親にまったく反抗したことのない私が、22歳で反抗期になって学んだこと《川代ノート》
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反抗期を経験したことは、ありますか?
私はありません。より正確に言えば、つい最近まで、ありませんでした。まったくと言っていいほど。中学二年の頃、ほとんどの友人が「親ウザイ」と言っていたときですら、私はうまく想像できませんでした。
というのは、私と母は昔からとても仲が良いのです。母は子育てにとても熱心な人で、私に並々ならぬ愛情を注いでくれました。私がやりたいと言ったことはなんでもやらせてくれました。借金をしてでも、休みなしで平日と土日、仕事を掛け持ちして働いてでも、母は私を優先してくれました。英会話、お絵かき教室、テニススクールなどの習い事にも通わせてくれましたし、私がほしがる本は全部買ってくれましたし、中学の頃、私が勉強を一切やらないで遊び呆けていた時も、勉強しろとは一切言わず、友達との時間を大切にしなさいと言いました。
「紗生がやりたいことを、全力でできるように」。母はいつもそう言っていました。だから私が何かをやりたいと言ったときには、反対することはありませんでした。私立の大学に行きたいと言ったときも、アメリカに留学したいと言ったときも。「お金が無いからだめ」などとは、一切言いませんでした。幼い頃からそうやってやりたいことは何でも挑戦させてもらえていた私は、それがどれだけお金のかかることなのかなんて、想像もしていなかったのです。母親という生き物は毎日朝から晩まで、家にはいないで働いているものだと思っていたし、祖母の家に預けられることや、自分で鍵を持ち歩いて一人で誰もいない家に帰ることは、至極当然のことだと思い込んでいたのです。
母がなぜそこまでして、私に「紗生はどうしたい?」「紗生が決めていいよ」と言ってくれたのかというと、母自身が厳しい両親のもとで育てられた経験があり、子供のことを芯から理解してあげられる母親になりたい、という強い意志を持っていたからでした。母が幼い頃からしつけが厳しかった母の両親はもちろん、母のためを思ってやっていたことだったのですが、当人はむしろ、「親に自分のことを理解してほしい」というもやもやとした感情を長年くすぶらせることになってしまったのです。そのおかげで、わかってもらえないならいっそ、と自分の好きなことを追いかける道を選ぶようになりました。両親を好きだからこその、反発心でした。
結果として、母は両親が心配する視線も無視して、自分の夢を追いかけるようになりました。親がすすめようとする堅実な道ではなく、自分が大好きなことを全うする道を選んだのです。そして、母はその日その日を楽しく生きられればいいと思うようになりました。「今」その瞬間を、一瞬一瞬を楽しもう。それが自分の生き方だと信じていたのです。
けれど、そんな生活はそううまくはいきませんでした。
母は失敗しました。ちょうど結婚し、私が生まれようかという頃のことです。そのときそのときで何も考えずに感情にまかせ、やりたいことだけをやっていたせいで、母には人に認めてもらえるような知識や知恵や証明がなかったのです。母は路頭に迷うことになりました。幸せな生活から一転、なりふりかまわず、職を選ばず、とにかくがむしゃらに働かなくてはならなくなりました。好きな仕事じゃないからいや、なんて言ってはいられなくなったのです。そのときようやく母は、その場しのぎに自分の欲に従って生きるだけでは駄目なのだと気が付きました。母にとって、とても大きな挫折の瞬間でした。
なんとかして、生きていかなければならない。生きて。大切な、この子を守るために。
もしかすると、だから母は、私に紗生という名前をつけたのかもしれません。とにかくちゃんと生きてほしい、と思ったのかもしれません。
母は、私が生まれたとき、こう考えました。
この子には、自分のやりたいことをなんでもできるような環境を与えてあげたい。
もちろん今好きなことを精いっぱいやってほしいのはもちろんだけれど、もしいつか本当にやりたいことが見つかったとき、きちんとものごとを分別する力がなければ、私のように死に物狂いで働かなくてはならなくなる。
それならこの子の選択肢が増やせるように、ちゃんとした教育だけは、与えてあげたい。
いざというときに、自分の夢を、諦めなくてすむように。
そう思って、母はそれまで集中していた自分のやりたいことも何もかも捨て、私を育てることにだけ集中するようになりました。
私が将来、自分のような苦しみを味あわないために。
母は、教育書を何冊も読み漁り、さまざまな学者による教育論を調べつくし、何がもっとも私のためになるのかを考えて育てました。そして、私とじっくり話す時間を持つことを、ひとときも惜しみませんでした。どんなに仕事が忙しくても、疲れていても、母はマイナスな言葉は発しませんでした。もちろん人並みに落ち込んだり怒ったり、感情を高ぶらせることはありましたが、私と話すときは、いつも本当に面白がって私の話をきいてくれました。私がもやもやした感情をくすぶらせているときは、すっきりするまでいつまでも待ちました。
寝る前にはいつも絵本を読み、シルバニアファミリーのドールハウスで一緒に遊び、そして裁縫が得意だった母は、何着も手作りのドレスを作ってくれました。どんなブランドの洋服よりも、母がパターンを引き、ユザワヤで布やボタンを選んで作ってくれたドレスがお気に入りでした。
私が高校生の頃に母の言っていたことが、今でもずっと心に強く残っていて、離れません。
紗生と話すのが、紗生と遊ぶのが、紗生を知っていくのが、楽しくて仕方なかった。子育てが本当に楽しかった。だって、私が紗生を育てている以上に、私も、紗生に成長させてもらってたんだよ。子育てって、本当にいろんな気付きがあって、面白いよ。だからいつも、紗生を尊敬して育ててた。親なのに子供を尊敬するって、他人から見たらおかしいかもしれないけどさ。
いつも紗生と同じ年齢でいるようにしてたなあ。3歳のときは、私も3歳。12歳のときは、12歳。今、紗生は高校生だから、私も高校生。だから紗生が今好きな遊びもメイクもファッションも、面白いなあって思うよ。
紗生がこれから大学生になったら?うーん、どうだろうね?私も大学生になるのかな。
なりたいけど……きっとそのうち、私が追い付けないくらいに紗生は成長していくんだろうなあ。
そうしたら、もう紗生と一緒ではいられなくなるし、話も合わなくなっちゃうかもね。
どこか諦めたような目で言う母に、焦りを感じました。そんなことなるわけないよ、ずっと仲良し親子でしょ、とむきになって返したのを覚えています。
母の愛情をたっぷり浴びて育った私は、次第に母に恩返しをしたいと思うようになりました。
というのも、私が生まれた途端にひどく教育熱心になった母は、周囲から少し、冷めた目で見られているような気がしたのです。なんとなくですが、母のやり方は、世間からは認められないのかもしれないと思いました。だって、毎日暮らしていけるかもわからないときだってあったのに、自分の老後の蓄えや趣味なんかには投資せず、子供の教育にお金をつぎこんでいたわけですから、他人から見れば、「見栄張っちゃって、そこまでして子供をエリートにしたいなんて」と思われてもおかしくなかったのです。
私はなんとかして、母は素晴らしい人であると、みんなにわかってほしいと思うようになりました。母は人格者なのだと、証明したくなったのです。そして何より、母に喜んでほしいと思いました。母はそれだけ愛情にあふれているにも関わらず、自分に自信が無い人だったので、母に自信を持たせてあげたいと思いました。
そういうこともあって、私は難関の大学を受験することにしました。もちろん自分がその大学にとても惹かれていたというのが一番の理由ですが、それと同じくらいに、母に恩返ししたいというのが強かったのです。
学年でもビリをとるくらいにひどい成績だった私が、難関と呼ばれる大学に合格するような奇跡を起こせば、母は間違っていなかったのだと証明できるんじゃないか、と。
猛勉強の末、私は合格しました。
当然のことながら、母は喜びました。ふたりで抱き合って合格を祝いました。
それが転機でした。
合格発表日をきっかけに、母はどんどん変わっていきました。それまで感情の起伏が激しかったのが、他人にひどいことをされても大抵の事では怒らなくなり、毎日笑顔で幸せそうに過ごすようになり、きつめだった顔だちまで優しい磊落な印象に変わりました。
お母さんなんか変わったね、と私が言うと、
紗生が合格して、私、なんだか達観したみたい。紗生が本当に限界まで努力して、奇跡みたいに目標を達成して、もうこれ以上の幸せはない、って思った。本当に心から、神様と紗生に感謝しようと思った。ようやく自分に自信を持てるようになったの。ああ、生きててよかったなあ、と思った。それだけで十分。何も望まないよ。
もう人生に悔いはないかもしれない、なんて言う母にやめてよ、と冗談で言いながら私は、母に自信を持たせるという目標が叶ったのだと知りました。
けれど私は、母をこんなに喜ばせることができてよかった、ととても嬉しく思うのと同時に、どこか、母が遠くに行ってしまったような焦燥感に襲われていました。
ずっと一緒に同じ方向を向いてきた母が、私の教育がひと段落したことで、新しく自分を見つめ直し、自分自身のための人生を生きようとしているような気が、なんとなくしていました。
そして、そういう直感というのはだいたい当たるものです。私が大学に入ってサークルやクラスの付き合いが増えて家にいる時間が少なくなったということもあり、毎日のようにおしゃべりしていた私と母のふたりの時間も、徐々になくなっていきました。それでもたまの母の休みにはふたりで飲みに行ったり、深夜におしゃべりしたりすることもありましたけれど。
母が第二の人生を歩もうとしているのは寂しくはありましたが、母と仲がよく、価値観も合い、話していてとても面白いことには変わりなかったので、このままの感じで私も大人になるのかな、と思っていました。
第二の転機がやってきたのは、私がアメリカに留学したことでした。
はじめて母と離れて暮らしました。遊ぶところも気晴らしをするところもないような、森と住宅地に囲まれた、本当に小さなキャンパスでした。授業に行き、課題をし、英語の勉強をするだけの生活が続きました。
そんな逃げ場のない環境で、私ははじめて挫折を味わいました。これまで抱いていた自分へのイメージや自信がもろくも崩れ去った瞬間でした。
私は思い上がっていたのです。川代紗生という人間は素晴らしい人間であり、自分こそが正義なのだと思い込んでいたのです。私は唯一無二の価値ある人間なのだと信じ切って、周囲の人間を見下していました。他人にたいして失礼なことばかり考えていました。
けれどそんな素晴らしいはずの私は、母がいなければけっして成り立たないのだと、一人で暮らしてみて初めて気が付いたのです。母がいつも私を支えてくれ、私を認めてくれたからこそ、私は自信を持って日々生きていられたのだと。母がいなければ、私はちゃんと立つことすらできない。英語の勉強もがんばれないし、自信を持って国際交流することも、自分の意見をきちんと言うこともできないんだとようやく気が付きました。
自立しなければ、と思いました。
ひとりで生きられるようにならなければ、と。
小さな田舎町の寮の地下の部屋で、私はひとり考えました。
そして、自伝を書くことにしました。私の人生に起こったことを、事細かに、すべて書き記しておこうと思いました。
どうしてわざわざ留学中に、なんて言われもしましたが、最後のチャンスだと思ったのです。今きちんと、自分を振り返ってみなければ、一生逃げ続けることになるだろうと思いました。嫌いな部分を直視し、認め、受け入れなければ、一生このままコンプレックスに目をそむけ、偽りの「川代紗生」のイメージだけを信じ続けるだろうと。忙しい日常に流されることのない今だからこそ、やらなければ、と思いました。
3か月かかって、私はようやく、80ページにも及ぶ自伝を書き終えました。最後の言葉を書きつけたのは、帰国する飛行機の中、羽田に着く1時間程前のことでした。苦しみ、悩み、私自身を殺したくなりながらも、私は本当の自分をようやく少しはわかったような気がしました。いいところも悪いところも、これでちょっとずつ受け入れられるようになる、と思いました。
それは母の支えなしで、やっと自分の力で勝ち取った、自信でした。
そして、私はひとつのとても重要な事実に気が付きました。
母は、絶対ではない、ということ。
私は母に愛されて育てられてきました。いつも母と一緒でした。母と同じ価値観を持ち、趣味を持ち、時間を持ちました。作家も、映画も、アーティストも、全部母と共有していました。母と一心同体でした。
それがよかったのです。母と一緒がよかったのです。自分に似ていて、自分を理解してくれる人がいつもそばにいてくれて、自分を大切にしてくれるというのは、本当に居心地がいいことです。それが幸せだと思っていました。母とずっと一緒がいい、一緒じゃなきゃだめだ、と思っていたのです。
自分の人生を振り返ってみて、そして、アメリカから日本に着き、久しぶりに母と話してみて、違和感を覚えました。はじめのうちは、帰国して少ししか時間が経っていないから、変な感じがするだけかもしれないと思いました。けれど、その直感は次第に、確信へと変わっていきました。
お母さんが言うことが必ずしも正しいとは限らないんだ。
留学する前は、母が言うことは全部正しいんだと思っていました。母の言うことは絶対なんだと思いました。母と自分の意見が異なるのはおかしいとすら思っていました。なぜなら、楽だったからです。頑張らなくてもよかったからです。母が頑張っているのを見ていれば、私は自分も頑張ったような気分に浸っていました。母が苦労した経験から得た価値観を、そのまま受け売りにして自分が思いついたことのように語りました。
けれど、何度考えても、母の言うことに共感できないことも増えてきました。それまでは母の言うことなら無条件に信じていたのに、違和感を覚えるようになってきたのです。それは価値観だけでなく、趣味も同じことでした。音楽、本、映画の好みも共有していた私たちですが、だんだんと母が好きと言うものが必ずしも好きではなくなってきました。
母が、このアーティストすごくいいの、感動するよ、と言っても、それまでは素直にきいていたのが、なんだか共感できなくなってきました。
私は別に好きじゃない。
私はそれはおかしいと思う。
そうかな?そんなことないと思うけど。
母の言うことに否定することが増えました。
当然、母は不満そうでした。それまで同じ感覚で、なんでも共有できていたのが、否定されるようになったのですから、不機嫌になるのも無理はありません。母は、それならもういいよ、と言ったきりすすめてこなくなりましたが、それでも自分の好みや価値観を私に話してくることには変わりありませんでした。
私は次第に、母の言うことをはなから聞かなくなりました。母の言うことにはなんでも、「それは違うと思うけど」と言いたくなってきました。
あ、これが俗に言う反抗期というやつなのかと、私は22にもなってようやく知ったのです。
そのことに気が付いたときもちろん、動揺しました。どうしてここまで母に反抗したくなるのかわかりませんでしたが、とにかく母の言うことを聞きたくなくて、仕方なくなったのです。
母の話を聞くのが苦痛でした。何をきいても、そんなことない、と言いたくなりました。私はお母さんのようには思わない、正しいのは私なの。そう主張したくなり、ろくに考えもせずに母を否定し、傷つけました。そんな自分ははじめてだったので、ネットで情報を集め、自分は所謂「第三次反抗期」という、成人したあとに親に反抗したくなる状況なのだと、どこか冷静に分析していました。ああ、ややこしいことになった、と思いました。
私が天狼院で記事を書き、小説家になることを夢見ていることを母は知っていました。私の記事もほぼ毎回読んでいます。けれど、母は私が文章を書くことに対し、はじめは応援してくれていたものの、私が雑誌『READING LIFE』に小説を書き始めた頃から、だんだんあまりいい顔をしなくなりました。
母が私を心配しているのは明らかでした。私がこのまま会社員にならずに小説家を目指すと言いやしないか、心配しているのだろうと私は思いました。
母は自分が好きなことをやって失敗したから、私に同じような苦労をしてほしくないと思っているのだろうと思いました。だから、私が母の若い頃と同じように、夢を追いかけるのを見て、それをとめたくなったんだろうと。ちゃんと堅実な道を選んでほしいんじゃないか、と。
母が心配しているのをひしひしと感じ、それが苦痛で仕方ありませんでした。誰にも干渉してほしくありませんでした。縛られたくありませんでした。お願いだから好きなようにやらせてくれ、と思いました。
だから思い切って母に、私、社会人になったら、一人暮らしするから、と告げました。もう決めたこと、決定事項として。
しばらくの沈黙のあと、ずいぶんと思いやりが無いんだね、と母は言いました。母は怒っていました。
相談してくれるならまだしも、自分勝手だよね、と。
びっくりしました。まさかそんなに冷たく突き放されるとは思っていませんでした。
だって、私、自立したいんだもん、と母に訴えました。
一人暮らししないと自立できないの?本当に自立しようと思ったら、今からだって、家にいたってできるんじゃないの?そういうのってさ、他力本願だよね。環境に任せて自立させてもらおうなんて、おかしいと思うけど。そんなの、本当の自立じゃないよね。ちゃんと自分の力で生きて行けるようになりたいんだったら、せめて親である私をちゃんと安心させてからにしてよ。はっきり言って今の紗生見てて、一人で暮らしたからって自立できるようには到底思えないけど。それでも出て行きたいって言うなら、勝手に出てけば?止めないから。
それほど厳しいことを言う母は、久しぶりでした。
母が、私がやりたいと言ったことに反対したのは、それがはじめてのことでした。
それからはますます、母に反抗する気持ちが強くなっていきました。母がよく思っていないのはわかっていましたが、それでも感情を抑えることができませんでした。
反抗期になるべきときに反抗しなかったんだから、別にこれくらいいいじゃん、反抗させてよ。
お母さんと違う道を選んで何が悪いの。
お母さんと違う意見を持って、何が悪いの。
お母さんと私は違う人間でしょ。
私とお母さんは、同じ人間じゃないの。
もう、ちゃんとべつべつの人間なんだよ。
ずっと同じ感覚でいる必要なんて、ないんだよ。
そう言いたい気持ちがぐつぐつと胸のなかで煮えたぎって、大きくなり、今にも爆発しそうでした。母と話すとひどいことを言ってしまいそうになったので、会わないように計算して帰ったりもしました。
そしてついに私は、ひとつの結論に至りました。
そうか、お母さんは、子育てがイコール自分のアイデンティティーなんだ、と。
お母さんは、私が成功しないとだめなんだ。ちゃんとした道を選ばないとだめなんだ。自分の子育てが成功してないってことは、自分の人生がだめだって思っちゃうからだ。だから私に固執するんだ。
もう、縛られたくありませんでした。お願いだから私を解放して、と思いました。好きなようにやらせてくれ、と思いました。
第三次反抗期のことを書こう、と思ったのは、12月終わりのことでした。
口でうまく説明できない私は、文章にして母に伝えるしかないと思いました。
私はいつも、悩みは作文にして解決してきました。自伝のときだってそうです。書いている瞬間は苦しいけれど、すべてを書き終えてしまえば、私は違う視点でものごとを見られるようになっているからです。
この感情もぶつければ、すっきりするだろうと思いました。
けれど、何度パソコンに向かっても、進まない。
驚くくらい、書けませんでした。書いては消し、書いては消しをくりかえしました。
自分の想いを文章にして、母を説得したいと思いました。母を責めたかったのです。私がこうしてもやもやして自立できずにいるのは、母のせいだと思ってほしかった。申し訳ないと思ってほしかったんです。だから、作文を書いて、自分の想いをすべて書き連ねて、母に読んでもらおうと思っていました。
でもどんなに書こうと思っても書けません。
こんなにも感情があふれているのに、どうして書けないんだろうと思いました。
そんなことを思いながら、2014年が終わり、気が付くと2015年になっていました。
1文字も進まないまま年が明けました。
そしてつい、数日前のことです。
母と久々に、二人で食事をしました。グリルで焼いた鯖と、お赤飯と、味噌汁、祖母が持ってきたおしんこ。母の料理を食べるのは、そして、母と一緒に話しながら食べるのは、なんだかとても久しぶりのような気がしました。やはり祖母が届けてくれたお汁粉をふたりで食べながら、ゆっくりと話をしました。
お母さん、私やっぱりね、小説やりたいと思う。いけるとこまで、挑戦してみたい。本当に好きだから。
驚くほどすんなりと、言葉が出てきました。無意識のうちに、発していました。
そっか、うん。大変だろうけど、頑張れ。ただ、体だけは壊さないように。
思いっきり反対するだろうと思っていた母は、そう言いました。
そうです。母は、生半可な気持ちじゃなく、私が本気でやりたいと思ったことには、絶対に反対しない。
そう、衝動的に言ったことじゃない限り、反対しない人でした。そういう人なんです。本気で私に幸せになってほしいと思っている人なんです。私がどんな形であれ、幸せでいてくればそれでいいのです。
ああ、母を心配させていたのは、母が心配性だからではけっしてなく、私が心配をかけるような生き方をしているからだと思いました。
それなのに全部母が悪いと決めつけ、私をわかってくれないと思い続けていたのは、そうするのが楽だったからです。自分じゃなく、母に責任を負ってもらった方がずっと楽だから。逃げられるから。自分の嫌な部分と向き合わなくて済むから……。
母が、子育てイコール自分のアイデンティティだと思っておく方が、都合がよかった。自分が頑張れないのは母のプレッシャーがあるからだと思っておきたかったんです。
だから自分が一番悪くない結論に結び付けようと、勝手に母の歪んだ性格を妄想し、ストーリーを作り上げました。本当は母が愛情を持って私に接してくれていることをわかっていても、見ないふりをして、きっと母は母自身のために子育てをしてきたんだと思おうとしていました。
なんてひどい。意地汚いことをしてしまったんだろう。ずっと大切に育ててくれたおかあさんなのに。
おかあさん。ごめん。ごめんね。
おかあさん。
おかあさん、おかあさん、おかあさん……。
私は、本当に母のことが好きなんです。私は執着心が本当に強い人間なので、全部一緒がよかったんです。でも母が自分の知らない世界のことを語るようになって、むきになって私も自分の世界を広げようとしたのかもしれません。
でも、おかあさん、こうも思うの。
結果として、これでよかったのかもしれない、って。
私たちは、仲が良すぎて、違う人間だということを、ちゃんとは理解してなかった。本当にそっくり同じの分身みたいに思ってるところがあったから。
でもやっぱり私、おかあさんと違う人間でいたいと思う。
そうじゃないとおかあさんにいつまでも心配かけちゃうし、恩返しもできないし。
私これから、自立するよ。心配かけないように。
おかあさんに、紗生は幸せなんだって思ってもらえるように、やりたいことを精いっぱいやる。
だからおかあさんももう、私から解放されていいんだよ。
もちろん一生家族だし、親子だけど、もうおかあさんは、お母さんじゃなくなってもいいんだよ。私の母親なんかじゃなく、一人の人間として、自分の好きなことをやっていいんだよ。
いつまでも、甘えてばかりの娘でごめんね。
まだ社会にも出ていないからわからないけれど。
これでようやく私は、母を解放してあげられるのかもしれません。
22年も、私のためにひたすらに尽くしてくれた母を。
こうして考えるとやはり、反抗期というのはあるべくしてあるというのか、いくら遅れてきたとはいえ、やはり反抗期がきてよかったなと思うのです。一度は親を鬱陶しく思うというプロセスを経ないと、本当に理解し合うことは難しいのかもしれないから。
反抗期を経験したことは、ありますか?
私は、ありません。より正確に言えば、22歳まで、ありませんでした。
その真っ最中には、苦しくて仕方ないけれど、反抗してようやく得られた母との絆がありました。
依存し合うのではなく、お互い違う人間として認め合ったうえでの、新たな親子関係とは、なんとすばらしいものでしょうか。
私はリビングのソファの上でうたたねをしている母に毛布をかけるとき、なぜだかひどく、泣きそうな気持になるのです。
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*この記事は、「ライティング・ゼミ」で書き方を学んだスタッフが書いたものです。
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