誕生日は、自分の価値をはかる日?《川代ノート》
誕生日って残酷な日だなあ、と思った。
私ごとで非常に申し訳ないが、11月11日は私の誕生日だった。ぼんやり生きてきた私もいよいよ22歳。1と2がぞろ目で並んで、ちょっと特別な感じがした。
それはさておき、承認欲求が強い人間にとっては、誕生日ってある意味スゴく残酷で無慈悲な日だよなあ、と私は思う。私の友人ならもう分かり切ったことだと思うが、私は非常に承認欲求が強い人間である。褒められるの大好き、妬まれるの大好き、人が寄ってきてくれるの、大好き。とにかく他人に好かれてる自分じゃないと安心出来ないのだ。だから天狼院店主の三浦のような、とにかく自分のやりたいことやるぜー!イエーイ!みたいな達成欲求肉食動物タイプの気持ちは本当にわからない一方で、いつもものすごく憧れている。
「認められたい」願望があるせいで苦しいことが幾度もあるからだ。というのはぶっちゃけ言い訳で、本音は、人の目なんか気にしないで自分の好きなこと頑張ってやってる人の方がずっと他人に好かれるだろう、と思ってしまうからだ。ほら、結局最終目的が「好かれること」になってるでしょう? 要するに、すべての価値判断基準が、人に好かれるかどうか、になってしまっているのだ。でもそう思ってると魅力的に見えないし・・・と、延々と承認欲求のループ。もうヤダ、誰かタスケテー。
さて、承認欲求が強いという事実に苦しめられる承認欲求をもつ私にとって、誕生日はある意味勝負の日なのだ。究極的に、私という人間の価値をはかる大勝負が、11月11日なのである。だから、誕生日は嬉しい反面、内心どきどきしながら、ひやひやしながら一日を過ごさなければいけない日なのだ。
11月10日から11日に日付がまたいだその0時の瞬間、メールやラインを送ってきてくれた人はいたか。メッセージはこころがこもっていたか。Facebookには何人からお祝いがあったか。直接プレゼントをくれた人はいたか。プレゼントの中身は? ふんふん、これならいくらくらいかな・・・。サプライズしてくれた人は?
うわ、こんなに気にするなんて小さい女、と思っただろうか。うん、私もそう思う。なんて小さくてメンドクセエ女なんだと思う。でも、誕生日っていうのはやっぱり、自分がどれだけ価値があるかをはかる日なのだ、承認欲求かいじゅうの私にとっては。だって誕生日おめでとうの気持ちというのは、数で、もので、明確に、具体的に現れてしまうものだからだ。
誕生日は、自分の価値が具現化した日である。普段なかのいい友人がプレゼントをくれなかったら落ち込むし、好きな人が誕生日を忘れていたら大ダメージだし、誕生日に何も楽しい予定がなかったら必死で誰かをつかまえてお祝いしてもらおうとする。そうでもしないと、誕生日にもかかわらずかまってもらえない自分はよっぽど魅力のない人間なのかと不安になってしまうのだ。
普通の日に、愛のメッセージをもらえなくても別に問題はないが、誕生日にもらえないとなると、言い訳が出来ない。どう頑張っても特別になれない自分を認めなくてはならないことになる。
だから誕生日に金がかかってそうなプレゼントをたくさんもらえたり、深夜0時にメッセージを送ってくれた人がいると嬉しくなったり、一緒に過ごしてくれる人がサプライズをしてくれると嬉しくなる。それは自分に価値があると安心できるから。でも、そういう「理想の誕生日」を過ごせなかったら怖いし、寂しい誕生日をおくっているひとだと思われるのも嫌だから、はじめから予防線をはっておく場合もある。「あ、そういえば今日誕生日か、わすれてた笑 メッセージもらってから気づいたよー」などとつぶやいてみたりする。別に誕生日なんて気にする小さい女じゃありませんよということを、さりげなあああくアピールしてみるのだ。
とにかく毎年、そわそわして過ごした。親友が自分よりもたくさん、お祝いされているのなんかを見ると焦ったし、嫉妬した。
2014年、11月に入って、あ、もうすぐ誕生日だ、と思った。また今年もどきどき、人に会うたびに一喜一憂しなきゃならんのか、と不安にすらなったし、緊張もした。しかも、11日にはバイトと授業だけで、誰と会う約束もなかった。天狼院にも都合悪く、シフトが入っていなかった。夜の予定も何もなかった。ああ、もう、寂しい誕生日を過ごすのか、やだなあ。天狼院にきて祝ってもらおうかな。でも、暇なやつって思われたくないし・・・。
ぐるぐるといろんなことを考えていて、日々の忙しさに追われていると、あっという間に十日がすぎた。
10日の夜。日付が変わった瞬間、私にメッセージをくれた人がいた。たくさんではなかったけれど、何人か、いた。
「お誕生日おめでとう!素敵な一年を過ごしてね。これからもよろしく!」
そんなメッセージとともに、かわいい女の子のスタンプが添えられていた。
朝になると、Facebookにお祝いメッセージがたくさん書き込まれた。うわあ、全部にありがとうって返すの大変だなあ、と思いながらも、にやにやしながら返した。なかには、ほとんど話したことのない人も、いた。
授業にいくと、誕生日おめでとう!と友達が言ってくれた。ポッキーをくれた子もいた。
私はそのまま寄り道もせず、誕生日らしからぬ本、山田詠美の「ひざまずいて足をお舐め」を電車で読み、ちょっと官能的な気分に浸りながら帰った。
「おかえり、22歳のさき!」
家に帰ってドアをあけると、愛犬がダッシュで走ってくる音と母の声がきこえ、ぷうん、と醤油とにんにくのいい香りがした。
夕飯は、私の大好物のからあげだった。私は母に「何が食べたい?」ときかれると、 真っ先にからあげと答えるくらい、母のからあげが大好きなのだ。母はそれをちゃんと覚えていて、私が何も言わなくても、用意してくれていた。
てんこもりの千切りキャベツと、じゅわじゅわと音がなる、味のしみたからあげにレモンをかけて、それだけで幸せなのに、母は中とろの刺身も出してくれた。わあ、なんて贅沢、なんて言いながら、父と母と三人でテレビを見ながらご飯を食べた。
イチゴのショートケーキは、私が一番多く食べた。犬がよこせよこせとひざをひっかいてきてうるさかったので、ほんのちょっとだけ、クリームをとってあげた。
食後に母と録画していた石原さとみのドラマを見て、あー、かわいいねえなんて言いながら、ちょっとだけシャンパンを飲んだ。
ゆっくりとお風呂に入って、ふかふかのお布団に入って、今日という一日を思い出した。
特別なことはとくになかった。いつも通りの日だった。高級な誕生日プレゼントも、サプライズも、なかった。
でも、私はなんだか、ああ、誕生日って、いいなあ、幸せだなあ、と、素直に思えたのである。
誕生日は、自分の価値をはかる残酷な日なんかじゃなくて、きっとみんなが、自分の幸せの一部を少し、分けてくれる日なのだと思った。無事に二十二年間も生きてこれたこと、それを少しでも感謝して、「おめでとう」と声をかけてくれる人がいるのは、なんと幸せなことだろうか。
今年、私は、祝ってくれる人が少ないとか、私は愛されてないとかなんて、ちっとも思わなかった。自分のために時間をさいてくれる人がこんなにいるということ自体が、とっても嬉しかった。
ようやくそう思えるようになった私は、あ、この一年でちょっとは、成長できたのかもなあ、と少し自信がわいた、とっても素敵な、ぞろ目の、22歳。
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