正しい」ってどういうことなのだろう。
村上春樹論争でも、おそらくは「村上作品は名作か否か」という点で論争がおきていた。
なら「名作」ってなんなんだろう。

みんなが「面白い」と思えば名作なのか?
それとも専門家が「これは名作です」と言えば名作なのか?
構成がしっかりしていて、技術も伴っていれば名作なのか?
腕がよいことは「名作」に必須条件としてあるだろうが、でも「うまく書けている文章」というだけなら、いくらでもある。
ならば結局はセンスの問題?それともそれに込められた想い?気合い?魂?
売れれば「名作」なの?
でもそれなら純文学と大衆文学の違いって何?

村上春樹のように、世界中で売れていてかつ賞をとれるような、大衆にも専門家にも評価される作品もある。
でもAKBのように、いくら売れていても「音楽性がない」と評価されないものもある。
でもはじめは認められなくても、死後に価値が上がるようなゴーガンの作品もある。

どれが「いい」とされるか、なんて、結局は誰にもわからない。

なにが正しくてなにが間違ってるの?
私は自分が「正しくありたい」と願っている。
でも「正しい」って、いったいどういうこと?
法律が正しいのか。大多数が賛成することが正しいのか。それともそんなもの関係ない、なにもかも超越した者しか知り得ない「普遍的真理」というものがどこかに存在するのか?

それがあるならば私はこの手で掴みたいけれど、本当に「真理」なんて存在するのだろうか?

そうぐるぐる考えていると、堂々巡りである。
何が名作なのか。何が面白いのか。
何が正しいのか。自分は正しいのか。

まったくわからない。どの質問にも答えられない。
でも今私が出せる答えがあるとすれば、ただひとつ。

人それぞれ価値観は違う、ということ。

当たり前の事のようだが、私はいかにこれを忘れて生活しているだろうか。
私は常に「自分の考えが絶対に正しい」と思って生きてしまっている。実際に、そうでも思っていなければ自信を持って発言なんて出来はしないのだ。

でも「村上春樹は名作だ」というのはあくまでも今の私にとっての真理でしかないし、私が「嘘をつくのはよくない」というポリシーを持っていたとしても、「ウソも方便だよ」と言う人もいる。どんな行動をして、どんな発言をするのが絶対に正しいなんてことはないのだ。今の私がそう思うだけであって、明日の私は違うことを新庄としているかもしれないし。明日になったら村上春樹が嫌いになって村上龍の大ファンになっているかもしれない。

だから、他人の考えが自分の考えと違ってもそれは当たり前なのだ。そもそも同じ「私」という人間でも今日と明日で変化するのだから、まして他人同士なら意見が食い違って当たり前である。それなのに「絶対に村上春樹は名作!そのよさがわからないなんて馬鹿!」なんて、ずいぶん厚かましいことを考えてしまっていたなあと思う。

人は「合う、合わない」の問題を「正しい、間違っている」と混同させがちである。実際のところ、共通した「正しいこと」なんてほとんど存在し得ないのではないかと思う。もちろん「殺人はよくない」というのは真理のような気もするけれど、時代によっては「殺してあげる方がその人のためによい」と主張する人もいるかもしれないし、人を傷つける行為に関しても、「傷ついた分だけ成長できる」と敢えて傷つけている場合もあるかもしれない。それは行動している本人にしかわからない。「正しいこと」はあくまでも「自分にとって正しい」だけなのだ。

「自分は正しい」と思うのは自分を信じてあげることだから必要だとは思うが、イコール自分と違う価値観は間違っている、と認識してしまうとずいぶん文句だらけの生きづらい人生になってしまう。人それぞれ価値観からセンスから技術から何もかも違う。もしかしたら私も明日には嫌いなあの子の価値観に共感する出来事があるかもしれないのだ。

他人を否定することは、過去の自分や未来の自分を否定してしまうことになりかねない。本や映画や芸術など作品そのものを客観的に分析するのも、自分の感覚に理由付けするのも面白いし、作品自体も評価されることを前提としているから構わないとは思うが、他人がそれを「好き」「嫌い」とどう感じるかは人の勝手である。だからファンもアンチも、いずれにせよ作品を通した先にいるオーディエンスの悪口を言うのはいかんなあ、というのが最近の反省である。私ときたら、「村上春樹が好きじゃない人とは仲良くなれない!感覚が鈍いに決まってる」なんて勝手に決めつけていたもんね。今周りにいる仲のいい人のほとんどは村上春樹は好きじゃないと言っているというのに。

文化だけでなく、人の手が加わったもの、たとえばお店とか会社とかなんでもそうだけれど、というのはストレートな言葉で評価されやすい。まるで評価する私たち自身が立場が上になったかのように好き勝手に発言してしまう。でも言葉の選び方によっては、それを通して多くの人を関節的であるにせよ傷つけてしまう場合もある。

もちろん「そんなもん、言いたいやつには言わせとけ」と割り切ってしまえばそれまでである。でも私はそういう風に捉えていると、自分も好き勝手に上から目線に言ってしまいそうで怖いのだ。あくまで「合う、合わない」の問題であって、作品に対して評価している人もあくまで「私の意見としては、こう思います」と主張できるだけなのだ。自分が言ったことは必ず正しいので、それに気が付かない人は馬鹿ですという風な態度はなんとなく「フェアじゃない」気がする。何が正しいかなんて、神様にも判断できないことだというのに。

結局ここに書いてきたことも、私の「一意見」にすぎなくて、単純に川代はこう思うんですが、どうですかねえ、と投げかけることで精一杯だ。私もこれまで書いたことがすべて絶対に正しいと言える自信はないし、明日になったら自分の考えも変わっているかもしれない。

でも無知の知じゃないけれど、「自分はもしかすると間違っているかもしれない」と謙虚な姿勢を持っているだけで、人付き合いはだいぶよくなるんじゃないかと思うのだ。そう意識したうえで、それでも今は自分の正しいと思う道を行こうと信じて生きている人と、根拠もなく自分が正しいと思い込んでいる人とでは成長の度合いもまるで違う。矛盾しているようだが、「謙虚さ」と「誇り」はちゃんと両立できるものなのだ。凝り固まった偏見を捨ててものごとを見られるようになりたいものである。

とはいえ、やっぱり私は村上春樹は名作だと思います、単純に。あくまでも一意見ですけどね。

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2014-09-09 | Posted in チーム天狼院, 記事

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